俺は夕暮れの中、弾むように歩いている香穂子の背を追う。
 ところどころ飛び跳ねた赤い髪。
 ほっそりとした背に続く腕。その先にはヴァイオリンケースが収まる。  
*...*...* Star 1 (Tsukimori Ver.) *...*...*
「月森くん、そんなこともできるんだ。すごいすごい!」

 学校帰りにふと立ち寄った公園で、香穂子はブランコを揺らしながら、俺の草笛に目を細めて拍手する。
 旋律も取れない、拙い、それでいて柔らかい音。
 俺は再び唇を押し当てると、今度は少しだけ強く息を吹き込んだ。

「懐かしいな。父が教えてくれたんだ。母が横で見ていてくれて。
 いい音が出たときはやはり嬉しかった。……いい思い出だ」
「そうなの? なんだか、嬉しいな」
「香穂子?」
「……小さい頃の月森くんは幸せだったんだな、って思ったら、……やっぱり嬉しいよ、私」
「いや。……もう、取り戻すことは叶わないが」

 もともと運動神経がいいのだろう。
 香穂子はひらりと小さな放物線を描くとブランコから飛び降りる。
 そして、俺の手の中を覗き込み、同じ草を採ると、見よう見まねで唇を当てている。

「あ、あれ? おかしいな、鳴らない……」
「もう少し、強く吹くんだ。こんな感じで」
「こう、かな? ……あ! 鳴った!!」
「よかった。君はなかなか飲み込みがいい」

 音が出た瞬間香穂子は俺を見つめ、そして自分の手元を見て弾けるように笑った。

「えへへ。私、もしかしたらヴァイオリンより草笛の方が才能があるかも?」
「ああ。俺が保証する」
「あはは! 嬉しいけど、ちょっと複雑だ」

 笑いながらも しかめ面をする香穂子は、また今日も俺が知らなかった表情を見せてくれる。
 香穂子は俺の笑い顔にほっとしたように優しい表情を浮かべた。

「……ね? 思い出は、取り戻すんじゃなくて、増やしていけばいいんじゃないかな?」
「思い出を、増やす?」
「うん! お父さんとお母さんの思い出。それに、今日の思い出を付け足していけばいいと思うの」
「付け足す……」
「うん、それでね、辛いときにちょっと取り出してみる」
「取り出す?」

 ときどき香穂子は、俺が思ってもみない解釈をすることが多い。
 音楽に関しては初心者。だからいわゆる曲想だの解釈ということまで思いが回らないのだろうと考えたこともあったが。
 彼女が音楽に触れてからかれこれ半年。
 この感受性の豊かさは、素人玄人以前に、彼女の持ち味の1つなのだろうと思うまでになった。
 発想がユニークで、鋭くて。
 これにあと少し、技術が追いついてくるようになった頃。
 香穂子はどんなに豊かな音を作るヴァイオリニストになるだろう。

 今でさえ、彼女の音色は続きを聴かずにはいられない魅力に溢れている。
 彼女は規律を求められるコンクールではなく、ストリートのパフォーマー向き、と言ってもいいのかもしれない。

「……可愛い。バイバイ。またね?」

 夕暮れが迫って来ているからだろう。
 ふと気づくと、目の前の小さな男の子が香穂子に手を振っている。
 幼い子が好きなのだろうか?
 香穂子は蕩けそうな目をして顔の前で手を振り返す。

「まあまあ、コウくん。お姉ちゃんにバイバイしてもらったの? いいねえ」

 母親は香穂子に小さく会釈をすると、男の子の手を引いて背中を向けた。

「日が暮れて、大分寒くなってきた。香穂子、そろそろ……」
「そうだ! 月森くん、あれ、少しだけ、やってみよう?」

 帰ろうか、と言おうとしたとき、覆い被さるように香穂子の声が聞こえた。
*...*...*
「月森くん、今日も楽しかったね」
「……まったく君という人は」
「んー? どうか、した?」

 俺は額に手を当てつつ、ため息をつく。

「君はヴァイオリニストなのだろう? もう少し、指は大切にした方がいい。
 鉄棒など、たとえ体育の授業で必要なことであってもする必要はない。
 ましてや、ウンテイ、だったか。ああいうモノなど論外だ」

 ウンテイ。確か、雲(クモ)の梯子(ハシゴ)と書く、と香穂子は言っていたか。
 ハシゴを横にしたような、公園によくある遊具だ。
 子ども用のカラフルな遊具は、昼間だったら小さい子どもたちで賑わうのだろう。
 だが、12月の夕方ということもあってか、俺たちが公園に来てしばらくすると人影も消え。
 そのあとに、香穂子の『ウンテイ』のレッスンが始まった。
 1つ飛ばし。2つ飛ばし。
 子ども用ということでパイプの幅が狭いのだろう。
 香穂子は3つ飛ばしもできるのだ、と胸を張ってやろうとして、俺に止められたことが残念だったらしい。
 不満げに空を見ていたが、俺の不機嫌を目で受け止めると、ふっと表情を緩めた。

「でもね、えっと……。雲梯って、あの、パイプを手放してから、次のパイプに移るまでに、空が見えるでしょ?」
「は?」
「あ、今日はもう夕方だったから、その青い空は見えなかったけど、その代わりに三日月が見えたの。知ってる?」
「……ああ。確かに」

 どうも彼女といると調子が狂う。
 どうして彼女はいろいろなことに無頓着なのだろう、という思いと。
 俺の思考の中では思いつかないような闊達さを、少しだけ眩しく思う気持ちと。
 香穂子は俺の屈託にお構いなしに話し続ける。

「片手を離してね、その片手がパイプを掴む瞬間までの間に、人には滞空時間があるんだよ?
 つまり、人はその間の数秒間、ほんの少しの時間だけど、空中に浮いてるの」
「……そうなのだろうか?」
「知ってた? その一瞬って空も掴めるんだよ。スルスル、って。ほら、青いハンカチを掴むみたいに。
 そうしたら、星だって、月だって、全部、自分の手の中に掴めるかもしれないもの」
「香穂子。手を見せてくれないだろうか?」
「はい? 手??」

 演奏が終わった直後のような優しい顔をいつまでも見ていたいとは思ったが、そうもいかない。
 俺は香穂子の手首を持ち上げると、街灯の下で目を凝らす。
 短く切りそろえられた清潔な爪。それに続く関節は柔らかく特に問題はない。
 だが、手のひらの一部に小さく固くなっている部位がある。

「これくらいなら、演奏に差し支えないだろうが……」
「ご、ごめんね。久しぶりの公園でちょっと調子に乗ってたかも」

 俺の手の中に収まっていた香穂子の手が、ピクリと波打つ。
 普段、彼女のヴァイオリンの構えや弓の持ち方について、もっと身体が近づいたことさえあったのに。
 学院の外で、彼女に触れているからだろうか?
 それともお互いの輪郭しか見えない明るさが、恥ずかしさを増長してるのだろうか?
 俺は慌てて彼女の手を離すと、真っ直ぐ続く道に顔を向けた。

「えへへ、それにしてもすっかり遅くなっちゃったね」

 香穂子は照れくさそうに周囲を見渡す。
 香穂子の、白い顔と首。それに手が発光したように夜目に映る。
 東の空には青白い月が、俺たちを照らすように昇り始めた。

「最初、君に公園に誘われたとき、正直、どうなるのかと思った。……だた、寄り道も、無駄ではないんだな」
「月森くん?」
「……楽しかった。ありがとう」
「う、ううん! 私こそ、ありがとう、だよ!」
「香穂子?」
「えーっと、私は」

 香穂子は一瞬だけ言いよどんだあと、真っ直ぐな目で俺を見上げる。

「私は、月森くんの小さかったころの話が聞けて嬉しかった。草笛の話も嬉しかった。
 だから、無駄じゃなかった。楽しかったって思ってた。
 でも、私だけ、そういう風に思ってるんだったら、悲しいな、って思ってたから……。
 月森くんと同じ気持ちで嬉しかったよ」

『星だって、月だって、全部、自分の手の中に掴めるかもしれない』

 さっきの香穂子の言葉が頭の中でリピートする。
 君が月を掴むように。
 君が、俺も、俺を取り囲む音楽をも、宇宙を丸ごと掴んでくれたなら。

 君のことだけを見つめて。
 ──── 君に囚われて生きていけたら、俺はどんなに満たされた日々を過ごせるだろう。

 昨日の電話越しの母の声がよみがえる。

『あなたもあと3ヶ月もしたら、ウィーンの人になるのね、蓮。夢が1つ近づいた、ってことかしら?』
『……ありがとう、ございます』
『お祖父さまも喜んでいるわ。さすがはおれの孫だって』

 小さな、手。
 さっきまで直接触れていた、細い指の感覚を握りしめる。




 俺は、いつ香穂子に留学のことを告げるのだろう。
 そしてそのとき。



 ──── 俺は音楽の代わりに彼女を失ってしまうのだろうか?
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