ヘンだよね。先輩の声は穏やかなテノールで、耳につく声ってワケじゃないのに。
上天気の屋上。
私は、何かから逃げるように階段へ続くドアを開けた。
突然の暗闇に目が慣れないのか、真っ暗な中、赤と緑の点滅がチカチカしてる。
手にしていたヴァイオリンは、細いドアの隙間を怯えるように通り抜けた。
最近はこんな失敗、したことないのに、白いスカートの端に醜く松脂が付いている。
間、だけ……。
間、だけ、なの……?
不愉快そうに眉を顰めた先輩の顔が浮かんた。
『日野さんは、どういう風に言われたいの?
『コンクールの間だけ、僕のこと、好きでいて?』 ってお願いすればいいのかな?』
*...*...* Period *...*...*
昨日からの雨がウソみたいにからりと晴れた放課後。ヴァイオリンを片手に教室のドアを出て行こうとした私に、仲良しのユミちゃんが声をかけてきた。
「香穂。今日も練習? 頑張るねー」
「うん。コンクールももう最後だもん」
「見に行くよ。なんてったって、普通科からの出場者が2人もいるんだもん」
「あはは、それが理由なんだ」
「そうだよう」
ユミちゃんは私の腕を取って笑う。
「今までね、……少なくとも私はコンクールって、音楽科オンリーのイベントごとだって思ってたの。
イマイチ、クラッシックって堅苦しくて好きじゃなかったし。聴いてたら寝ちゃいそう、って」
うんうん、と私は頷く。
そうだよね、クラッシックってそんなイメージがつきまとってるよね。
実際、私だって、リリに出会わなかったら、ずっと一生そのままの印象を持って生きていったと思うもん。
「でもさ、香穂が出るから、ってことで、初めてコンクールに行ったら……」
「行ったら?」
「ヘンだよね。……なんか、良かったの」
あまりにストレートなユミちゃんの口調に私は頬が緩んだ。
初めてのコンクールで得た感想は、私も全く一緒、だったから。
「でしょでしょ?」
「思ったより知ってる曲もいっぱいあったし……。なにしろ、曲1つ1つが短いのが良かった!」
編曲を重ねて、一番見せ場の強い音色を繋げて1つの曲にする。
今回のコンクールの趣旨だった。
演奏も大切だけど、その前にある曲の構成も、実は目に見えない大変な作業の1つで。
目には見えないそういう努力を評価してもらうのは、やっぱり嬉しい。
『バカみたいだよな。作者が思いを込めて作ったであろうフレーズを細切れにしてさ。
それで果たして作者の意図が伝わるのか怪しいモノだね』
柚木先輩の編曲についての意見を聞いて、私もその考えは正論だとは思えたけど。
こうして、私も含めて。
今まで音楽と関わりの無かった普通科の人たちが親しみを感じてくれてたなら、それはそれでいいような気がする。
「あっと、香穂、引き留めてゴメン。練習、頑張ってきてね」
「ありがと。ユミちゃんも気をつけて帰ってね」
私は軽い足取りで1番のお気に入りの場所、屋上へと向かう。
(頑張って、か……)
コンクールも最終ということもあって、普通科の間でもコンクールの話題が口の端に上るようになった。
そのたびに聞く、言葉。
音楽科、普通科、学年もまるで関係なく、日によっては全く知らない人から声をかけられることもあった。
『あ、俺さ、火原の友人の友人なんだけどさ。君、頑張ってるって聞いたから』
『あ、ありがとうございます……』
『ちょっと声かけてみたくなったんだ。見に行くからさ。頑張れ』
『は、はいっ』
自分が夢中になっていることに対して、応援をもらう。
心の中に心地の良い温度の紅茶を淹れてもらったみたい。
へこたれそうになるとき、触るとほんわり暖かくて。
喉の奥に流し込むと、身体全体が暖まる気がするんだ。
音楽科と普通科が張り合う、っていうのは元々がムリな話だし、そんなおこがましい気持ちは持ってない。
けど、土浦くんと私がファータ主催のコンクールに参加することで、普通科の人も楽しんでくれたら……。
(……嬉しい)
屋上へ続く階段を昇って、私は木製のドアを開ける。
壁とドアの隙間から、どこまでも音が広がってくれそうな突き抜けた青空が見える。
きっと業者さんがお手入れしてくれているんだろうけど。
いつ行っても、整然とキレイな姿を見せてくれる花たちもいる。
『人の多いところで練習しろ』
柚木先輩にそう助言はしてもらったけど。
私は第4セレクションが始まった今でも、ずっと屋上が大好きな場所になっていた。
屋上は音楽科棟の上にあるから。
私がどんなに早く行っても、誰かしら音楽科の先客さんが来ていることが多い。
── 今日は、誰?
コンクールに関係のある人なら誰でも嬉しいし、もし音楽科の人なら、合奏を合わせるのも、いい。
── でも、……できれば。
私は階段の踊り場で息を整える。
磨りガラスからこぼれる優しい日差しの階段から、逆風にもメゲないで屋上へのドアを開ける。
すると、目が慣れる前に意地悪な声がした。
「お前も飽きないヤツだな。ここ以外の場所を教えてやろうか?」
私は自分の中の予感が、良い方に出たことを知って。
私は後ろ手にドアを閉めると柚木先輩に笑いかけた。
「あはは。……なんだか、屋上って集中できて好きなんです」
人の視線も気にしないで。思う存分楽譜にのめり込めて。
スコーンといい音が出たときは、その日の空が観客になってくれる。
も、もちろん、そうじゃないときは、雲が残念そうににらみつけてる気がするんだけどね。
柚木先輩はふっと、私を眺めると、何でもないことのように話を切り出した。
「そう言えば、お前のこと、俺のクラスで噂になっていたよ。頑張ってるって」
「……そうなんですか?」
同じ学院内で学生をしているといっても、普通科と音楽科は制服も違うし、校舎も違う。
噂、と言われてもあまりピンとこない。
けど……。
自分に関する良い噂、っていうのは、聞いてて気分の悪いモノではなくて。
むしろ。
音楽にまるで素人の私が、肥えた耳を持っている音楽科の人に褒められた、というのは、なんだか嬉しい。
自分のやっている楽譜練習や、解釈練習が正しい方向に進んでいるのかな、って思えてくる、から。
「えへへ。……嬉しいです。そういうお話聞くと」
「まあ、それくらいのやんちゃは許してやるよ」
長い光沢を持った薄紫の髪が、風に靡く。
昨日の放課後と何も変わらない時間。
(あれ……?)
どうしたのかな?
柚木先輩の表情が微かに翳っている。
そのただならない雰囲気に、会えて嬉しいと思っていた今までの気持ちが、しゅわりと溶けて無くなっていくように感じた。
「俺はお前に俺の本性を見せた。……まだまだ俺も修行が足りないってところか」
柚木先輩は自嘲気味につぶやくと、軽くカヴァードキーを使うフレーズを確かめて、私の方に向き直る。
金のフルートが日差しに反射して、暖かみのある色に変わる。
「香穂子」
先輩はさっきの表情は私の気のせい? と思うような意地悪な笑顔を浮かべて。
かつ、と足音を立てて近づいてくる。
「……俺とお前、せっかく出会ってこんなに深く知り合ったんだ。もっと特別な関係になろうぜ」
「はい? ま、また、先輩、からかって……」
「どうして? 俺はお前に期待しているんだよ。お前は俺を飽きさせないオンナだ、ってね」
「た、確かにツッコミどころ満載、です、けど……っ!」
素直に喜んでいいのか、悲しいんだ方がいいのか分からない。
柚木先輩は、忙しく変化する私の表情を面白そうに見つめて。
射るように、すっと、目を細める。
「そのままのお前でいて? ……ってそれほど難しいことじゃないだろう?」
先輩の濃い瞳の色に、トクンと、胸が揺れる。
表情から何かを探そうとしても、整った美しさからは何もうかがい知ることは出来ない。
きっと、……そう。
そうだ。いつものようにからかってるんだよね? そうじゃなかったら、多分コレは新手のイジワルなんだよね。
持ち上げたり。そうかと思えば、今いる場所から更に下に落としたり。
今までは笑って、聞き流せていたのに。
第4セレクションが進むにつれ、少しずつ、私の中で、変化が生まれ始めて。
彼が生み出す、振動。それは支点だ。
揺れは私の方に伝わるまでに、より大きく、より豊かに響く。
── みぞおちがきゅっと音を立てているんじゃないかと思うほど。
なんだか私1人が振り回されて。……泣きたくなる。
私の掠れた言葉は尻切れトンボになって、宙に舞う。
縫いつけられたように先輩から目が離せない。
柚木先輩は、おやおやと小さいコをあやすような穏やかな笑みを浮かべてさらに脚を進めた。
「可愛いね。……目は口ほどにものを言う、って感じ?」
「いえっ、あの……」
「それとも、……ご不満? 僕にどう言って欲しいの? ん?」
柚木先輩はしなやかな指で私の顔を持ち上げる。
完璧なまでの美しい微笑みを浮かべているのに、柚木先輩の目はガラス玉のように透明で。
本当の気持ちが知りたくて、私は必死に覗き込む。
けど、そこには汲むべき情報は何も浮かんでいない。
目の前にいる、私の姿さえも映してない、『拒絶』という膜が彼の瞳に掛かっているようで。
「じゃあわかりやすいように言い換えてあげるよ。
……『コンクールの間だけ、僕のこと、好きでいて?』 とでもお願いすればいいのかな?」
「は、はい?」
間、だけ……。
間、だけ、なの……?
『間だけ』という言葉だけが、強く頭に残る。
よく、分からない。
どういうことなんだろう。
そう考えて、私はいろいろ思い当たる。
普通科で。
リリの魔法がなければ絶対コンクールに出ることなんて叶わなかったことを。
学院への登下校。
ヴァイオリンを大切にするのがメインで、私はヴァイオリンのついで、だった、ということ。
けれど。
何かの弾みに見せてくれる先輩の優しさに、いつの間にか、甘えてしまっていたこと。
そして。
その優しさがずっと。
コンクールが終わってからも、それからも続くと思っていたこと ──。
柚木先輩の心の底辺。
今の私には見えない。
……って、なに私、後輩のクセに偉そうなこと言ってるんだろう。
思えば。元々。
私が、柚木先輩の心の奥底に辿り着いたことなんて、なかったのに。
柚木先輩は、私の頬を軽く撫でると腕を降ろして。
二の句が告げられない私に、投げやりな調子でつぶやいた。
「長い時間束縛するのは、好きじゃないんだ。── 束縛されるのもね」
「……先輩?」
「それ以上望まないよ。……望めないだろう」
先輩は私から手を離すと、何事もなかったかのように踵を返して。
階段へ続くドアへと手をかけた。