*...*...* Period 3 *...*...*
『長い時間束縛するのは、好きじゃないんだ。── 束縛されるのもね』

 柚木先輩が屋上の扉へと吸い込まれて行って。
 後ろ姿まで気を抜かない、綺麗な制服の背中が1枚の絵みたいだ、なんて、ノンキなことを考えてる自分に呆れる。

 えっと、練習! 練習しなきゃ。

 清麗系の曲、ということで、私は第4セレクションに入ってから、フォーレの子守歌を選曲していた。
 新しくフィールドに入った、観戦スペースで楽譜を集めるのに手間取って。
 どうにか楽譜は全部集めたモノの、解釈練習が全く手つかず、といった状態だった。

 そうだよね。
 いつもの柚木先輩の態度に振り回されてちゃ、何もできないもんね!

「よしっ。日野香穂子。ラストスパート、行きまーーす!」

 幸い屋上には誰もいないことをいいことに、私は、海に向かって大声を出す。

 弓を構える。
 魔法のヴァイオリンほどじゃないけど。
 私は、私の気持ちに少しずつ暖かい気持ちを向け始めてくれている、この高級ヴァイオリンにあごを乗せる。

 ゆったりとした、優美な旋律が屋上いっぱいに広がっていく。

 ── そう。これで、いいんだ。
 ヴァイオリンに集中して。
 自分も、音色も、今の景色に溶け込ませて。

 少しずつ、私の心の中から柚木先輩が占めてる場所を狭く、小さくしていくんだもん。

「あ、あれ……? これで良かったっけ??」

 練習が完璧じゃなくて、きちんと暗譜ができていない私は、時折、風でめくられてしまう楽譜を覗き込む。

(……香穂子、姿勢は正せよ?
 視覚と聴覚は人に押しつけられるモノだろう? それを使わないでどうする?)

 耳元で先輩が教えてくれる声がする。

「はい。……えっと、こう、ですね……」

 腰に力を入れて、両足のバランスを取る。
 背筋に、1本、細い糸を垂らす。……そんな感じ。

 目の前に広がる海は、音楽ホールの観客だ。
 空と海の切れ間がなくなる。雲がだんだん下に流れてきている。
 不思議。この学院よりも絶対低い位置にある海の方が高く見えるなんて。
 時々雲の間からこぼれる光は、拍手の渦で。
 ── 自分の持てるだけの力、出し切って、褒めてもらうんだもん。

 ……って、私、何やってるんだろう……。
 勝手に先輩の言葉、想像して。想像に言われた通りのこと、して。

 ── …… ──。

 いろんな雑念を振り払うかのように、楽譜に集中して。
 私は、最後の旋律を指に乗せる。
 今、弓とヴァイオリンを手に持ってなかったら。
 ── 耳を塞ぎたい。塞いでもムダなこと、分かってる、けど。

 今の私は身体に付いている耳じゃなくて、心に付いている耳で、柚木先輩の言葉を聞いてるから。
 ……きっと聞こえる。── 柚木先輩の声が。

(及第点ってところか? まだまだ人に聴かせるレベルにはほど遠いけどな)

 言葉だけだと、いかにも皮肉屋のイヤな人なのに。
 ぬくもりで満たされてる柔らかい視線にはかなわない。

「って、ばかばか。どうして、先輩のことなんて思い出してるのーー!!」

 私はそっと弓を降ろす。
 多分、ダメ。
 学院中、どこへ行っても、この声はついてまわりそう。
 ううん、声だけじゃなくて。

 私の目は私の意志とは違うところで、ただ1人の人を探し続けてしまいそう。
 会って、どうする、とか、具体的な考えも浮かばないうちに、話しかけてしまいそう。

 ── さっき、あんなにはっきり、拒絶されたばかりなのに。

「場所、替えようかな……」

 私はすごすごとヴァイオリンをケースに片付ける。

 ちょっと、整理。頭の中と気持ちの。
 落ち着いたら、また、なにか良い考えが浮かぶかも知れない。
 そんなことしてる時間もないかもしれないけど、柚木先輩を感じない場所で、いろいろ考えてみよう……。

 立ち上がって、やみくもに走り始めたからだろう。
 私は突然目の前に現れた男の人に思い切りぶつかった。

「わっ。ご、ごめんなさい。前方不注意で……っ!」

 相手は何かを庇うかのように両手を身体の外側に突き出す。
 私の頭は広い胸に出くわして、そのままよろめいて止まった。

「……君か」
「つ、月森くん!?」

 月森くんはほっ、と息を漏らすと、手にしていたヴァイオリンを握りしめた。

「楽器を持っているときは、ゆっくりと行動した方がいい」
「ごめんなさい。月森くんは大丈夫? ケガ、してない? ヴァイオリンも」

 セレクションが進むにつれ、月森くんは時折くつろいだ表情を私に見せてくれるようになった。
 私は、話の端々に浮かぶ月森くんの音楽への思いに、襟を正したくなるような清々しい思いがして。
 月森くんのヴァイオリンが壊れたら、なんて、考えるのもイヤなことだった、から。

 慌てて月森くんを見上げる。
 月森くんは軽くヴァイオリンに目を遣ると、何でもない、というように微笑んだ。
 そして私に目を這わせると、不審そうにキレイな眉を顰めた。

「……どうかしたのだろうか?」
「え? ど、どうして?」
「……具合の悪そうな顔をしている。どこか痛いところでもあるのか?」
「痛い? どうかな? どうだろう……」

 痛いと聞いて連想するのは、私の心だ。
 小学校の頃かけっこで作った膝のキズ。
 そんな砂と血が混じった広範囲のキズが、べったり心の表面に張り付いてるみたい。
 一瞬で出来るカッターのすっきりとしたキズの方がまだマシだった。── その方が、早く治るもの。

「何でもない。そ、そういえば、月森くんもここで練習? コンクールももう少しだもんね。頑張って」

 私はむりやり笑顔を作って月森くんに笑いかけた。
 けれど、私の笑顔は彼の笑顔を作る力は無かったみたいだ。
 月森くんは困惑した表情を浮かべ、ふっと、息を吐いた。

「……何でもない、って顔じゃないだろう。……こちらに来て欲しい」
「……え?」

 月森くんは弦をヴァイオリンを持った手に持ち帰ると、器用に私の手首を引っ張って。
 軽く私の肩に手を置くと、そのまま一番近くのベンチに座らせた。

「な、なに? 月森くん……」
「いろいろ、すまなかった」
「え? どうして?」

 突然の謝罪に戸惑ってしまう。
 なんだろう。

 ……あ、もしかして、あのことかな?

『君のことは認められない』

 って、言ってた、こと……?

 確かに、第2セレクションの途中ではっきり、言われたことがあったっけ。

 魔法のヴァイオリンを使っていた以上、そう言われるのももっともなことだし。
 逆に月森くんの音楽に対する気持ちがどれだけ強いのか、って再認識したりもして、私は全然気にしていなかったのに。

「俺は知っていたんだ。最近君がヴァイオリンを替えたのを。今、君が手にしているヴァイオリンは、 魔法のかかっていない普通のヴァイオリンだろう?」
「あ、うん……」

 私は膝の上にあるヴァイオリンケースを撫でる。
 少しずつ、私がこのヴァイオリンに慣れるにつれ、このヴァイオリンも心を開いてくれるようになった気がする。

 ── やっと、本当のコンクール参加者になれた、ような……。
 そんな誇らしさも一緒に連れてきてくれて。

「ファータの魔法がかかっていないヴァイオリンを使って、君がどんな反応を示すのか、楽しみだった。
 そうだな。すごすごと今度のセレクションは辞退するのかとも考えていた」

 月森くんは私の顔を凝視して、話を続ける。

「けれど、……俺の想像に反して、君は、そう、しなかった。
 ……それどころか、懸命に努力して。魔法のヴァイオリンでは奏でることができなかった音さえ響かせ出した。改めて目を見張る思いだった」
「……ありがとう」

 何も言わなくても、見てくれてる人はいる。
 見て。私の作った音を聞いて。音色を感じて。
 こうして、偶然の作ったタイミングで、声をかけてくれる人がいる。

 ね、リリ。── それだけでも、私、コンクールに出場した価値があるよね?

「日野……?」

 前の1件のことで、私から非難の言葉でも投げられると思っていたのか、月森くんは、私がお礼を言ったのが意外だったようだ。
 それとも私のさっきの表情が、よほど気になっていたのかな?
 月森くんはふいに目の端を赤らめて、視線を逸らした。

「あ、いや……。すまない。俺ばかり話し続けて。お互い第4セレクションではライバルとして最善を尽くそう」
「うん! ありがとう。一緒に頑張ろうね!」

 最初は、あまり良い出会い、ってワケではなかったけど。
 今、この場所から、月森くんと、同じコンクール参加者として仲良くできたら、いい。
 コンクールをきっかけにして。
 私たちのこれからあと2年近くある学院の生活。
 時々正門ですれ違ったりしたら、挨拶を交わせるくらいの友達にはなれるよね?

「じゃあ、私、そろそろ帰るね?」

 私はヴァイオリンケースを持って、ベンチから立ち上がった。

 西の空がだんだん茜色に染まる。こっくりとした、優しい色。
 明日も今日みたいな、良い天気だったらいいな。
 そうしたら、また柚木先輩のキレイなフルートが聴けるかもしれない。

(……柚木先輩……)

 ごく自然に。
 脳裏に浮かんできた人物に、自分自身が戸惑う。
 ももうっ。いつまで、私、先輩に甘えてるのかな……。もう。

 『コンクールの間だけ』

 って、あんなにはっきり言われたのに。

 そうだ。学院を出れば、考え方の切り替えができるかな?
 家に帰って独りになれば、別のことに気持ちが動いていくのかなあ……。

 隣りに長い長い影が差す。
 制服の布が擦れる気配で、月森くんが私の横に立つのが分かった。

「日野。……また泣きそうな顔をしている」
「え? そ、そんなこと、ない……よ?」
「している。……親に放り出された迷子みたいだ」

 月森くんはそう言うと、私に手を伸ばす。
 筋張った細い指は、私の目の前で空を切って。
 ためらいがちに、私の肩に置かれる。

「あ、あの……?」
「あ、いや。……すまない」

 そしてそのまま彼の手は、何事もなかったかのように、再び元あった場所へと戻っていった。
 一瞬、何をされるのだろう、と身構えていた私の肩は、月森くんの腕と共に元の場所に納まる。

 ── どき、っとした……。

「あ、あの……。そうだ、月森くん?」

 この、学院、って場所がいけないんだよね。
 普通科棟では練習する場所がなくて。自宅でも防音効果のある部屋なんか、なくて。
 私は、放課後、限られた時間で練習するしかない。

 けど、この3ヶ月間の放課後。
 私は、どの場所に行っても、ファータと柚木先輩を捜し続けていた、から。

 今日のこれからの時間も。明日の放課後も。
 ── 私は探してはいけないモノを探し続けてしまいそうで。

 ……もう、イヤ。
 求め続けるのは、イヤ。

「なんだろうか?」
「あの、月森くん。平日の放課後。午後3時から6時くらいまで、練習できる場所って、知ってる?」

 月森くんは訝しそうに首をかしげた。

「学院内ではいけないのか? 今までずっとそうしてきただろう」
「えーっと……っ。そ、そう! コンクールまで、周りを気にしないで集中したいなあ、って思って。
 練習室も予約がいっぱいで、なかなかそんな長い時間は取れなくて……」

 しどろもどろな答え。
 上手くごまかせた、と思っていたけど、根が単純だからか、どこかしら答えの中に、自分の本音が見え隠れしている。

 違うの。
 本当は、『周りを気にしないで』、じゃなくて。
 ── 柚木先輩から逃げたいんだ、私……。

 逃げても、何の解決にさえ、ならないのに。

 月森くんは私から視線を外して、私の質問を考えている。
 そしてしばらく逡巡したあと、再び私の方に顔を向けた。


「俺の家にくるか? 自宅は防音設備のある部屋がたくさんある。
 ……君のために1室空けるのは、大したことじゃない」
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