*...*...* Jupiter 4 *...*...*
コンサート本番。この日はクリスマスイブっていうこともあって、講堂の端っこには小さいながらクリスマスツリーが飾られている。
クラスメイトが舞台に上がったり降りたりするたびに、ぶら下がってる飾りが震えるように揺れている。
木の葉が 思いもかけずたくさん落ちること。
クリスマスのイルミネーションが、立ち止まりたくなるくらい美しく見えること。
そのときそのときの季節が愛おしいな、って思えるようになったのは音楽科に来てからかもしれない。
『芸術っていうのは根っこのところで繋がってるものなんだよ』
ヴァイオリン専科の先生が授業のたびに言う言葉が浮かんでくる。
『美術、音楽。そういったものは生きていく上には直接必要ないだろう?
極端なこと言えば、そんなモノはなくたって生きていくことはできる。
けれど、人間っていうのは、そういう遊びの部分が必要なんだ。それが文化ということなのかもしれないな』
以前、柚木先輩が言っていた言葉も一緒に思い出す。
芸術は、言葉にならない想いを伝えるためにあるんだ、って。
人は自分の気持ちを正確に伝えるために、言語の分野を発達させたという。
だからいわば、言葉とは退行する形で進んでいく、芸術の世界。
それを愛おしく感じるのは、やっぱり、芸術でしか伝えられない気持ちがあるからだと 今は思う。
そして、芸術の中で、言葉を伝える手段というのは、私にはやっぱり音楽しかないのかもしれない。
私はスカートのひだを揃えて椅子に腰掛けると、調弦済みのヴァイオリンを肩に乗せた。
そうだよね。伝えられたら、いいよね。
卒業おめでとう。3年生の先輩たち。
それと、今までありがとう。
私たち2年生は、先輩たちが作ってきた音を、自分のものにして。もっと広げて。
いつか、後輩たちに伝えていけますように。
このクリスマスコンサートの練習中、冬海ちゃんや志水くんが、それぞれの専攻科の中で真剣な表情で取り組んでいるのを見てきた。
きっと来年は彼らが中心となって、3年生になった私たちを見送ってくれるはず。今の私たちのように。
ちゃんと、伝わったかな。
一緒に演奏する楽しさや、厳しさ。
私は技術的に偉そうなことは何一つ言えない。
けど、リハーサルの時に感じた感情は、今も忘れられないままで。
たくさんの想いを抱いて、今、こうして舞台の中央に座っている。
「香穂、準備はいい?」
小声で美咲ちゃんが声をかけてくる。
「うん。……緊張してるけど、オッケイ」
美咲ちゃんは私の耳元に顔を寄せた。
「香穂、月森くんを盛り立ててあげてね」
美咲ちゃんはよく言う。月森くんのヴァイオリンが好きだって。
真剣に向き合ってる姿が好きだ、って。
『わかるわかる。月森くんって隠れファン多いよね。ファンレターを捨ててるのを見たことある、っていう子もいるし』
『ん……。ファンレターじゃなくて、ラブレターだったって話だよ?』
『ま、ルックスも申し分ないし、星奏学院音楽科のサラブレッドだもんね』
ピアノ専攻の真奈美ちゃんがそう茶化すと、いつもはそういう冗談に乗ってくる美咲ちゃんは、きっぱりと言い切ったっけ。
『月森くん自身が好き、ってワケじゃないの。月森くんの音楽に対する姿勢が好きなの。
── なにかにあんなに真剣になれるってカッコいいよ』
『……そっか……』
『ね、話して? 聞きたいな、美咲ちゃんの気持ち』
私と真奈美ちゃんはお互いに笑って目配せをしながら、美咲ちゃんの言うことを聞き続けたっけ。
── 嬉しかった、な。
彼の音楽に対する姿勢を、そんな風に見てるクラスメイトがいてくれて。
第二楽章。月森くんのソロパートがある。
その音色を引き立てるのが私のセカンドパートの役目。
私はすぐ隣りにある月森くんの肩を見る。
すっきりとした彼の襟足が、彼の緊張感を伝えてくる。
彼は、音楽に対して一生懸命だ。その姿がまぶしい。
ずっとまぶしいと思ってた。春のコンクールの時から。
まぶしさの裏側に、自己に対する真摯な姿勢があった。
こうして音楽科に転科して。一緒の時間を過ごすようになって。
その気持ちはますます強くなってきている。
どうかな。
彼も、少しだけでいいから、私を仲間だ、って思ってくれるようになったかな?
「香穂子?」
私の視線に気がついたのか、月森くんが私の方を振り返った。
「……頑張るね、私」
うう、せめて月森くんの足を引っ張らない程度に演奏できたらいいんだけど……。
できるかな……。緊張する。
緊張でしっかりと笑顔になりきってないのが分かったのか、月森くんはふっと口元を緩めた。
「いや、いつも通りでかまわない」
「ん……」
「君はよく頑張ったと思う。── あとは俺が全力を尽くすだけだ」
*...*...*
黒幕が上がる。目の前は白い制服で埋まっている。
音響設備が整っていると言うことで演奏場所は講堂になった。
けれど、全校生徒が入ることのできるスペースに、わずか200人にも満たない観客が入っているのは、どこかがらんとしてもの悲しい。
あれ、一人ぽつんと見えるのは、土浦くんかな?
大きいのと、制服の色を気にして、わざと前屈みになってる。
ぜひ来て、なんて呼びつけて、悪かったかもしれない。── 彼に喜んでもらえる演奏にしなきゃ。
音楽科の長老の先生が燕尾服を着て、ゆったりと中央にやってくる。
リハーサルで軽く1回音を合わせただけの先生。
それ以外の時はいつもピアノ専攻の子が代振りをやってくれていた。
……大丈夫かな。オーケストラってそういうものなのかな?
私が疑問を口に出すと、クラスメイトたちはとんでもないと言わんばかりの口調で否定してたっけ。
『大丈夫だって。あの先生の振りはすごいから』
『そうそう。音が肘から湧き出てる、っていう子もいるよ。わかるなあ。
みんなが指揮棒に付いてくるのよ。── 全員の気持ちが』
先生が観客に向かって一礼する。
すると、もの悲しいと感じていた観客席から、大きな拍手が起こった。
音楽科の3年生は、最前列に並んでいる。
その中で、大きな動作で手を叩く火原先輩がいる。
その横に、少しだけ緊張したような表情を浮かべた柚木先輩もいる。
指揮者の先生が中央の台に上ると、歓声も拍手も止んで。
やがて強張った背中に張り付くような静寂がやってきた。
── どうして、かな……。
緊張が最高潮になるはずのこの時間。
私は、ほっと暖かい気持ちが生まれるのを抑えることができなくなっている。
……懐かしさに、胸が、詰まる。
── コンクールの時も、こうやって、柚木先輩、私のこと、見ててくれましたよね。
真っ白なスーツ着て。いつもの皮肉っぽい笑顔じゃなくて、優しそうな目をしてた。
あれから、半年。
私は、自分でも思ってもみなかった進路へと歩き始めている。
先生の手が空を切る。微かに震え出す。
それを合図に、空気を縫うようにして、オーボエが厳かな音を生んで。
私は楽譜をにらみつけると、弓を構えた。
── もうすぐ。ヴァイオリンのパートが始まる。
月森くんは軽く私に目配せすると、第一パートを奏で始めた。
後を続くように、私も自分の音を作り始める。
その後を、ヴァイオリン専科全体の音が覆う。
── 柚木先輩、聴こえてますか?
春のコンクールに出てから。
私は音楽ってなんて素晴らしいんだろう、って思った。
だから音楽は自分にとって特別なものになった。
自分が影響を受けて、自分が変わったから。
だから音楽には限りない力があると信じてる。
その力は人の心に、思い出という名の温かい記憶を打ち込んでいく行為だと信じてる。
── 『私』が、そう、だったから。
コンクールに参加したみんなの顔が浮かんでくる。
それに重なるようにして、クラスメイトの顔も浮かんでくる。
選曲から始まって。パート練習。全体練習。
一緒に頑張ったよね? 意見の違いから、ケンカすることもあったけど。
心の底に流れてる気持ちは同じだった。だから頑張れたんだと、今は、思う。
春のコンクールの間中、普通科のクセに、ってチクチク嫌味を言ってた、川井くん。
同じクラスになったときは、ちょっとだけ憂鬱だった。話をするのも緊張した。
けど、練習の合間に聞かせてくれた、ヴァイオリンのメンテナンスの話。
私、忘れてないよ。
『日野さんって、こういうこと あまり知らなさそうだからさ。ちょっと言ってみただけ』
『あ、ありがとう……』
『余計なお世話っていうなら聞き流してくれ』
── なんて。本当はわかってたでしょう? 私が喜んでいるのを。
ぱらりと一斉に楽譜がめくられる。いよいよ最終の第四楽章に入った。
私は再び弦を構えると、自分のソロパートを奏で始める。
好きだよ。大好き。
みんなと作る音色が大好き。
一体どれほどの宝物を、音楽が私に与えてくれただろう。
私は自分の創る音には自信がない。
月森くんや志水くんみたいに技巧が優れているわけでもない。
土浦くんや冬海ちゃんみたいに、溢れ出るような情感があるわけでもない。
ましてや、火原先輩や柚木先輩のような、華やかさがある演奏スタイルでもない。
でも、願うことがある。
自分が感じる想いを、聴いてくれてるみんなに伝えたい。
伝えたいことを、広げて、胸で響かせて。聴いてる人に届けられるように。
── そこに向かって進んでいくことが、柚木先輩に繋がる。
私はこうして音楽を奏でながら、自分がとてつもなく影響された『何か大切なこと』の一つ一つを、もう一度自分の中で作り直しているんだと思う。
きらきらした欠片の山。それを繋ぎ合わせて創るステンドグラスのように。
それはいったい何のためなんだろう。
わからない。奏で続けていけばいつかはわかるのかな?
この音の果ての、見えないところに、『私の音楽の世界』があるのかな?
── あったらいいな。きっとありますように。
コンクールの間に 私が音から受けた心の震えを、今度は自分の指でこの世界に実現できますように。