*...*...* Star 1 (Yunoki Ver.) *...*...*
 伏し目がちに歩きながらも、俺は俺に向けられているであろう視線を敏感に受け止めていた。
 1人じゃない。複数人の、不躾な視線。
 背後からじっとりと投げかけられる類のモノは、生徒会関係ではなさそうだ。
 そしてまた、コンクール関係者、という近しい間柄でもないらしい。
 多分、今、俺が1番近づきたくないと思っている輩に違いない。

 おかしなモノだ。
 ほんの数ヶ月前。半年前くらいか。
 日野……。あいつに出会う前は、むしろ彼女たちに囲まれている自分を当然のものと捉えていたのに。

「柚木サマ。柚木サマーーーー。お待ちになって!」
「今日はやっとお会いすることができましたね、柚木サマ」
「……やあ、君たち。今日は僕になんの用かな?」

 日頃よく見かける2人が俺の方に近づいてくる。
 俺は薄暗がりの中、少しだけ笑顔を作った。
 それに勢いづいたかのように、取り繕った声が聞こえる。

「わたくしたち、柚木サマのご実家のことをお聞きしましたの」
「好きでもないお相手と一生添い遂げるなんて、なんてお痛ましい……」
「ふふ。ありがとう。僕のことを気にかけてくれて」

 傍目から見て、俺は以前と変わらないキレイな笑みを浮かべているだろうか?
 そんなことを考えながら、空を見る。
 12月の日暮れは早く、東の空にはシリウスが遠慮がちに顔を出している。

 文化祭の後夜祭で日野とワルツを踊ったことが、彼女たちの中で収束したと思っていたら。
 今度は奇妙な噂が流れた。
 俺が高校を卒業した時点で婚約。結納を交わすという話だ。
 自分のことではなければ、一笑に付した話だったが。
 噂は大きく緻密な方が面白いのだろう。
 俺の耳に入ってきたころには、相手の女性も事細かなプロファイリングがされていたのが滑稽だった。

 ──── ただ。
 俺自身が『滑稽』と笑い飛ばせない理由……。
 それは、この噂を聞いた日野の半ベソの顔を見たからだろうか。

 2人の女生徒は頬を輝かせながら話し続ける。
 ……とても本心から俺を心配しているようには思えない、か。

「なにかありましたら、おっしゃってくださいませ。私たち、柚木サマのお力になりたいんですの」
「ありがとう。君たち。だけど、君たちが心配するようなことにはなっていないよ」
「そうなのですか?」
「どうやら噂が勝手にひとり歩きしてしまって。心配させてごめんね」

 口と顔は流暢に、相手の求めている演技をする。
 なのに、頭の中だけは憎しみに似た感情に支配されているのを感じている。
 力になるってなんだ? お前に告げれば、俺の取り巻く環境すべてがなかったことにできるのか?

 なにがあろうとも壊れることを知らない堅牢な家。
 『いいね、梓馬。元々音楽は高校までという話だったけど。
 これでお前に音楽をやらせている余裕はないということがわかっただろう?』
 長兄の淡々とした物言いを思い出す。
 元々音楽は高校まで。そのことはわかっていた。
 だが、自ら道を閉ざすのと、否応なく閉ざされること。
 この2つに、これほど大きな違いがあるとはね。

「柚木サマ? 大丈夫ですか?」
「……ああ。君たちも、もう暗いから、気をつけて帰って」

 不審そうに顔を覗き込まれて、彼女たちに対して浮かんだ憎しみが少しずつ薄まっていく。
 その代わりに、身体中が押しつぶされるような倦怠感が広がっていく。

 認めるのが癪だからと今まで目を背けていたけれど。
 俺は今の状態に疲れている。
 自分を欺き、自分を騙し、何でもないフリをするのに疲れている。
 ──── きっと自分が感じている以上に。

「おーい、柚木!! おっつかれ〜!」

 聞き慣れた親友の声がする。
 振り向くとそこには、満面の笑みを浮かべた火原と。
 なるほど、今日の練習は申し分ない出来だったのだろう。
 スキップでもしてるんじゃないかというくらい軽い足取りの日野が、俺を認めてぴょこんと頭を下げている。

 2人の女生徒は、火原を見て仕方ないか、という様子で顔を見合わせると、にこやかに俺に一礼をして去っていった。

「やれやれ……」
 一体、俺はなにがしたいんだろう。

「ん? 柚木? どうしたの?」
「……疲れた」
「ゆ、柚木先輩?」
「……いい顔するのも、今日はさすがにちょっと疲れたかな」

 火原はきょとんとした顔で、一方、日野はといえば、こっちは不安そうな顔で俺を見つめている。
 2人の視線が交わる中で、俺はふてくされたような声を上げた。

「……彼女たちはなんて言うだろうね。本当の俺のことを知ったらさ」
*...*...*
 普段とは違うおれの様子に、なにか感じるところがあったのだろう。
 火原も日野も、困ったように俺を見上げている。
 唯一この2人だけは、本当の自分をさらけ出せる仲になれたと思っていた。
 こんな情けない姿を見せて、この2人にまで呆れられたら、そのとき俺はどうするのか。
 笑いながら冗談にするのか。そしてまた俺は俺だけの殻に閉じこもるのか。

「悪い……」

 冗談だよ、なに? お前たち本気にしたの?

 と言いかけたとき、言葉の先を折るようにして火原が口を開いた。

「うーん。ホントの柚木って言われてもおれにはピンとこないなー」
「火原?」
「だってさ、さっきの柚木も、今、目の前にいる柚木も、どっちも柚木じゃない。
 さっきの柚木も、今の柚木もどっちも本当の柚木だよ。ねえ、日野ちゃん、きみもそう思うよね?」
「は、はい……」

 案の定、日野は、ワケがわからないといった風に俺を火原を交互に見つめている。

「あの子たち、柚木のことを心配してくれたんだよね。
 柚木もそれが分かったから、相手の気持ちを大切にしようって頑張ったんじゃないの?
 日野ちゃん、きみだってそう思うよね?」
「あ……。はい! わかりました」
「日野ちゃん?」
「ごめんなさい、火原先輩の言ってることが、わかったの」

 日野は深く頷くと、俺の方を真っ直ぐ見て言った。

「どんなときも、柚木先輩は柚木先輩です」
「日野?」
「いつも真っ先に相手のことを考えてくれる、素敵な先輩です」

 火原はウンウンと嬉しそうに頷くと、強引に俺の背を押す。

「ほらねー。おれたち2人ともそう思ってる。だから2対1の多数決で決定。ね? 柚木」

 俺の表情が緩んだのがわかったのだろう。
 火原は明るい笑い声を上げたあと、ふと、俺と日野を振り返った。

「ねえ、柚木。今日は3人で一緒に帰ろうよ」
「ああ、いいね。僕はかまわないけれど」

 何でもない日の、何でもない日常。何でもない冬の日。
 だけど、今までで1番心が満ち足りた日。

 この空気を少しでも長く味わっていたくて、俺は火原に同意する。
 日野はどうするのだろう、と期待を込めて見つめると、こいつは申し訳なさそうに肩をすぼめている。
「どしたの? 日野ちゃん」
「えっと、なんだか、火原先輩と柚木先輩の関係っていいなあ、って思って。その、すごく素敵です。
 だから、あの、今日はお2人の方がいいかな、私は席を外した方がいいかな、って……」

 気配りか、気遣いか。
 日野の優しさに浸りながらも、俺は強引にこいつの手を引っ張る。






「お前に拒否権はないの。さ、行くよ、日野」