「ねえ、香穂ちゃん。4月の終わりによかったら1度帰国しようか?」
「え? いいんですか?」
「ちょうど出場したいと思ってたコンクールも一区切りついたしね。
 香穂ちゃんのご両親も、きっと香穂ちゃんに会いたがってると思うんだ」  
*...*...* Star 1 (Ouzaki Ver) *...*...*
「わぁ……。なんだかすごく懐かしいです」
「ははっ。香穂ちゃんはご機嫌だね」
「はい! 聞こえる声、全部、日本語ですね。聞き取りやすい……。なに言ってるか、全部わかるの!」
 信武さんと結婚して。ウィーンで暮らして。
 1年経って私も少しはこの街に慣れたとは思うけど、やっぱり日本って、ふるさとっていいな、ってしみじみ思う。
 雑踏の中に聞く日本語は、私の心まで優しく溶かす。
 見るもの、聞くもの、すべてがまぶしく見えてくる。
 それに……。そうだ、この匂いも。
 私は、海の見える丘公園の空気を思い切り吸い込むと、信武さんを振り返った。

「そうだ。今の季節だと、ちょうど桜を見ることができそうですね」
「なに? 香穂ちゃんは桜が好きなの?」
「はい。桜って、ちょっと音楽に似てませんか?」

 信武さんはワケがわからない、っていった風に首をかしげている。
 だけど今の私は1年前みたいに慌てたりすることはなくなった、って思う。
 1年の時をともに過ごしたことで、私たちはお互い、少しずつ『相手の会話を待つ』を楽しさを知ったから。

 きっと信武さんは私の話の続きを待ってくれる。
 私は焦らなくてもいい。少しずつ、自分の言葉で説明すればいい。
 きっと信武さんはわかってくれる。
 そう信じていられることが幸せなんだ、って思えてくる。

「美しいところも、一瞬で散ってしまう儚いところも。ね? 桜と音楽って似てるでしょう?」

 ウィーンでは、ガーデニングをする人が多いのか、春にも秋にも家の軒先には、シックな花が並んでいた。
 去年、ウィーンにやってきたときにも、ほんの少しだけウィーンの桜を見ることができたけれど。
 ウィーンの風土に順応した桜は、私の記憶の中よりも、ずっと花弁が白くて淋しげだった。
 やっぱり、ピンク色に染まった、日本の桜が1番だって思うんだもの。

「香穂ちゃんがそう言うんだったら、早速明日にでも花見に行ってみようか?」
「はい! あ、そっか。今日は信武さん、たしか……」
「うん。ごめんね。今日はこれから大学でお世話になった教官と、おれの恩師に挨拶をしに行こうと思ってるんだ」
「いえ、初めからそういうお話だったもの」

 私は顔の前でブンブンと手を振ると、改めて信武さんを見て微笑んだ。
 以前……。そう、まだ信武さんを王崎先輩と呼んでいた頃。
 ファンの人たちにもみくちゃにされたり、心ない言葉を聞いたことがあったっけ。

「あ……」
「香穂ちゃん、髪が乱れてるよ?」

 突然、海風が私たちの間をすり抜けていく。
 乱れた髪を直す信武さんの指が気持ちいい。
 薬指にあるシルバー色のリングは、私が彼の近くにいることを許してくれている気がする。

 近づいてくる顔に寄り添うように頬を向ける。
 すると、いつも降ってくるはずの唇が落ちてこない。
 不思議に思って顔を上げると、そこには頬を高揚させた信武さんがいた。

「そうか。ここは日本だったね。人目がちょっとこわくていつもと同じことができなかったよ」
「あ……。そ、そうですね! ごめんなさい。そう、ですね……」

 慌てて周囲を見渡すと、そこには唖然とした表情の男の人2人連れが、ぎょっとしたように目を逸らしている。
 信武さんは小さく肩をすくめると、私の頬を一撫で して笑った。

「……まあ、この続きは今夜ってことで。香穂ちゃんも気をつけて帰ってね」
*...*...*
「そうだ。これから楽器店に行ってみようかな?」

 日本からウィーンに行ったときは時差の疲れが2、3日残って。
 そのことが不安だった私は、今度はまるっと2日、なにも予定を入れないでおいた。
 なのに、今回は想像していた疲れが全然ない。
 ぽっかり空いた春の午後。
 日本にあるすべてのものが優しく手招きしてるみたいだ。

 ウィーンにいたときに聞いたことがある。
 たしか楽器店の近くに、信武さんが大好きなケーキのお店があるって。
 ウィーンといえば音楽の国、洋菓子の国、って思えるのに、信武さんに言わせれば、
 ウィーンのケーキは日本の繊細さには敵わない……、ってことだった。
 そうだ。無くなりかけていている松脂を買って。その後、信武さんの言うケーキを買って。
 今日の夕食のあとにサプライズで出したら、喜んでくれるかもしれない。
 今日の夕食はどうしよう。
 久しぶりの日本。久しぶりの日本食っていうのもいいかも。

「……あった。これこれ」

 久しぶりに来た楽器店で、私は真っ直ぐ松脂のコーナーへ行き、欲しかったメーカーのモノを会計する。
 ウィーンで、信武さんの使っているベルギーの松脂を試したこともあったし、友だちが勧めてくれたメーカーも使わせてもらったことがあるけど。
 私は、高2の春、月森くんに勧められた『アルシェ』が1番落ち着く気がする。
 ──── 高2の頃の私、か。
 まだ、3年しか経ってないのに、ずいぶん幼い頃の話みたいだ。

「って……? 失礼します」
「はい?」
「って、お前、やっぱり香穂じゃねえか!」
「あ、あれ? …・…土浦、くん……?」
「お前、いつこっち戻ってきたんだよ? 久しぶりだな!」

 細長い店舗の中、広い肩が私と棚の間に滑り込む。
 あまり長居しちゃ迷惑だよね、とすり抜けようとしたら、それはTシャツを着た土浦くんだった。
 ハタチって、男の人も女の人も特別な年齢なのかな。
 土浦くんは私が最後に見た土浦くんより、ずっと大人の男の人になっていた。

「おい、お前、ちょっと時間取れるか?」

 土浦くんは分厚い総譜を手に私の顔を覗き込む。
 私が頷くと、『すぐ会計すませてくる!』とツカツカと、店の奥に戻っていった。

 私は店の入り口にあった音楽雑誌に目をあてる。
 楽器をやっている人口比に比例するのかな。
 ピアノの雑誌は1番多い。その次は、フルートやトランペットなどの吹奏楽。
 その次が弦。ヴァイオリンの雑誌だ。
 重なり合ってて見えない表紙が知りたくて、手を伸ばしたとき、すぐ横にいた女の子2人連れが偶然同じ雑誌を手に取った。

「わ、これやっぱり王崎信武だよ? クライスラーコンクールからこっち、引っ張りダコだよね」
「へぇ〜。顔、ハッキリ見たの初めて! 結構イケメンじゃん?」

 知らない人の口から信武さんの名前をフルネームで言われるのは、ドキッとする。
 そっか……。
 ウィーンでは、道を歩いていてもそんなにあからさまに声をかけれらることはなかったっけ。
 拍手を求められることはあっても。

 1人の女の子の声音がイジワルく変調する。

「ダメダメ。王崎信武って確かもう既婚者だよ? 相手は高校時代の後輩って話」
「えーーー。ショック! どうして? 出来婚?」
「違うみたい。でもさ、相手、全然フツ−の子、ってウワサ、聞いたことある!」

 ──── 王崎信武。既婚者。後輩。……これって、私のこと、だよね……?

 2つの口は楽しそうに話し続ける。

「ふぅん。色仕掛けで迫ったのかな? クライスラー優勝者なら、将来有望! ってね」
「ってか、早婚のヴァイオリニストって大成しないっていうじゃん? 王崎信武も実は大したことなかったりして!」
「香穂! お待たせ。……って、どうしたんだ?」
「な、なんでもない! ここで立ってるとほかのお客さんに迷惑だよね? 外、行こうか」

 土浦くんの手を引っ張るようにして外に出る。
 こんなことで傷つくなんておかしい。
 きっと彼女たちはあれからずっと、家に帰るまで、いろいろな話をするんだろう。
 そこの中には、芸能人の悪口や、クラスメイトのウワサ話。先生への不満。いろいろな話題があるんだろう。
 信武さんへの批評も、その中のほんの1つなんだもの。
 だから、私が気にすることも、傷つくこともない、のに。

「私……」

 たくさんある言葉の中で、何に1番傷ついたんだろう。
 フツーの子? 色仕掛け?
 フツーの子、は、言われなくても自分もそのとおり、って思うから、傷つかない。
 色仕掛け、っていうのも、実物の私を見てもらえば、色っぽさとは遠いところにいる子だって分かってもらえると思う。
 だから、いい。

 私が1番傷ついたのは……。
 ──── 大切な人を『大したことない』って言い切られたこと。
 それが、泣きたくなるくらいクヤしかったんだ。

「ま、なんとなく話の流れは読めたけどな」

 土浦くんは私の半ベソの顔を見、店の奥を覗き込み、やれやれとため息をついた。

「やっぱりね、そのね、王崎先輩ってすごいって思うの。だって、私たちと3つくらいしか、歳、変わらないよね」
「香穂……」
「言い換えると『巨星』みたいな人、っていうのかな。ほら、春の金星って見たことある?
 ウィーンだと、緯度が日本よりちょっと高いからかな。日本より、すっごく高い位置で長い時間見ることができるの」
「おい、お前、ちょっと落ちつけって」

 いきなり饒舌に話し始めた私に、土浦くんは驚いたように目を見開いている。

「私、4年後に王崎先輩みたいになっている自信なんて、全然ないよ。恥ずかしいよね」
「もう、いいから!」

 ふいに唇になにかを押しつけられる。
 あっけに取られて見上げると、そこには苦しそうに眉根を寄せた土浦くんがいた。
 短く整えられた清潔な爪。ひんやりとした感触。
 これ、って、土浦くんの、指……?

「って悪い! 人妻に俺、なにやってんだか」

 話すことを止めた唇に、土浦くんはこれ以上なく顔を赤らめて手を下ろした。
 舌の先に残る感触は、土浦くんの指の感覚……?
 どうしよう。釣られるように私の顔も朱くなる。

「う、ううん! 私こそ、おかしなことばっかり言ってごめん……」
「……って、お前、本当に結婚してるんだよな?」
「え? そ、それは、もちろん!」
「そうだよな。……そりゃそうか。当たり前だよな……」

 土浦くんは自分を納得させるかのように、2度3度頷くと、まっすぐ雑踏に目をやった。

「……あんなウブな反応されるとこっちも困る、っていうか」
「はい?」
「なんでもねぇよ。……そろそろ帰る頃だろ? 送ってってやるよ」
「い、いいよ! そんな……。土浦くんも忙しいでしょ?」
「いや。お前の話、もっと聞きたいし。だが、人妻を遅くまで引っ張り回すのもルール違反っていうか?」
「ルール違反……」
「……だからこれが俺の妥協点。ほら、来いよ」




 土浦くんは言いたいことだけ言うと、私の前を歩き始めた。