*...*...* Jupiter 5 *...*...*
 張りつめた空気が、幕の奥からやってくる。
 椅子に座る音。楽譜をめくる音。── なにかを期待させる音。

 俺は舞台が始まる直前の空気に心惹かれる。

 3週間、香穂子は懸命に練習してきたと思う。
 何事にもまっすぐでポジティブなあいつのことだから、きっと、手を抜く、とか、要領良くやる、いう方法も知らないのだろう。

 けれど どんなに眠くても、迎えに行く朝、俺を待たせたことは一度もなかった。
 それどころか、赤い目をしながらあいつが話す内容は、いつも面白くて。

『選曲は内緒ですけど、昨日、こんなことがあったんです』

 慣れ、とか。俺を取り巻く背景とか。
 時間と共に腐敗する空気が俺と香穂子の間にはまるでない。

 俺に対するあいつの気持ちを疑ったことは一度もないのに。
 どういうんだろうね。

 ── ふとしたはずみに、あいつは俺の手の届かないところへ行ってしまうような気がする。

 そして今日は。
 また俺の想像を超えた姿で、音を響かせるのだろう。
 春のコンクールの時のように。

 俺はぼんやりと 手元のパンフレットを見るでもなく見つめ続けていた。

 やがて、ゆるゆると黒幕が上がり講堂内は大きな拍手に包まれた。


 ── やっと、始まる。


「楽しみだね、柚木。去年おれたちがやったんだよね。クリスマスコンサート」

 火原はパンフレットを丸めると懐かしそうに舞台を見つめている。

「ああ、そうだね」
「なんか、あれからあっという間だったよね。もう1年も経っちゃって。今度はおれたちが送られる立場なんて」
「全くもって同感だね」

 この1年の俺の変化に、一番驚いているのは俺自身だ。

 ── 香穂子。

 リリなんていう妖精に会って、コンクールに出て。
 あいつに会って、俺の音が変わり始めて。
 それでようやく分かった。

 俺自身の中身が変化し始めていることに。

 向かって左側を陣取っているヴァイオリン群に目を遣る。
 コンマスは月森くんか。
 セカンドコンマスは、いや、コンミスか、……あの位置なら香穂子だろう。

 香穂子は俺を見つけると はにかむように笑って、手にしていた弦を握り直した。

 袖の奥から指揮者がゆっくりと顔を出して、舞台の真ん中に進むと大きく一礼をする。

 再び指揮者へのエールのような拍手が生まれた後、舞台に切り込むような静寂が訪れる。
 みんな、コンサートなどの音楽系のイベントに慣れた人間ばかりだから、その辺は心得たものだった。

 指揮者は、演奏者の方に向き直ると、枯れ枝のような細腕を振る。

 それは空気を伝って、月森くんの腕を動かした。
 それに香穂子が続く。

 モーツァルト、交響曲第41番。モーツァルトの三大交響曲の最終章。

 春先のコンクールよりも、また一層磨きをかけた音色。
 それに、ゆっくりと付いてくる第二旋律の香穂子の音色。

 月森くんを引き立て、優しく後を追ってくる。

 香穂子の音楽は香穂子から生まれて、世界に向かって溶けていく。
 俺のものじゃない。……俺のものにできない。

 そんな当たり前すぎる事実が俺の胸を打つ。

 隣りに座っている火原は、言うべき言葉が見つからないのか、楽章の途中で小さなうめき声を上げた。

「なんていうの? 今年の2年生ってすごいね!
 オケ部でよく話は聞いてたけど、おれの想像以上だよ」
「そうなの? 火原」
「オケ部は有志で作ってるでしょ。だからさ、かえって上手い子は漏れちゃうんだよね。
 個人レッスンが忙しいとか言ってね」
「まあ、集団が苦手という人間もいるだろうからね」

 月森くんの音色が止んで、次の音の中心はトランペットになった。
 火原は身体を乗り出して演奏者を見つめている。
 ああ、あれはオケ部の後輩か。見覚えのある顔が並んでいる。

 なのに、どうしてだ。
 華やかな音が講堂中響き渡っているというのに、俺の中では、香穂子の音が耳元で鳴り続けている。

(また、上手くなった)

 最近、じっくり聴いたことがなかったからか?
 けれど、最近といっても、このクリスマスコンサートの練習が始まる3週間前に一度聴いているはず。
 そのときはこれほどまでに感じなかったのに。

 独奏と合奏の違いは、相手の求める音を正しく表現できるかにある。
 独りよがりではない、確かなリズム、響き。

 そして何よりも大切なのは、相手の音を盛り立ててやろう、という気持ち。
 相手への思いが混ざり合い、新しい音を作る。

 素直な、屈託のない音色。ちょっと聴いただけでは通り過ぎてしまうな、優しい音だ。

 第三楽章の初め、セカンドコンミスの香穂子の独奏が始まった。

 音譜を追う瞳。釣られるようにして動く鮮やかな指さばき。
 白い肌の上に浮かぶ高揚した色は、自分だけしか知らない香穂子よりもまだ、美しくて。

 俺は三年生全体の視線が香穂子に集中しているのを感じた。
*...*...*
 鞄を持って正門前に出る。
 今日は久しぶりに香穂子と帰ることができる。

 見るとファータの銅像の前で、月森くんと香穂子がさっきの興奮も冷めやらない様子で話し込んでいるところだった。
 俺は二人の間に立って礼を告げる。
 まあ、月森くんに対しては、半分、社交辞令、半分、本音と言ったところかも知れない。

「お疲れさま。二人とも素敵な演奏をありがとう。
 卒業に相応しい素晴らしい音楽をプレゼントしてくれて感謝しているよ」
「……柚木先輩、ありがとうございます」

 月森くんは硬い表情で礼を述べた。
 ふぅん……。まあこれは、想定内の反応、というところか。

 素直に礼を返すあたり、彼もこの半年で少しは大人になったのかもしれないな。

「じゃあ俺は失礼する。香穂子も今日は神経を使っただろうから、早く休むといい」

 月森くんは香穂子に向き直ると笑顔を見せた。

 ……なるほどね。
 ずいぶん前、まだ春先のコンクールの間だったか。
 火原が大事件だとでも言わんばかりに、月森くんが香穂子のことを名前で呼んでいる、と告げてきたことはあったけど。

 ── やっぱり目の前でそう言われるのは不愉快だね。

 俺は香穂子の肩を掴むときっぱりとした口調で切り出した。

「いや、香穂子は今日は僕と用があるんだ。だからこのまま少し連れ出すよ」
「え、っと……」

 香穂子はどうしていいのかわからないのだろう、おろおろと俺と月森くん二人の顔を見比べている。
 俺は婉然と微笑みながら月森くんを見つめた。

「僕はこの3週間の間、ずっと君に香穂子を貸していたのだもの。
 今日……。今夜くらい、僕に返してくれてもいいでしょう?」
「ゆ、柚木先輩、私は品物じゃないですよ」

 困惑した表情を浮かべる香穂子の脇。
 月森くんは俺に対して、後輩という立場を崩さないまま 厳しい視線を投げかけてくる。

「いいでしょう? ── 月森くん」

 月森くんは俺の質問には答えず、香穂子の方に足を進めた。

「……香穂子、今日は良い演奏をありがとう。感謝している」
「ううん? 月森くんこそだよ? 今日まで本当にありがとう……。良いクリスマスを、ね?」

 そして、一礼をすると ファータの像を後にゆっくりと正門を出て行く。



「柚木先輩。あれは、ちょっと……」

 香穂子は俺の顔を見て、バツ悪そうに目を逸らした。
 きっと、月森くんにもう少し気を遣ってくれたらいいのに、とでも思ってるんだろう。

 それともなにか。
『今夜』とあからさまに夜であることを告げたのが恥ずかしかったのかもしれない。

 俺は香穂子の屈託にかまうことなく、香穂子の背を押すと正門前に迎えに来ていた車に乗り込んだ。

「さて、と。じゃあ、行くか」
「え? どこに、でしょう?」
「お前を俺の好きにできるっていうのも久しぶりだからな。コースはお任せ。ちなみに今日は泊まり」
「と、泊まり?? えっと、今日泊まるっていうことは……あの、家に何にも言ってなくて……」

 香穂子は後部座席の端、身構えたように小さくなっている。

 まあ、この3週間、俺も辛抱してきたんだし?
 3週間と1日が等価交換っていうのも、俺にしてみれば大した譲歩なんだけど。

 俺はあっさりと手の内を明かした。

「ああ、俺から連絡しておいたよ。お前のお母さんに」
「え? どうして? どうやって……?」
「香穂子さんをお借りします、ってさ。簡単に許してくれたよ。お前のお母さん」
「はい?? ……あ、明日、私はどんな顔して家に帰ればいいんですかーー」
「別に? そのままだろ。一晩で顔変える訳にはいかないし?」
「そういう問題じゃないです!」

 その後の香穂子は、お母さんが本当に許可したのか、だの、柚木先輩ってお母さんのような世代の人も籠絡しちゃうんだ、だの、勝手なことを言っていたが、そんなことはすべて無視してやった。
 運転席の田中は声を殺して笑っている。

「あ、そうだ! あの……。私、泊まりの準備なんて何にもしてないんです。だから……」
「必要なものがあるんだったら、どこかで買えばいい」
「制服のままですよ?」
「お前以外のものなら、なんとでもなる」
「柚木先輩って、庶民じゃないーー」
「うるさいな。……ああ、田中。いつも家で使う店に車、まわして」

 俺は人差し指で香穂子の口を塞ぐと、田中に指示した。

 車は滑らかに夜の街を流れていく。
 時折見えるイルミネーションが暗闇に華やかさを添えている。
 ── クリスマス、か。

「……やれやれ。ようやくおとなしくなったな」

 こいつと過ごす、初めてのクリスマス。
 そんな考えに苦笑が浮かぶ。
 俺はこんな世間一般のことに関心のある俗物だったのか、なんてな。

 でも、つきあい始めてから。
 ── こいつには余計な心配をかけたから。

 俺と付き合いだしてからのこいつは、笑った量と泣いた量、どちらが多いのだろう、と考えることがある。
 自分自身への問いかけは、自信のなさの顕れだ。

 だから、こいつに対しては、俺ができる できるだけのことをしてやりたい。
 香穂子の笑顔がいつも優しさのうちにあるように。そう願わずにはいられない。

 唇に触れていた俺の手は、今は静かに香穂子の両手に収まっている。
 小さな細い手。ヴァイオリンをやるにはやや不利かもしれない華奢な手が、俺の指を握ってる。

 舞台の照明を浴びて一心に演奏をしていた香穂子と、今、俺の手を握っている香穂子。
 今、目の前の香穂子は全くの別人のように他愛ない。

 香穂子は顔を赤らめてつぶやいた。



「……振り回されっぱなし、です。柚木先輩には」
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