*...*...* Jupiter 1 *...*...*
「え? 本当に? 聞いてない。というか、知らなかったよ……」

 がっくりと肩を落とす私を、二人のクラスメイトは笑いながら見ている。
 月森くんは早々にお昼ご飯を食べ終えたらしい。楽典を手に教室を出て行く。

『君が読んでいる本を見せて欲しい』

 と言われて貸した本。
 ずいぶん初心者向きで、こんなのは月森くんにとってはつまらないんじゃないかな、と思ったけど、どうなんだろう……。
 あとで、意見を聞いてみようかな。

 真奈美ちゃんはひょいと私のお弁当箱からエビフライをつまむと、美味しそうに口に入れた。

「いただき〜」
「あ、待って。もう、真奈美ちゃんってば」

 一番最後に一番大好きな食べ物を取っておくのは、私のクセ。
 うう、せっかく取っておいたのにーー。

「そっか。香穂は今年から音楽科に編入したんだもんね」
「だね。私たちは毎年恒例のことだから慣れてるけどね」

 恨めしそうな私にお構いなく、美咲ちゃんはデザートのりんごに手を伸ばすとピックに刺した。

「そう、毎年ね、音楽科主催のクリスマスコンサートがあるの。学院内の講堂で。
 ……あー、美味しかった。ありがと、香穂」

 エビフライはひらひらと小さなしっぽになって、私のお弁当箱に帰ってくる。

「あ、ううん? どういたしまして」

 もう、美咲ちゃんたら。そんな風に笑ってお礼を言われたら、私がどうなるかって分かってるんだよね。
 美味しかった、って言葉に弱いの弱い私。
 明日は、美咲ちゃんの分もエビフライ、増やそうかな。

「そうだったの? 知らなかったよ……。普通科って招待されてないよね?」
「まあね。春の学内コンクールが特例、ってことで。今回のクリスマスコンサートは音楽科だけのイベントなの。
 二年生が主、一年生が従。三年生は観客になるの。まあ、一足早い卒業式みたいなものね?」

 ヴァイオリン専攻の美咲ちゃんは、ナフキンの端で指を拭いた。
 爪切りで爪は切っちゃダメなんだよ、磨くようにして削るんだよ、って言ってる指は、いつも綺麗なラウンド型に光っている。

「卒業式?」
「そうよ〜。香穂ちゃんも音楽科に来てからいろいろわかったと思うけど、音楽科って人間関係が密なのよ。縦も横も」

 真奈美ちゃんの言葉に、私は、うんうん、と首を振る。

 音楽科に転科した初日に思ったのは、クラスメイトたちの仲の良さ、だったのを思い出す。
 クラスのみんなの目的。
 ── 音楽を創る── そのためにお互いがお互いを高め合っているような共通意識が、自然と友人の輪を作って、親しさを増しているような気がした。
 いろんな色が混ざってる普通科から見ると、音楽科の人って、みんな心の底は同じ色を持っているような感じ。

 それは学年を越えた関係の中でも同じことが言える、と思う。
 週に2回は、各楽器ごとで、学年を越えた縦割りの授業がある。
 楽器の違う火原先輩や柚木先輩とは、私は直接アドバイスをもらうことはできなかったけど。
 クラスメイトの中には『楽器つながり』なんて、同じ楽器を共有してできあがったカップルのことをそう呼んでいたりもする。

「オケ部は参加型だけど、このコンサートは授業の一貫ってことで強制、でしょう?
 だからね。編成も大がかりなものになるの。なかなか聴き応えがあるんだよ?」
「練習もその分ハードだけどね」

 美咲ちゃんと真奈美ちゃんは笑いながら、1年生のときのことを思い出してるみたい。

「ああ! 練習のこと忘れてたよーー。1年の時も激しかったよね」
「そうそう。美咲はしごかれてたよね。今3年の谷崎先輩に」
「あー、もう、谷崎先輩も卒業かー」
「あ、でも星奏の附属大へ行くって言う噂だよ?」

 私はリンゴを口に入れる。

 そうなんだ……。
 音楽科に編入してまだ3ヶ月。
 少しは慣れたかな、って思ってたけど、こういう年中行事っていうのはまだまだ初めてのことが続くんだろうな。

「そっか……。私、コンサートってあまり行ったことがなかったから、楽しみ!」

 ナフキンの端をつまみながらそう言うと、2人は呆れたような慈しむような曖昧な苦笑を浮かべた。

「えーっと……?」
「あのねえ、香穂。演奏する側と聴く側って全然立場が違うよ」
「あの、拷問に近い日々を香穂は知らないからねえ……」
「今年も多分、月森くんのリクエストは高いだろうから。ヴァイオリン専攻者は大変だよ?」
「彼は求めるモノが高いからね〜」
「超技巧、だよね」

 うーん。確かにそうかもしれない。
 超技巧、っていう言葉に私は深くうなずく。
 本当に彼の選曲は厳しいほどの指の動きが要求される曲ばかりだと思う。
 特に最終セレクションで奏でたサラサーテのツィゴイネルワイゼンは、今でも神がかっていた、と言う人もいるほど。

「そうなんだ……。でも月森くんって、指導するってタイプじゃないかも」

 孤高な人、って感じがする。むしろチームワークを必要とするようなこんな行事は苦手のような……。

 人を取りまとめて、指示している姿なんて、想像がつかない。

 もし、月森くんの気に染まないふざけた演奏をする子がいたら、彼なんて言うんだろう……。
 私の考えを読み取ったのか、美咲ちゃんは真面目な顔をして説明した。

「ううん? 人に指導する、って案外自分のための勉強になるのよ。
 だからわざわざこんなイベントを授業にして単位を与えてる、って話もあるの」
「そうだよー。月森くんみたいなタイプにはいい経験になると思うな」

 音楽科に来て良かったな、って思うのはこういうとき。
 みんな、入れ物の中の月森くんを見てるじゃない、ってこと。

 親がどうとか。育ちがどうとか。そんな見かけだけじゃなくて。
 ちゃんと本物の月森くんを見て、考えたり、正しい批判をしてる。
 彼の足りないところは、どこなのか。彼の溢れ出すような才能はなんなのか。
 みんなが目指す音楽という世界。その中で彼は大事なクラスメイトだから。

「あ、今日の午後の授業、クリスマスコンサートの曲、選曲するんじゃないの?」
「そうだった。今年はどんな曲になるかなあ」
「また専攻ごとに意見が分かれるんだよ、きっと」
「結構バトルになるよね」

 私は二人の声を背に、美咲ちゃんから借りたCDをCDケースに入れると、歯を磨くために席を立った。


 ── この日から、また私のヴァイオリン漬けの毎日が始まった、気がする。
*...*...*
「ではヴァイオリン専攻の者の全員の一致でコンマスは月森くんに。……いいかな、月森くん」
「……はい。最善を尽くします」
「よろしく頼むよ」

 パラパラとした拍手の中、月森くんが軽く頭を下げたのが分かる。
 専科の先生も月森くんの実力に異論がないんだろう、満足げに微笑んでいる。
 うん、こういうカリスマ性を持った人がクラスに一人でもいるといいよね。あっという間に決まるもん。

「じゃあ、今からはフリーの時間にするから、月森くんを中心にヴァイオリン専攻の中で、選曲をしておいて下さい。
 私はピアノ専攻のグループに行ってくるから」
「わかりました」

 先生は月森くんにそう指示すると、きびきびと教室の端っこに陣取っているもう一つのグループの方へと向かった。

「選曲って?」

 美咲ちゃんに小声で聞く。

「そう。それぞれのパートごとに、演奏したい曲を数曲選んでおくの。
 専攻科ごとに、好きな曲って結構ばらついちゃうんだ。
 個人の好みも入るし、去年やった曲は最初から除外されるし」
「そっか……」
「けど、いいよー。なんか、クリスマスって感じでムードがあって」

 クリスマス、か……。

 今年は、私、どうするんだろう。
 柚木先輩と過ごせるのかな……。

 この前も普通科も合わせた全国模試で学年トップだ、って金澤先生から聞いたことはあったけど。
 一応受験生、だし。じゃましたら悪いかも。


 ── けど、過ごせたら、いいな。久しぶりに、ゆっくり。


 私の前では家のことや、自分を取り巻いているいろんなことを、あれこれ言わない人だから。
 クリスマスは柚木先輩がリラックス、してくれたらいいな。


 月森くんは黒板の前に立つと、かつかつと綺麗な字を書いた。

「では、ヴァイオリン専攻の選曲について議論したいと思う。誰か希望があったら言って欲しい」
「あ、はーい、はい!! モーツァルト、どう? このごろ旬じゃない?」
「わ、ベタ過ぎ。もっと玄人好みのヴァイオリンが強い曲は?」
「って、なんかあったっけ?」
「パガニーニ」
「そりゃ、ラッパ吹きたちが一番に却下しそうだな」

 わいわいと口火を切ったクラスメイトを、月森くんは口を挟まず楽しそうに見ている。
 そして私の視線に気付くと、微笑みながら頷いてくれた。
*...*...*
 その日の帰り。
 柚木先輩が受験生ってこともあって、私は下校時間の5分くらい前に正門前に行くことにしていた。
 待たせて、その挙げ句に風邪を引いた、なんてことになったら申し訳ないもんね。

 帰りの車の中、クリスマスコンサートのことや選曲の話を柚木先輩に告げる。
 すると先輩はあっさりと、言葉を繋いだ。

「クリスマスコンサート? ああ、もうそんな時期か」
「そうですね。私、全然知らなくて……。柚木先輩からお話を聞いたこともなかったし」

 私はすっかり冷えて堅くなった指をさすりながら言う。

「まあ、茶番だよ。リーダーシップというか? 統率力を付ける、っていうのが目的なだけの。
 あんなのは訓練だから、誰でも慣れればできる」

 相変わらず冷たい返事が返ってくる。

「誰でも、ってことはないと思いますよ。何でもできるのは柚木先輩だからです」
「おや。そう?」
「えーっと……。だって楽しみじゃないですか? クラスのみんなで何か一つやる、っていうの。
 なんだかワクワクします。今よりずっとみんなと仲良くなれる気がするし。
 普通科ってこういうみんなでやる、っていう授業がなかったから。……楽しみです」

 本当にそう。今もクラスの美咲ちゃんや真奈美ちゃんには仲良くしてもらってると思うけど。

 他にも、まだ口を利いたこともないヴァイオリン専攻の男子もいる。
 そんな人とも、お話できたら楽しいだろうな……。
 でも、どうだろう。
 そういう人って、やっぱり自分に厳しく、他人にも厳しい、なんていうのをモットーとしてるのかな。── 月森くんみたいに。

 そりゃ初めは月森くんって取っつきにくかったけど。
 今は、いろんなことを話してくれる。何気なく授業で話題になったCDを貸してくれたりもする。

 だから、思うんだよね。
 他のヴァイオリン専攻の人とも、話してみたい、って。
 どんなに性格が違っていたとしても、音楽という一点においてだけは、どんな人とも友達になれるんじゃないか、って。

 その人が音楽のことをどう捉えてるか知りたい、と思うから。

 いろいろ考えていたことが顔に出ていたのか、柚木先輩が私の鼻を引っ張って笑った。

「……お祭り女」
「は、はい? なんてこと言うんですかーー」
「やれやれ、クリスマスコンサートに関して、火原と全く変わらないコメントをもらうとは思わなかったよ」
「い、いいじゃないですか。一緒のコメントだって。……茶番じゃないもん」

 頬を膨らませて柚木先輩をにらむと、鼻を摘んでいた手はさらりと髪を伝って肩を滑っていった。


「まあ、あまりムリはするなよ。……この前みたいに寝込まれても俺が困る」
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