全く……。俺もどうかしてる。
 俺自身、まだまだ鍛錬が足りないってところか? こんなに長いこと生きてきたクセにさ。

『長い時間束縛するのは、好きじゃないんだ。── 束縛されるのもね』

 さっき、香穂子にぶつけた言葉は、半分は真実で半分は虚構。

 確かに、今までの自分は、そうだった、と言い切ることができる。
 でも……。

(香穂子)

 初めて、こいつのことを本当の俺が認識してから。

 俺は家の権力の及ばない場所で宝物を見つけた、と思った。
 こいつになら、束縛されても良いとさえ感じた。
 何よりそれ以上に、俺が束縛したいと思う時間も増えてきていた。

 真面目に音楽に取り組む姿勢に、目が離せなくなった。
 取っつきやすい音色に惹かれた。

 軽くイジめれば、俺の想定外の言葉で言い返してきて。
 それがやけに心地良かった。

 こいつと一緒なら、古くさいしきたりや家のことなんか遠いことのように思えてきた。
 こいつと一緒に、音楽を作っていく。
 その過程の中で、俺自身、どれだけ音楽が好きなのか、再認識させられもした。

 あいつに甘えてる? そうかもしれないな。

 素直で。
 1つ1つが、まっすぐで、ポジティブ。
 それが、天然だから、余計に参る。
 本当に、困ったね。

 このまま、俺の意のままに香穂子を束縛して。
 いずれ俺は家に縛られ、香穂子を束縛できなくなる日が来る。

 ……そのとき、俺は、香穂子を手放すことができるのか? なんて。


 そんな先のことを気にして、今を断ち切ろうとするなんてさ。
*...*...* Period 2 *...*...*
 音を立てないようにゆっくりと、屋上からの階段を降りる。
 香穂子が追いかけてくるかも、と耳をそばだてたが、鉄製のドアはぴくりともせず俺をにらみつけているかのようだ。

(……泣かした、か?)

 初めは、俺が何を言っているのかわからなかったのだろう。
 それともいつもの軽いイジワルなら、受けて立とうという気持ちだったのか?
 香穂子の顔にはまだ笑顔が残っていた。

『コンクールの間だけ、僕のこと、好きでいて? とでもお願いすればいいのかな?』
『長い時間束縛するのは、好きじゃないんだ。── 束縛されるのもね』

 香穂子は俺のぶつけた言葉に、痛そうな顔をして、長い睫を伏せた。
 風のせいではないチカラで、先が震えているのが見える。

 どうしてなんだ?
 ── なぜ、そんな顔をする?

 元々は、俺が暇つぶしの対象にお前を選んだだけで。
 お前は、俺のこと、好きでもなんでもないだろ?
 お前からしてみれば、俺はただの意地悪な先輩。それだけだろう?

 なのに、どうしてそんな傷ついた表情するんだ……。

 まだ指に残っているあいつの感触を握りしめる。
 記憶というのは案外残酷なモノで。
 新たな感覚で塗り替えられた肌は、今は何の名残も残していなくて。

(それ以上望まないよ。……望めないだろう)

 口走るつもりの無かった言葉まで、あいつの前で言ってしまったことを思い出す。

 ── あそこまで言うつもりはなかったのにな。

「あれ? 柚木、どうしたの、こんなところでさ」

 俺の脚は目的もなく、3Bの教室に向かっていたらしい。
 教室では、明日の楽典の課題をやっている火原と級友数人がいた。
 火原は俺の姿を見つけると、勢いよく椅子から立ち上がって俺の方に近づいてくる。

「柚木は楽典のレポート、もう書いちゃった?」
「あ、ああ。今日自習の時間があったでしょう? その間にね」

 微妙に自分の声が上滑りなのが分かる。
 火原に気付かれるかと思って、あいつの顔を見上げたが、そこには3年間変わらない屈託のない笑顔があるだけだった。

「なーんだ。そっかーー。じゃあ、写させて、ってお願いすれば良かったよね。
 そうしたらこいつらと作るより、はるかに良いレポートができたと思うのに! スコアAA、みたいな」
「火原〜。ずいぶんじゃないか。その『こいつら』がいなかったら、おまえ、もっと悲惨なことになってたぞ」
「火原のレポートのメドも立ったことだし、俺たちもう帰るわ」

 ちょうどキリが良かったのか、級友たちは火原につられるようにして席を立つと、教室の後ろのドアを通り抜けていく。

「おう! サンキューな! 明日、購買でなんかおごるからさ」
「カツサンド以外で頼むぞ」
「こら。おごられる立場で、リクエストしないの!」

 ドアからひょいと顔を出して2人の級友を見送ったあと、火原は楽しいことでもあるかのような軽快な足取りで、俺のそばへやってきた。

「柚木、どう? 第4セレ。進んでる? おれ、全然なんだよね。
 中だるみっていうかさ、『思い描くもの』って難しいよね。
 パワーン、って明るく楽しく弾いちゃえばいい、っていうのと違うもんね」
「ああ。『思い描くもの』っているのは、清麗系のキーワードが主になるからね。清らかで、清々しい曲想が好まれるだろうね。冬海さんや日野さん、女性陣が得意なんじゃないかな?」
「香穂ちゃんかー。ねね、ここのところ、香穂ちゃんの音色、って深みが増してきたと思わない?
 以前は可愛らしい曲だなあ、って感じだったけど、昨日聴いたらね、なんだか、奥行きが出てきてたような気がしたよ」
「そう? 日野さんが?」

 俺は笑顔を途切れさせることなく、火原の言葉に頷いた。

 さっきの屋上。
 香穂子の泣き出しそうな顔が思い浮かぶ。
 その原因を作ったのは他ならぬ俺自身だというのに、今浮かぶ、この痛い感情はなんなんだろう?

 今、親友の口から、香穂子の話は聞きたくなかった。

「いいよねー。香穂ちゃんの音色! こう、飾り気がなくてさ、心の中にスコーンって響いてくるよね。
 ヴァイオリンってトランペットみたいに、大きな音ってワケでもないのにね」

 火原の言うことに軽く頷きながら考える。

 こいつなら……。火原なら、どうだ? 香穂子と火原。
 火原は良いヤツだし。香穂子も、火原となら、……いや、香穂子のことだ。
 どんなヤツとも楽しく過ごしていけるんじゃないか。

 頭の中では十二分に認めてみても。
 ……どうしたんだろうな、なかなか感情は付いていかない。

 火原は俺の近くの机に軽く かけ声を掛けて座ると、まるで初めて出会ったときのようにまじまじと見上げてきた。

「そういえばさ、柚木もだいぶん、音が変わってきたよね?」
「僕が?」
「うん! なんていうかさ、俺、柚木みたいに頭良くないから、きちんと表現できないんだけど。
 以前、柚木って、人に聴かせる音楽、っていうのが得意だったじゃない?
 自分が奏でたい音を創るよりも先に、聴いてる人の気持ちを考えて音を出す、っていうか」
「……うん。それで?」

 俺は火原の隣の机から椅子を引き出し、そこに腰を下ろした。
 火原の顔がすぐ上に見える。
 窓の外からは、6月の風と、鋭いまでの日差しが差し込んでくる。

「柚木は頼られキャラだからなー。周囲の期待にNoって言えないんだろうな、って思ってたんだ。
 だけど、でも……。今月に入ってからの柚木の音はいいよ! 自分のために弾いてる、って気がする。
 第3セレのラルゴも、すごく良かったしね。切ない音が響いてくるようになったと思うんだ」

 そうだな、そんな感じかな、うん……、と火原は独り言を続けて。

 ふ、と、沈黙が流れる。
 雲が太陽を隠したのか、急に教室内は薄暗くなった。

 全然似たところがない親友同士だと思ってたし、事実、周囲にはそう受け取られていた。
 けれど、俺は、火原の純真なまでの鋭さや、無邪気な明るさに、ここまで支えられてやってきたんだと思う。

 自分ではわからないところを、さらりと、指摘する。
 そんなの、目の前にいる親友以外、できないことだろう。

「……ありがとう。火原」
「って、わっ。おればっかり、なに語ってるんだろっ。ごめん。柚木、気分悪くしなかった?」
「全然? 感謝してるよ」
「良かった!」

 火原はほっとしたように大きく伸びをすると、窓の外に目をやった。
 先ほどのまでの雲はあっという間に途切れ、少し勢いの衰えた光が教室中に広がった。

「そろそろ何時? あー。もう5時かー。おれ、練習室が予約してあったんだ。行ってくるね」
「ああ。気をつけてね」

 火原は勢いよく机から飛び降りると、鼻歌を歌いながら教室内に設置されているロッカー室の扉を開けた。
 そして、自分の相棒を取り出すと、ひょいと肩に掛ける。
 適度に筋肉の付いた身体が難なくそれを持ち上げて、軽い足取りで、ドアへと向かった。

 そのまま、いつもの火原ならドアも閉めないで、勢いよく走り出すハズが。
 火原はドアの取っ手に手を掛けて、何かを思い出したのか、ボンヤリと立ちすくんでいる。

 顔をドア側へ向けたまま、で。

「火原? どうしたの。もう時間だよ?」
「……香穂ちゃんの音に出会ってからだと思うよ」
「え?」
「柚木の音色が変わったの」
「火原……」

 火原は、言いづらそうに早口で告げる。

「柚木の音が変わるのと同時期に、香穂ちゃんの音も変わっていったよね。まるで競争してるみたいに。
 だから、おれ、自分を納得させたんだ。ああ、そうなんだ、って……」

 親友の口を借りて今の俺の状態を説明してもらって、悟る。
 俺と香穂子の仲は、なんて陳腐で簡単なストーリーだったんだろう。
 そして俺は。
 自分の気持ちに、いつまで目をそらし続けていたんだろう。

 振り返った火原の顔が赤い。怒っているようにも見える。

 そうだろうな。いつまで経っても煮え切らない態度の俺。
 香穂子をおもちゃのようにして、虐めて、からかって、落ち込ませて。

「おれは、……おれはね。それで良かった、って思ってる。だから、頑張って欲しいな。
 ── おれが諦めた分もさ、柚木にさ」
「火原……」
「ははっ。今日はいっぱい話しちゃったね。なんだかおれ、すっきりしたよ。じゃあね、柚木」
「あ、ああ……」

 火原はとびきりの笑顔で振り返る
 でも、いつもと違う行動が1つ。

 律儀に、しかも音を立てないように、そっと教室のドアを閉めていったこと。
 俺は西に傾いた太陽と共に、1人教室に残される。

(ゆっくりと考えなよね)

 まるで火原が、いつも笑顔で俺の背を押してくれてるみたいに。
 そんな火原のフォローが、荒くれだった俺の気持ちを、束の間解きほぐす。
 けれど……。

(今の俺に、どうしろというんだ?)

 諦めることには慣れている。いつものことだろ。
 音楽を辞めることも分かっていて。

 だから。

 俺は、香穂子のことも諦められる。── きっと。
 なのに、火原も香穂子も。

 ── どうしてそう俺にかまおうとする?


 俺は頬杖をつき、深くため息をついた。
←Back
Next→