*...*...* Jupiter 3 *...*...*
 昼休み。
 早々にお弁当を食べ終えた私と美咲ちゃんと真奈美ちゃんは、CDを聴くのに余念がない。

 春のコンクールは、リリから楽譜をもらって、それを弾くだけだった。
 しかもその楽譜はハイライト、と言うのか、有名なフレーズが短く編曲してあって、練習も短い間にこなすことができた。

 けれど、今度やるクリスマスコンサートはフルコーラスということもあって、曲想を覚えるだけでも時間が足りないくらい。

「あ、あれ? なくなっちゃった……」
「なあに? 香穂」
「あのね、ハンドクリーム。今年は去年よりたくさん使ってる気がする……」

 チューブ状の容器のしっぽをぎゅっと押しても、元々ほんの少ししか残っていなかったのか、ほとんど出てこない。

「うーん。この時期、ハンドクリームって、音楽科の子は使う量多いと思うよ。
 購買に行ってきたら? リップクリームの隣りの列に並んでると思う」

 美咲ちゃんはシャープペンの先でリズムを取りながら教えてくれる。

「ありがと、美咲ちゃん。ちょっと行ってくる」

 私は財布を持つと、小走りでエントランスへ向かった。
 購買は、パンの販売が一息ついたのか閑散としている。
 どこかな、リップクリームの隣り、ってことだから……と、レジの近くをうろうろしていたら、突然肩を引っ張られた。

「わ……っ! な、なに?」
「よぉ、久しぶりだな。元気でやってるか?」
「土浦くん!」

 音楽科に移ってからは、なかなか顔を見合わせることもなかったのに。
 こうして向き合うと、一緒に合奏に取り組んだ春の日がすぐに浮かんでくる。

 土浦くんの、チャイコフスキー……。
 彼はふざけて『おチャイコさま』なんてある種の暖かみを持った言葉で揶揄してたけど。
 彼の、心の中をくすぐる音、大好きだったなあ……。

 土浦くんはどこか懐かしそうな表情を浮かべて私を見ている。
 いつもより背が小さく思えるのは、前屈みになって、私と視線を合わせてくれているから、かもしれない。

「香穂子、音楽科の制服も板に付いてきたようじゃないか」
「あはは、そう? ありがとう……」

 クリーム色の制服は、私が思っていた以上に袖口や肩が汚れることがわかってきてから、私は2、3日おきに制服を洗っている。
 身体にぴったり馴染んだようにみえるのはそのせいかな。

「土浦くんは? どう、最近……。サッカー? それともピアノ?」
「両立って言いたいところだけどな。春はコンクールにのめり込んでサッカーの大会をふいにしちまった。
 だから、今は冬の総体に向けて、サッカーの比重を増やしてる」
「そうなんだ」

 冬になっても引かない日焼け。対照的な白い歯がまぶしい。

 同級生なのに、どうしてだろ。すごく頼りになるお兄さんのような人。
 第一セレクションの途中、わたわたしている私の伴奏を買って出てくれた人。

 同じクラスになったことは一度もないのに。
 ましてや親しく話した時間はコンクールの間だけだって、いうのに。
 顔を合わせるとあっという間に時間が縮んでいく感じがする。

 ── クラスメイト以上の存在。

「そういうお前はどうだ。せっかく音楽科に転科したんだ。
 音楽科の人間に負けてない、ってところを見せてくれよ」
「あはは、私も今は音楽科なんだよ?」
「生粋の音楽科、ってワケじゃないだろ? 普通科のよしみってことでさ。俺の中じゃやっぱりお前はお前だからさ」
「そうだね。見せる、見せる……。どうしたら土浦くんに見てもらえるかな……」

 この頃は寒さも手伝って、あまり屋外で練習することもなかったし。
 ましてやサッカーに集中している土浦くんに聴いてもらうタイミングって、なかなかないんだよね……。

「あ、そうだ!」

 そう。きっと。
 あんなに音楽の世界を好きでいてくれる土浦くんなら、今度のクリスマスコンサートもきっと気に入ってくれるはず。
 クラスのみんなで頑張って作り出す音。
 その価値や素敵さを、合奏が得意な土浦くんなら絶対分かってくれるはずだもん。

「おぅ、なんだ? なんかひらめいたのか?」

 土浦くんは いたずらっ子のような表情を浮かべて微笑んだ。

「あのね、明後日やる、音楽科のクリスマスコンサート、来て? ぜひ、来て! 待ってる」
「はぁ? ってさ、それって音楽科の授業だろ?」
「うん、そう」

 土浦くんは片手で髪の毛をかきあげてめんくらった顔をしている。

「俺もその日は、普通に普通科の授業があると思うんだがね」
「いいの。春のコンクール参加者は参加する義務があるんだよ?
 私が決めたの。だから、来て? 待ってるから」
「それってお前に決定権があるのか? そりゃ楽しそうだな」

 土浦くんはノリがいい。
 私が冗談を言ってると思ってるんだろう、ぽんぽんと返事を返してくる。

 けれど私は本気だった。
 きっと、気に入ってくれる。あの大きな手で拍手してくれる、はずだもん。
 きちんと価値が分かる人に聴いてもらえたら、音楽だって喜ぶ気がする。

「というか、聴いて欲しいな、土浦くんには……」
「そんな顔するなって。聴きに行ってやるから」
「本当?」

 私の雰囲気から何かを感じたのだろう、土浦くんは近くのベンチを指さした。

「ま、お前の頼みなら聞いてやらないとな。
 ……どんな曲やるんだ? ってせっかくだからなんか飲みながら話、しようぜ」
「うん!」

 私たちはジュースを買ってエントランスの中のベンチに座ると話し始めた。

「で、選曲は?」
「あのね、モーツァルト交響曲第41番。えっと……。よくわかってないんだけど、有名?」
「おいおい、音楽科のセリフとは思えないぜ。
 へぇ、41番か。モーツァルトの三大交響曲の1つじゃん。
 第四楽章が俺は一番好きだけど、滑り出しからして有名だよな」
「そうなんだ……」

 土浦くんはあっという間にリンゴジュースを飲み干すと、長い指でパックを握りしめた。
 パックのおもてに書かれているリンゴの絵が、きゅっと小さくなる。

 ふふ、リンゴジュースと土浦くんっていう組み合わせってなんだかおかしい。
 前に南楽器のおじさんに見せてもらった小さな土浦くんが浮かんでくるような気がする。

 あの曲は、っと……、と土浦くんは軽くメロディを口ずさんで。
 ふと疑問が湧いたのか、私の方へ膝を向けた。

「弦はともかく、ティンパニーとかは揃うのか? 音楽科にティンパニー専攻っていたか?」
「ううん? それはね、ピアノ科の人が買って出てくれてるの」

 ピアノ科専攻の人が一番多い音楽科。
 けど、こういうオーケストラ形式のコンサートには、ピアノの数はそれほど必要ない。
 だからこのクリスマスコンサートは、二部形式に分かれている。
 一方は自分の専攻する楽器を。
 もう一方はお助け要員というか、わりと簡単に取り組める打楽器を中心に演奏する。

「で? お前はどうなんだ? ヴァイオリンの方は」
「あはは、毎日特訓だよ〜。月森くんの元で。彼、厳しいんだ」
「あいつか」

 土浦くんは眉を顰める。そういえば、この二人、って仲が悪かったっけ……。

 イニシャルが同じだと言ってもめたり、音楽の趣向が違うと言って、言い争ってたり。
 でも今は思う。
 どちらも言い分も間違ってなくて。
 言い争うほどの強い想いを音楽に対して持ち続けてる、ってことなんだよね、二人とも。

「うん。けど、すごくためになる。月森くんの言ってること。
 ……足ひっぱらないようにしなきゃ、だよね」
「まあ、月森からヴァイオリンを取ったら何にもないからな」

 土浦くんはあっさり言い捨てると、思い出したかのようにこの曲の解釈をし始めた。

「この曲、別名をジュピターっていうんだぜ」
「ジュピター?」
「そう。後世の音楽家……、誰だったか忘れたけど、41番の旋律の美しさは、神にも劣らない、と感動して名付けたんだと。
 俺もCDを何枚か持ってる。オーケストラによって解釈が違うから結構面白いぜ、これが」
「そうなんだ……」

 初めにクラスで選曲するとき、CDを通しで聴いたことはあったけど。
 オーケストラによって音が違う、なんて、そんなことまでは考える余裕がなかった気がする。
 そもそも同じ曲に対して何枚もCDが出てるなんてことも、深くは知らなかったよ。

 土浦くんは私の様子を呆れたように見ている。

「その調子じゃお前、いろんな解釈を聴いてなさそうだな……」
「え? あはは、ばれちゃった?」

 土浦くんは私の手にある空のパックを持ち上げると、そのまま立ち上がった。

「お前、夜とか土日なら時間あるだろ? 良かったらCDを貸してやるから聴いてみたらどうだ?
 聞き比べっていうのもいい勉強になると思うぜ」
「土浦くん、ありがとう。助かる」
「いいって。それくらい大したことじゃない」




「って二人とも、ここで何してるの?」
「あ、火原先輩!」

 突然元気な声がする、と思ったら、エントランスの入り口から、オレンジ色の半袖Tシャツを着た火原先輩が近づいてきた。
 手には500ccのペットボトル。額には汗が光ってる。

 ふふ、火原先輩はいつも元気だ。

 音楽科に転科してから、火原先輩の存在はあちこちで感じてた。
 明るくて、屈託がなくて……。
 火原先輩に会えない日はどこかこう、自分の元気パワーが小さくなるような気もしたっけ。

「いや、こいつからいろいろ聞いてたんですよ。音楽科のクリスマスコンサートの件」
「あー! もうすぐだもんね。今年は聴く立場だからって、練習がないからお気楽に過ごしてたけど。
 毎年クリスマスイブにやるよね」

 火原先輩は背中に手を回すと、はたはたとTシャツを摘んで風を送っている。
 そ、そんなに暑いのかな? 私は普通に制服を着ていてもちょっと寒いくらいなのに。
 んー。もしかして、バスケの帰りなのかもしれない。

 私は土浦くんの言葉を補足した。

「そうなんです。土浦くんにもぜひ聴きに来て欲しい、って頼んでたんです」
「へえ、今年は曲、なにやるの?」
「えーっと、確か……」

 土浦くんはあごに手を当てて話し始めようとする。

「わ! 土浦くん、言っちゃダメーー!! 3年生には内緒なの」

 私は手を思い切り伸ばして土浦くんの口を塞いた。
 う、土浦くんてば、大きい……。また春より大きくなってる気がする。
 私は背が止まっちゃってから大分経つのに、男の子ってそういうものなのかな。


「お、おい、なんだよ。そういう大事なことは最初に言えよ」
「あはは、そうでした」
「……と言うことだそうですから、俺からはノーコメントですよ」
「なんだ、つまんないなー。でも」


 火原先輩はそこで一旦言葉を切って。
 私と土浦くんの顔を見てまぶしそうに目を細めた。


「── なんだか、懐かしいよね。みんなで出た春のコンクールが」
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