*...*...* Period 4 *...*...*
「ねえ、柚木。なんだかさ、この頃、香穂ちゃん、見かけなくなったことない?」「……ああ、そうかもしれないね」
どんよりと鈍色の雲が覆い被さる、放課後。
火原は、トランペットを片手に窓と机の間を行ったり来たりとせわしない。
なんでも今日は、陸上部の友人にエールを送る約束をしたとかで、恨めしそうに梅雨空を眺めている。
『束縛するのも、されるのも好きじゃないんだ』
そう告げてから、3日。
第4セレクションももうすぐだというのに、あれ以来香穂子の姿をぱったりと見かけなくなった。
もうほぼ習慣化されていた朝の送りも。
香穂子が意識して避けているのか、こちらが5分程度の前後をもって通学路を通りかかっても、 いつもの後ろ姿を見つけることができなくなっていた。
運転手の田中はそのたびに、俺に不審そうな目を向けて。
俺がかぶりを振ると、小さく咳をして、そのまままたスピードを上げる。
帰りも同じことだった。
屋上。森の広場。音楽室。練習室。
あいつの存在を感じる場所に脚を向けても、香穂子の気配はなかった。
まるで香穂子の不在を感じさせる醒めた空間が、俺の身体を圧迫しているみたいだ。
家。学院。
どの場所にあっても、素のままの俺は存在しない。存在、できない。
おかしなものだ。
ほんの数ヶ月前は当たり前だったその状態に、今の俺はひどく違和感を感じている。
『梓馬さん? よろしいですわね』
昨日はそのルーティンの中に、さらにお祖母さまのお小言が入った。
まだ見たこともないオンナとのお見合い。そして、形式的に付き合い。
そして……、結婚、か。
『男子であろうとも、おめでたいことは早い方が良いのですよ。なにごとも』
どこかの宮家でもあるまいに、二十歳前のオトコが好きでもないオンナと結婚する。
地盤を固めた後、事業家としての1歩を踏み出す。
── そこにはどこにも、フルートの調べを奏でる余地はなくて。
(音楽で繋がっている、俺と香穂子もそれまで、ってことか……)
香穂子がいない、という事実。
── 女々しいな。
全く、なに言ってるんだか。
自分の撒いた種じゃないか。
因果応報。こうなることくらい、最初から想定内だっただろうに?
ただ……。
俺に映る香穂子のいない世界が、こんなに色彩を失ったモノになるとは想像もつかなかったね。
「……柚木?」
「……あ、ああ? なんだい?」
ぼんやりしている俺を気遣うように、火原が心配そうに視線を這わす。
火原のノドが大きく動いて。何か言いたげに止まる。
けれど吐き出された空気は言葉にはならずに、微笑に変わって。
「よっし。じゃあおれ、グラウンドまでひとっ走りして、応援してくるよ。じゃあな、柚木」
火原は、多少濡れても構わないと思ったのか、トランペットケースを手に、勢いよく教室を飛び出していった。
*...*...*
俺は、クラス中のソルフェージュのレポートを取りまとめると、音楽室へと急ぐ。音楽棟からは割と近いとはいえ、……こんなことで練習時間が減るのは不愉快だが仕方ない。
学院でも、家でも。
それぞれにおける自分の期待されている姿っていうのが、あるからね。
……って、今の状況下においては、そんな考えも愚の骨頂に近いモノがあるけど。
「あ、柚木サマよっ」
「いつ見ても、麗しい、ってカンジ……?」
「あ、あのっ。柚木サマ。ここんにちは」
音楽室では、楽器を手に持った女子2、3人が輪になって話している。
俺の姿を見ると一斉にこちらを向いた。
ここでも、俺は俺の持ち回りを、完璧に演じることにする。
「やあ。君たちも練習? 放課後まで大変だね」
「ええ! もう、柚木サマもコンクールに向けて頑張っていらっしゃるんですもの、私たちだって!」
「そうですわ」
「そう……。また、ぜひ聴かせて欲しいな。君たちの音色を」
「はい!」
やれやれ。
俺は口で優雅に受け答えながらも、歩みだけは止めることなく金澤先生のところへ向かう。
ここ3日というもの、時間は平坦に流れながらも、自分の満足いく練習はできなかった。
もうあまり第4セレクションまで時間がない。……今日くらいは集中しなくては。
金澤……。よれよれの白衣。手入れをしていなさそうな、長い髪。
……一体、どこだ?
俺は、グランドピアノが置いてある端にその姿を見つける。
そして、白衣の前に立っている女生徒の存在に目を見開いた。
金澤先生と、……あれは?
音楽室に場違いな、普通科の制服。
深緑の肩がやけに薄く見える。
ヴァイオリンケースを胸に抱えているのか、後ろ姿からは、ペグの先端が見え隠れしている。
香穂子は、金澤先生と向き合って、楽譜を覗き込んでいるようだった。
「ここの解釈は、フォルテ、といきたいところだが、難しいよな。
そう断言できないところが面白いところだ。弾き手のカラーが出る。
お前さんならどうこの音を作る?」
「そうですね……。私は、このフレーズはゆっくり聴かせたいと思うんです。
だから、今までピアニッシモくらいで立ち上げてたんですよね。……難しいなあ」
「まだ、時間はある。もう少し曲想を練り上げてこいや。
……てかさ、お前さんも良くココまで頑張ったよな。もう少しだ。ファータと一緒に頑張れよ」
「あはは。リリに言ってやらなきゃ、ですね。こんなに大変だって知ってたら、やらなかったよ、って」
白衣は、そっと香穂子の肩を掴むと顔を覗き込んだ。
「……そして、さ。日野……。たまにはさ、さっきの曲をもう1度聞かせてくれや。
……っと、日野に来客、と言ったところか?」
「え? 私?」
金澤は、ふと背後にいる俺に気付いたらしい。
つまらなそうに顔をしかめると、上体を起こした。
既に目の端に捉えて、心の構えが出来ていた俺と違うのだろう。
振り返った香穂子は、俺の姿を認めると、すっと顔色を変えた。
「いえ。金澤先生のレポートを集めてきたのですが。ごめんね。日野さんの邪魔をしちゃったかな?」
「いや。ご苦労さん。集めろ、って言ったの、俺だったもんな〜。
真面目な先生ぶって、日頃やらないレポートなんて出すからこうなっちゃうんだな〜」
「あの。じゃ、私はこれで……」
ぺこりと頭を下げ、この場を去ろうとする香穂子を目で制して。
俺は金澤に向き直る。
……時間が惜しいからね。先生のグチを聞いている暇はないし?
「金澤先生。そういえば、音楽史の棚橋先生が金澤先生に、ちょっと質問がある、とおっしゃっていましたが?」
「お? そうか?」
「講堂でお待ちでしたよ?」
「お? サンキュ。しぶしぶ行ってくるかぁ」
金澤先生は多少心当たりがあったのか、無造作にレポートを掴むと、頭を掻きながら音楽室を出て行った。
── さて。どうする?
俺の背後に香穂子がいる。
たった3日会わなかった、というだけなのに。
こいつが今、どんな表情を浮かべてるかと考えると、やるせない気持ちに襲われる。
泣き顔が迫ってくるような別れ方だったからか?
俺自身から断ち切ったような、切り方だったからか?
── 今、振り返るのに、要る、ほんの少しの勇気。それが今の俺には持てない。
どう、切り出すか……。
俺が考えていた時間は一瞬だったのだろう。
そこへ、香穂子の屈託のない笑い声が飛び込んできた。
「……柚木先輩のウソツキ」
「なに?」
「さっきの音楽史の先生のお話。……ウソ、でしょう? どうしてそんなにさらりと作り話が浮かんでくるかなあ」
香穂子はくすくすと笑いながら話を繋ぐ。
些細な発端。これが俺を香穂子に振り向かせた。
素直な、ヤツだよな。
……今の俺の中で探そうとしたって見つけられない、性質。
「人聞き悪い。お前より、頭の回転が良いっていうだけだろう?」
「あはは。それは事実ですねえ」
痩せたのか、少しきつくなったような印象を持つ頬のライン。
この前の屋上での泣き顔の香穂子の上に、新しい表情が上塗りされて。
その表情が笑顔だったことにほっとする。
やっぱり、こいつ、笑っていた方がいい。
笑って。楽しそうにヴァイオリンに触れて。
良い音が出たと言って。
新しい解釈がどうとか言って、楽しそうに俺の傍にまとわりついてくる表情の方が。
── ずっと、いい。
「それより、お前、練習はどうしていたんだ? 第4セレクションも近いっていうのに、ずいぶんと余裕だな」
香穂子は照れくさそうに頷く。
「初め、月森くんの自宅で練習させてもらおう、って考えていたんですけど。
ちょうど、私と月森くんの自宅の真ん中くらいに、楽器店があって。
楽器店の店長さんに月森くんが話をつけてくれたんです。そこの1室を借りて、練習してました。
そこなら月森くんの手を煩わせなくてすみますし」
「どうしてそんなことを?」
「……気持ちの整理、してたんです。この前、柚木先輩が言ってたことについて」
香穂子は寂しそうに微笑みながら、俺の視線を受け止めている。
(コンクールの間だけ、僕のことを好きでいて)
先が望めない。けれど、止められない気持ち。
こいつを傷つける前に、押しとどめてしまいたい想い。
熱を持った感情のこと、を……?
「……確かにショックだった。……けど、いいんです。コンクールの間、だけでも。嬉しいですよ? 充分です」
「香穂子……」
「……思ったの。これ以上、柚木先輩になにを求めることがあるだろう、って」
香穂子は晴れ晴れとした表情を向けて笑う。
「期間限定でも……。それでも、私は柚木先輩と柚木先輩の音に会えて良かったって思ってます。だから……」
香穂子はヴァイオリンケースごと、会釈する。
「これからもよろしくお願いします!」
ふんわりと。
香穂子の持つ雰囲気は柔らかいまま。
けれど、どうして?
こいつの醸し出す雰囲気に最初は騙されそうになったけど。
柔らかい空気の中に秘められてる香穂子の芯は、強い。もしかしたら俺以上に。
── まさかこんなしなやかに切り返されるなんて、想像していなかったな。
「……やれやれ。お前にとって俺は、そんな2日や3日で結論づけられるほど、軽い存在だったワケ?」
ちらりとにらみつけたら、その倍の勢いで言い返される。
「ななんてこというんですかー。これでも大変だったんですよ? 私は柚木先輩みたいにオトナじゃないし、賢くもないから。ここまで自分を納得させるの」
「はいはい」
「けど。……柚木先輩の迷惑にはなりたくない、から……」
抱きしめたヴァイオリンケース。
飾り物のような白い指が、何かを求めるように堅く握られる。
今、ここで。
お前のその手に、俺の手を重ねてやれたら、どんなにいいだろう。
もしもお前が、泣きたいくらい、傷ついて。肩を落とす日。
大丈夫だから、と。
そばにいてやるから、と。
……バカみたいだな。俺は。
家。立場。
そんなモノに惑わされて。
俺1人、香穂子とは交差しない、同じ場所を堂々巡りしている。
「あ、そうだ。久しぶりに合奏しませんか? なんだか、アヴェ・マリアが弾きたくなってきました」
「……ああ」
「やった!」
香穂子は近くの椅子の上にヴァイオリンケースを置いて。
待ちきれない、と言った手つきでいそいそとヴァイオリンを取り出した。
『Pray for us sinners now, and in the hour of our death.』
聖母マリアに対する、祈りの音楽。
祈れたら、いい。
神はきっと、人の気持ちを沈静化させるために生まれたモノだろうから。
── けれど、祈ることさえ諦めてしまった人間は、これから、どうやって、1歩を踏み出せばいい?
「……いきますよ?」
俺は香穂子の目配せに頷き返した。
2人の作った音が音楽室に広がる。
そう。香穂子の音楽は純粋だ。真っ直ぐで迷いがなくて、澄み切っていて。
心の底から音を奏でることを楽しんでいる。
俺の記憶の中にある旋律が、ゆっくりと動き出す。
今。
音楽と香穂子といる、このときだけは。
── この2つのモノだけに溺れたって、いいだろう?