僕は、青白い月に照らされた香穂先輩の横顔を見てふと思う。
幼い頃から、僕のまわりにはいつも音楽があって。
それがときどき、僕と僕の周りの人との間を隔てる要因になっていることは知っていた。
だけど、この世界に音楽がある限り、それは大した問題じゃなかった。
僕には音楽さえあればいい。そう思っていたから。
なのに、香穂先輩と同じ時間を共有するようになってから、僕は僕の考えに変化を感じ始めている。
この人の言うことだけは、聞き漏らしたくない。
聞き留めて、咀嚼して、自分のものにしたい。
それだけじゃ足りない。
彼女を理解して、そして、自分のことも理解して欲しい。
そんな、押しつけにも近い欲望が、頭をもたげたまま静止している。
*...*...* Star 1 (shimizu) *...*...*
「志水くん! 今日もいっぱい練習したねー。すごく楽しかった!」臨海公園の近くの喫茶店で、香穂先輩は少しだけ鼻先を赤くしたまま、気持ちのいい笑顔で僕を見上げた。
朝、会ったときのまだ堅さが残った笑顔より、僕は、1日を一緒に過ごしたあとの香穂先輩の顔が好きだ。
柔らかで、緊張感が解けたような、手を伸ばしたら簡単に触れられそうな優しい顔をしている。
「はい。今日は多くの人が聴きに来てくれましたね」
「そうだね。ヴァレンタインが近いからかな? カップルさんが多かったよね?」
「ヴァレンタイン……」
「うん。ヴァレンタイン。えーっと、あと、2週間後かな?」
向かい合わせのテーブル。
僕の前にはミルクティーが、香穂先輩の前には真っ赤なローズヒップティーが置かれている。
ガラスのティーカップの中、ルビー色の液体が香穂先輩の回すスプーンで、くるりと大きな円を描いた。
「そうだ! その、志水くん、ヴァレンタインになにか欲しいもの、ある?」
「香穂先輩?」
「その、最近はずっと練習ばっかりだったもの。だから……、すっごく豪華なモノは贈れないかも、だけど」
香穂先輩は申し訳なさそうに僕を見上げると、顔の前で『ごめんね』と言いたげに両手を合わせた。
欲しいもの。……僕の、欲しいもの。
あまり考えたことがなかったな。
僕にはチェロがあって。ともに音楽を奏でる仲間がいて。
──── なにより、香穂先輩がいて。
「えっと……。志水くん? ごめんね、難しい質問だった?」
「もう、あなたからもらってるんです。僕の1番欲しかったもの」
「もらった? 私から? なんだろ……?」
香穂先輩は不思議そうに首をかしげる。
ふわりと柔らかい髪が先輩の頬を優しく覆う。
僕とは違う、赤味を帯びた細い髪。
今夜も指を通したら、どんな香りが移るだろう。
「私が志水くんにあげたもの、って……。今日3時に飲んだココアくらいしか思いつかないよ?」
「いえ、違います」
「うーん……。初詣で一緒に食べた『たい焼き』もなんだか違う気がするし」
「あなたです」
「はい?」
これ以上待っていても、この可愛い人はなかなか僕の求める答えに行き着かないかもしれない。
僕は香穂先輩の手を取って笑った。
「ずっと、僕はあなたが近くにいてくれたらいい。そう思っていたから。
だから、僕はもう、もらってるんです。あなたと一緒にいる時間を」
「あ……。ご、ごめん! 私、全然思いつかなくて」
「だから、2週間後のヴァレンタインも、あなたが僕の近くにいてくれたらいい」
香穂先輩は顔を赤らめながら僕の手をほどくと、窓の外に目をあてた。
ずっとヴァイオリンを弾く香穂先輩を見てきたからだろうか。
僕は彼女の正面からの顔よりも、こうして少し遠くを見つめる横顔が好きだった。
すっきりとした広い額がなだらかな弧を描く。
穏やかな瞳の先には、小さな鼻の隆起があって。
朱い唇は柔らかく結ばれている。
これは先輩が、なにかを考え込んでいるときのサインだ。
「で、でも、それだけじゃ申し訳ないから!
チョコと、そうだ、これからも外で一緒に練習できるように、志水くんが寒くならないもの、っていうのかな?
マフラーはこの前贈らせてもらったから、今度は、手袋なんてどうかな?」
「手袋……」
「うん、そう。最近、指先の開いた手袋が売れてるってお姉ちゃんから聞いたの。
元はケータイ電話を使うため、って話だけど、種類もたくさんあるんだって。
あれなら、手袋をしたまま、チェロが弾けるかも」
臨海公園での練習は2時間。
練習の最中には感じなかった寒さを、この温かい室内にきて急に感じ出したのだろう。
香穂先輩は指先に息を吹きかけながら話している。
いつもは桜色の爪が、今はガラスのように白く透明だ。
「手袋は、ダメです」
「はい?」
「手袋をつけていると、弦を押さえる感覚が普段と違ってきます。
屋外でも屋内でも、どんなときも、自分の最善を尽くせる演奏にするべきだと思うから」
「そ、そっか……。ごめん」
僕がそう告げた途端、香穂先輩の顔は火が消えたようにしょんぼりと悲しげになる。
──── 違う。僕は、あなたに、そんな顔をさせたいワケじゃないのに。
「そろそろ帰りましょうか? また明日、あなたとの練習を楽しみにしています」
僕はレシートを手にすると、コートとチェロを持って立ち上がる。
クリスマスを過ぎてからずっと、僕と香穂先輩は週末を一緒に過ごしている。
僕の都合はなんとでもなるけれど。
──── 僕が、どれだけ見ていても見飽きない人だから。
家族の人も、今の、この瞬間の香穂先輩を見ていたいんじゃないかな。
そんな風に感じて、僕は週末2日あるうちの1日は、夕食前に香穂先輩を自宅まで送る。
今日はその日だった。
*...*...*
「あらあら、桂ちゃん。また香穂さんにメール? まったく青春真っ盛りって感じね」「あ……。叔母さん」
「まあ、相手があの香穂さんなら、私もお姉ちゃんも心配はしてないけれど」
叔母さんは僕の部屋の襖を頭の幅だけ開けると、にゅっと顔だけ突き出して笑っている。
そうだった。
この冬休み、僕の大切な人だと香穂先輩を叔母さんに紹介したときのことを思い出す。
僕は純粋に、僕の練習環境を香穂先輩に見せたかっただけなのに。
先輩が家にやってくると知ったとたん、叔母さんは茶菓子の用意だとか掃除がまだだとか。
僕では到底思いつかないことばかり口走って、家中を走り回っていたっけ。
『僕の部屋を見せるだけだから、あまり気にしなくてもいいと思う』
『だーーー。桂ちゃん! そんなワケにはいかないの! ああ、お姉ちゃんにも電話しなきゃ!
あ、もしもし? お姉ちゃん! 桂ちゃんが大変なの!
……え? 交通事故かって? ううん。桂ちゃんは元気よ。そうじゃなくて!』
お姉ちゃんというのは、僕の母親。
叔母さんの、いつもフォルテの声が、この日はブレスとフォルテシモの繰り返しだったっけ。
叔母さんは、嬉しそうに僕を見、定位置に置かれているチェロを見、もう一度今度は僕を見て満足そうに微笑んだ。
「またよかったら、桂ちゃんと香穂さんの都合のいいとき、香穂さんをこの家に招待しなさいね。
叔母さん、いつでも大歓迎。待ってるわね」
「……はい」
「寒い中、外で練習するのも大変でしょう? 2人とも風邪でも引いたら心配だから」
叔母さんは僕が頷くのを見届けると、そっと静かに襖を閉めた。
……よくわからないけれど、叔母さんは僕にどんな用事があったのだろう。
僕の様子を心配してくれたのかな? だったら、少し嬉しい。
僕は再び携帯の画面に目を落とした。
手袋の話を聞いたとき。
本当はあの人の気遣いがとても嬉しかったのに、それよりもまずチェロのことを考えた僕がいる。
僕の言っていることに間違いはない。
今、もう1度香穂先輩と同じ会話を繰り返したとしても、僕は同じ返事をするだろう。
だけど、そのあと。……そう、香穂先輩が楽しそうに話してくれたあと。
どうして僕のことを考えてくれていたことに、『ありがとう』と言えなかったんだろう。
夕陽が濃く残る公園の帰り道、僕は香穂先輩の手を自分のポケットの中に入れた。
先輩の手は、思ってた以上に、小さくて、柔らかくて。
僕の手とは違う、女の人というより、幼い女の子のような指だった。
僕は、まだ先輩の手の感覚を自分の指が覚えていること。
それに、今自分がすごく穏やかな気持ちでいることをメールに書くと、送信ボタンを押した。
ケータイの送信画面は、クルクルと封筒を回転させるとやがて点になって消えていく。