*...*...* Jupiter 2 *...*...*
 月森くんの手が私の弦を制す。

「あ、やっぱり……。ダメ?」

 おそるおそる月森くんの顔を見上げると、彼は眉をひそめて息をついた。

 クリスマスコンサートまで、あと2週間。

 曲もようやく決まって、月森くんと私は、二人で練習室に閉じこもって 第三楽章のフレーズを繰り返している。
 月森くんのソロ。その後に、私との二重奏。
 最後に全体の合奏が広がるフレーズ。
 ヴァイオリン専攻が主体となってやる、一番大切な流れのところ。

 役割分担が決まってからというもの、私と月森くんは毎日の放課後をこんな風に過ごしてたっけ。

 ……ふふ、懐かしいなあ……。
 春頃、コンクールだ、って言って、リリやコンクールのみんなと合奏をしていたのを思い出す。

 けれど、今やっている練習の方が、春のコンクールより遙かにハードだった。
 このクリスマスコンサートは、コンクールの時のように、編曲をして曲を短くしていない、フルコーラスのもの。
 そのためか、練習にもすごく時間がかかる。

 月森くんは弓を構えると、軽く模範演奏を示す。

「わ……」

 一撫でするだけで、音の違いはすぐ分かる。
 不要なモノを削り取った透き通るような音が練習室に広がる。

「ここは、こんな風に華やかさを観衆に訴えるべきだろう」
「はい。じゃあ、もう一度やってみるね」

 もう、何時間、レッスンが続いているんだろう。
 個人レッスンというのについたことのない私はわからないけど。

 ふと志水くんを思い出す。
 志水くんは、弾きたくなったときは、寝るのも食べるのも忘れて自分の音が出るまで探し続ける、って言ってたっけ……。

 私は相棒を肩に乗せる。
 明日になったら、ううん、ならなくても今の段階で肩が泣き声を上げてるのがわかる。
 ヴァイオリンにあごを乗せると、皮がめくれてるのか ひりひりする。

 時計を見てないからわからない。
 けど、きっと下校時間の6時なんてとっくに過ぎて、……しかも2時間以上は過ぎてる気がする。

 指の動きがぎこちない。
 疲れなのか、どうなのかも分からない。技巧が足りないのかも分からない。

「……った……っ」

 突然E弦が鈍い音を立てて飛ぶ。も、もしかして、摩耗しちゃった……?
 今日張ったばかりの弦を1日で摩耗させちゃうなんて初めてかも……。

「月森くん……?」
「何を動揺している? 取り替えればいいことだろう」

 月森くんは冷静に指示すると、ピアノの椅子に腰掛けて 曲の背景を説明し始めた。

「モーツァルトの作曲したこの交響曲第41番は、荘厳な曲だ。
 当時から人々の溢れんばかりの賞賛を浴びていたという」
「……うん」

 弦の張り替えって、難しい……。
 私はペグとくるくると巻くと細かなところを微調整する。

 これで、いいかな……。

「あれ?」

 ペグが上手く回らない。
 つるつるする感触を確かめるためにそっとヴァイオリンを裏返すと、そこには血の痕がついていた。

 おそるおそる左手の人差し指を見ると、爪と皮との間から血が滲んでいる。
 制服の白地にも朱い線が付いている。

 ── また、やっちゃった……。

「どうかしたのだろうか?」
「あ、ううん。何でもない」

 私は月森くんに気付かれないように、指を手の平の中に握りしめた。
*...*...*
 帰り道。
 コンサートが終わるまでの間は、先に帰ってて下さい、と伝えておいたこともあって、正門前に柚木先輩の車はない。

「わ、もう、8時過ぎてる……」

 車どころか、人影もない。

(柚木先輩、どうしてるだろう……)

 コンクールの練習が始まってからというもの、朝の登校のときだけしか柚木先輩には会えなくなった。

 電話も、メールも。
 私が電話をしたい、と思う時間は、先輩は受験勉強があるかな、と思うとなかなかかけられなかったり。
 じゃあ、メールは? となると、浮かんでくる話題はヴァイオリンのことばかり、で。
 音楽科とはいえ、外部受験で音楽とは違う道を歩き出している先輩の、時間を取っちゃいけないかな、とか……。

 ううん、それよりも。
 やっぱりこのクリスマスコンサートは、聴いてびっくり、のサプライズもプレゼントしたい、から。
 練習の話をするのは絶対内緒にしておきたい。


 ── 今の私は、会う時間や話す時間が少なくなっても、どこか安心してる。大丈夫だ、って。

 もう、不安になることはないんだ、って。

 柚木先輩の家に行ったときに聞いた話。家での先輩の立場。先輩の気持ち。
 今はそれらのことを全部教えてくれている、って、心からそう思えるから、かもしれない。

 夜の正門前はファータの像の下から漏れる明かりと、あとはぽつぽつと花壇の周りにあるスポットライトが寒そうに光っている。
 霜が降り始めたのか、全体が白っぽくきらきらと輝いてる。

 柚木先輩、正門という場所が好きだ、って言ってたこと、あったっけ……。
 冬の夜のこの場所が、こんな顔を見せる、って、知ってるかな? 明日の朝、聞いてみよう。

「寒い……。明日は雪かな」

 ちかちかと星が瞬いている。
 冬って夏よりも星座がキレイに見える気がするのは空気が澄んでいるのかもしれない。
 私はピンクのマフラーをぐるぐると首に巻き付けた。

「……った」

 マフラーのふわふわしたしっぽが、人差し指にからみつく。

 指とか、口の中、とか。
 毎日必ず使うのが当たり前なところをケガすると、ふとしたときに本当に痛いんだよね。
 そんなときだけ、元気なときのありがたみを知ったり。

 クリスマスコンサートまでに、なんとかして治さないと……。

「……香穂子」
「あ、……月森くん」
「君はこんな時間に 一人で帰ろうとしていたのだろうか?」

 背後から長い影が伸びてくる、と思ったら、そこには品の良い黒のダッフルコートを着た月森くんが立っていた。
 手には、ぴったりとした革の手袋が張り付いている。
 ファータの銅像から差している光が、月森くんの周りを柔らかく覆って。
 深みがかった青い髪がいつもより艶を増しているのがわかる。

「うん、だって近いんだよ、私の家。走ればすぐだから」

 笑ってごまかそうとすると、ぴしゃんと言い返された。

「ヴァイオリンを持って、か?」
「え、えっと……。ごめんなさい」

 月森くん……。
 最初のコンクールの時から比べたら比べものにならないくらい親しくなれた、とは思ってるのに。
 ヴァイオリンに関わることだけは、相変わらず厳しい。

 けど、こうやって2週間、私にみっちりとマンツーマンの指導をしてくれているときに感じたことがあった。
 ヴァイオリンに対する真摯な想いが、彼をそうさせてるんだ、ってこと。

 厳しさの先にあるヴァイオリンへの熱意。
 ……彼が、懸命に私と、クラスのみんなを引き上げてくれてるんだ、ってことを。

「家まで送ろう」
「あ、ううん? 月森くん、遠回りになっちゃうよ。疲れてるでしょう?」
「構わない」

 そう言うと、月森くんはすたすたと私の自宅の方向へと歩き出した。

 こう、って決めたら一歩も退かない。
 ……優しいよね、こういうところ。
 同じクラスになる前だったら、なんとなく怖い、って逃げちゃってただろうけど。

 今は、私に気を遣わせないための彼特有の態度なんだ、って分かる、から。



 時々行き交う車が、エンジン音を立てて遠ざかっていく。
 お互い疲れているからか、会話は少なかった。

 けれど、会話以上の時間を合奏に当てていたからだろう。
 沈黙が却って演奏の前の休止符のようで、私たちはのんびりと歩き続けた。

「どうもありがとう。送ってくれて」

 門扉の前に来てお礼を言うと、月森くんは鞄の中から包みを出して 私の鼻の前に突き出した。

「明日からこれを使ってくれないか」
「え?」
「俺の母さんが買ってきた演奏旅行のお土産だ。
 これを、あのコンクールに出ていた可愛いお嬢さんに、と ことづかってきた」
「あ、ありがとう……。なんだろう?」

 大きな封筒くらいの包み……。
 とても軽くて、触れるとごわごわとした紙に包まれているみたい。

「たとえ朝、車で登校するとしても、手袋をするに越したことはない。── 早く傷が治るといいな」
「え? 知ってたの?」

 指の傷は見られなかったはず。
 今は制服の上にコートを着ているから、上着についた血の痕も月森くんは見ることはできないはず。
 なのに……?

 月森くんの頬は笑いきれないまま、どこか堅さを残して。
 それは思いがけず寂しいそうな表情にも見えてくる。

「君の音は悲しいくらいまっすぐだから。── なんでも分かってしまう。
 今、君が何を思っているのか。求めているものは何なのか、が」
「月森くん……?」
「いや、話し過ぎた。……じゃあ、お休み。ゆっくり疲れを取るといい」
「あ、今日はどうもありがとう。お休みなさい」

 ただいま、とリビングにいるお母さんに告げて。
 勢いよく階段を昇ると、首を傾げながら自分の部屋に入る。
 制服を着替えるのもそこそこに、私はベットの端に腰掛けると包みを開いた。

 ── 出てきたのは。

 制服の上着の色をこっくりと優しくしたような、クリーム色の革の手袋。
 月森くんの手を思い出す。
 そう言えば、彼の手には黒色の手袋が 手の皮のように張り付いてたっけ……。
*...*...*
 翌日。
 いつものように朝、家まで迎えに来てくれた車に乗ると、柚木先輩は私の手元に目を留めた。

「えっと、月森くんがくれたんです。正確には月森くんのお母さん、かな?
 ちゃんと指の手入れをするように、って」
「ふぅん。親切だな」

 柚木先輩は面白くなさそうな顔をして窓の外に目を向ける。
 先輩と一緒に通い出した夏には新緑だった街路樹。
 それが今は、数枚の葉がひらひらと頼りなくついているだけで、どこか淋しそうにも見える。

 うう、この反応は、大体予想はついてたんだよね……。

「柚木先輩。イヤ、ですよね。ごめんなさい……」

 思えば、柚木先輩は毎日のように親衛隊さんや名前も知らないような女の子からよくプレゼントをもらってくる。

『お前、欲しいのがあったら持っていけよ』

 車のトランクに無造作においてある、可愛くラッピングされたモノたち。
 それを柚木先輩はつまらなそうに指さしていたこともあった。

 けど、それらの類のモノを実際に身に着けることはなかったっけ……。

 でも。
 ……私はどうしたら良かったのかな……?

 月森くんの好意をなかったことにするのも申し訳ないし。
 慌ただしく手袋を取ったり付けたり、ってそんな器用なこともできそうにないし……。

「った」

 ぼんやりと手袋を見つめていると、突然額を突かれた。

「ったく。不器用だな。馬鹿正直、って言うんだぜ。そういうの」
「う、……そうかも、しれません」

 そうだよね、友達からもらった、とか、自分で買った、とか、なにか上手い理由を言えば良かったのに。

 けれど……。
 そういうのもあまり好きじゃない。

 月森くんがくれた手袋は、同じヴァイオリンを専攻している友達としての気持ちだと思うから。
 だから、正直に言ったんだ。もらったんだよ、って。

 ── それより、何より。

 ……私の中にある、一番の気持ち。……それは。


「……柚木先輩にウソつくの、イヤだったんだもん」


 口を尖らせてそう言うと、柚木先輩は苦笑して 腕組みをしていた手を解く。

「まあ、いい」
「はい?」

 そして表情を引き締めると、私の顔を覗き込んで言った。


「お前が月森くんのヴァイオリンから薫陶を受けることは、お前にとってマイナスにならない。
 ……だから頑張ってやっておいで」
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