*...*...* Jupiter 6 *...*...*
「── ああ、やっぱり良く似合う」
「あ、あの……っ。柚木先輩、これは……?」

 香穂子は淡いクリーム色のワンピースを着て、鏡の中、俺と目を合わせた。
 音楽科の制服が見慣れたせいか、それとも香穂子本人の性格がそうさせるのか。
 俺の中での香穂子のイメージは、いつもこんな優しげな色だ。

「なに? 制服がイヤだったんでしょう?」
「それは、そう、なんですけど……」
「ふぅん。サイズも俺の見立て通りだった、ということか」

 俺は肩のラインと、それに続く袖の長さ、腰の位置を手の平で確かめる。
 控え目ながら、襟元のやや広がったデザインは、香穂子の鎖骨を綺麗に見せていて。

 こうやって見ると、香穂子の均整の取れた体つきが良くわかる。

「え? も、もしかして、これって……?」
「オーダーしておいたんだよ。クリスマスコンサート頑張ってたみたいだから、そのご褒美」
「……サイズって……。うう、柚木先輩、……えっちだーー
「は? ……何を今更」
「今更、なんて言わないでください!!」
「ああ、もう遅いから食事に行くぞ?」
「は、はい!」

 ヒールを履いた香穂子は、ゆっくりと床を確かめるように歩いてくる。
 そして、俺の腕に触れると ほっとした笑顔を見せた。

 久しぶりに、香穂子を俺の自由にできる。
 なんて、こんなことがこれほどまでに楽しいものとは、ね。

 食事は、以前香穂子が行ってみたいと言っていたことがある和食専門の店にした。
 ヴァイオリンを始める前は、姉と料理の道に行きたかったのだと楽しそうに言っていたこともある。
 料理も音楽も、乱暴に言えば芸術の一部とも言えるかもしれない。
 人の料理を見て、咀嚼して。
 それを積み重ねることで、自分の色に取り込むことができる。

「わぁ……。すごい。このお店、一度来てみたいって思ってたんです。  けど、なんだか敷居が高くて……」
「別に、堂々としていればいいと思うけど」
「はい。……今日は先輩がそばにいてくれるから、大丈夫そうです」

 次々と趣向を凝らした料理が運ばれてくる。
 クリスマスと和食、というのは互い違いの趣向であるような気がするのに。
 木の芽が細かく細工され、クリスマスツリーに見立ててあったり、小さなステーキやケーキまで付いてくる。

 香穂子は料理の盛り付け方や、色の組み合わせに声を上げた。

「可愛いです、これ……。料理は色で決まる、っていう人もいるくらいなんです。先輩のお花、と同じかな?」
「まあ、多少似通ってるところはあるかもしれないな」

「あ、これ。運ぶのが大変そうですね。けど全然崩れてない……。どこかで止めてあるかも」
「止める?」
「そうです。あ、山芋おろしで止めてありますよ、ほら」

 自分の気づいたことを楽しそうに話す。
 美味しいと言っては、笑って。今度作ってみるから、また家に来てください、と言って笑って。

 俺はぼんやりと香穂子の顔を見続けていたのだろう。
 ふと香穂子は神妙な表情になって、箸を置いた。

「あの……。クリスマスコンサートの間はごめんなさい」
「なにが?」
「月森くんからもらった手袋のこと……。
 私、自分で勝手なことをしてたくせに、もし、柚木先輩が私と同じことをしたら、
 あれこれ考え込んじゃってたかも、って……」

 俺は最後に出されたお茶の茶托を引き寄せた。

「まあ、いい。……お前はそうしたかったんだろう?」
「はい。そうですね……。月森くんのお母さんの気持ちは嬉しかったし」

 香穂子は俺の様子に安心したのか、大きく息を吐いた。

「柚木先輩って大人なんですね。私はまだまだ、かも」
*...*...*
 車に戻ると、いつものように運転手の田中は扉から飛び出してきて、後部座席を開けた。
 行き先はもう告げてあるはずなのに、思い巡るさまを見せて俺と目を合わせてくる。

「なに? 田中」
「はっ。あの、申し訳ありません。もう一箇所、お寄りいただきたい場所がありまして」
「どこ?」
「それは、到着してから申し上げたいと思います」
「ふぅん」

 香穂子は不思議そうに首を傾げている。
 仮に今、香穂子に田中の似顔絵を描かせたとしても、あっさり口と耳を書き忘れるだろう。
 それくらい いつも田中は香穂子の前では寡黙だったからだ。

 俺の無言を承諾と取ったのか、車は目的地とは真逆の方向へと走り出して。
 やがて滑らかに 海の見える高台へと昇っていく。

「柚木先輩、どこへ行くんでしょう?」
「さあ」
「ん……」

 ほどなく車は、ちょうど1台駐車できるかどうかのスペースに停まって。
 田中は恭しくドアを開けた。

「お二人とも お風邪を召されてはいけませんので、ほんの少しだけですが」

 眼下には鬱蒼とした木々が、切り絵のように真っ黒な影を見せる。
 俺は田中の後を追うように、一歩足を進めた。

 ── そこには。

「わぁ……。先輩、綺麗ですよ! すごく!!」

 高台から。
 洪水のようにして溢れる街の灯り。
 それに負けないほどの輝きが空から俺たちを見守って。
 その間を、上下の光を細かく挽いたような雪が落ちてくる。

 香穂子の口から生まれる白い息は、一瞬のうちに空に溶けて、固まって。
 再び新たな雪を作っているようにも見える。

「……綺麗……」

 香穂子は寒さも忘れて 目の前の幻影のような光景を見つめ続けている。

 ── 良い物は心の滋養だ。
 何でもいい。お前が良いと思うものを見る習慣を付けるといい。

 自分でこいつにそう告げたこともあった。

 幸せそうに はしゃぐ香穂子の背中を見て思う。

 今日のコンサートもそう。
 香穂子に着せた服も。料理も。
 そして、今、目の前に広がる夜景も、全部全部。

 ── 香穂子の音楽が豊かになる、礎になればいい。
*...*...*
 使い慣れたホテルに入ると、俺は香穂子の肩を押した。
 香穂子は、雪景色を見ることができた、とひどくご満悦だったが、俺としては予定外の行動で。

 いや、田中の配慮は まあ感謝に値するものだとは思うけどね。


「疲れただろ。シャワー浴びてこいよ」
「え……」
「早く」

 頬が赤らんだと思ったら、その赤味はみるみるうちに首元までやってきた。
 ……香穂子は、いつになったら、ソウイウコト、に慣れるのだろうか。

 少し、性急過ぎたか? ……いや、でも、今夜は。

 俺はゆったりとしたガウンに着替えると、部屋の端のテーブルに 自宅から持ってきた本を何冊か積み重ねた。
 すると背後から、かちゃりと金属の音がして、緊張した面持ちの香穂子が浴室から出てくる。

「柚木先輩、お先に借りました」

 俺はベットを指さして言った。

「ああ。こちらにおいで」
「は、はい……っ」


 広いベットの上、半分以上の場所を残して、俺は香穂子を抱きかかえた。
 人肌の温かさ。湿った髪が幸せそうに跳ねている。

「あ、あの……。柚木先輩?」
「なに?」
「その……。しない、の?」

 俺の手が髪の毛と背中ばかりを撫でているのが不思議なのか、香穂子は胸の中、俺の顔を見上げてくる。

「やれやれ。コンサートの後でさぞかし疲れてるだろうとおもんばかってやったのに。
 お前はわざわざ人の努力を無にするわけ?」
「……あ……」
「まあ、お前がしたいのならしてもいいけど?」
「ん……。今日はゆっくり、したいなあ」

 俺の行動に、ようやく香穂子は納得したのだろう。
 安心したように微笑むと、引き寄せるままに俺の胸に額を寄せた。

「やっと聞ける。……どうでした? クリスマスコンサート。楽しんでもらえました?」
「ああ。今年のヴァイオリン専科はレベルが高いね。すっかり引き込まれた」
「そっか……。ありがとうございます」
「ただ、第二楽章は練習不足だったね。楽器をやる人間は、耳も確かだから。足りないところはすぐ分かる」
「そうなんですよ。あそこ、第三楽章へのつなぎの大事なところなのに、なかなか音が合わなくて」
「月森くんも残念そうな顔をしていた。まあ、ソロとは違うからな。
 最大公約数的な実力しか出せないのは仕方ないだろう」

 香穂子の身体は温かく、全てが曲線に包まれているように柔らかかった。
 首の下。香穂子の息がかかるところがだんだんと湿り気が増す。

 この気持ちはなんていうんだろう。
 抱いているのに、抱かれているような、安心した感覚。優しい気持ちが浮かんでくる空気は。

 香穂子は小さな声で話し続ける。

「今日演奏した曲……。モーツァルトのこの曲ね、別名を『ジュピター』っていうんですって。
 私、嬉しくって。この曲の場合ね、ジュピターって、神話の中の神様の名前なんですけど。
 ジュピター、木星……。ほら、ちゃんと柚木先輩の名前が入ってますよね」
「へぇ。お前、知ってて選曲したの?」
「えーっと、曲が決まってから知ったかな……。でも、本当、── 嬉しくて。
 弾いたら弾いた分だけ、先輩が近くにきてくれる気がして」

 香穂子は目の縁を擦った。話すペースがゆっくりになっている。

「香穂子?」

 目の前の瞼は何かに押されるかのようにして、降りてくる。徐々に閉じている時間が長くなる。
 睫がすっきりとした鼻梁に長い影を作った。

「……私、柚木先輩に会えて良かった。── ありがとう……」

 ふいに香穂子の頭を抱えている腕が重くなる。
 ゆっくりとラルゴのリズムで香穂子の背を撫でていると、香穂子は、果物が落ちるかのようにことんと眠りについた。

「……ったく。無邪気な顔して」

 俺は香穂子を起こさないようにそっと腕を抜き取ると、肩までふとんをかけてベットを出る。

 香穂子を見ていて、湧き出る感情。
 それは、過去の事例に則って、俺が具体的に分類できる類のモノではなかった。

 ── 俺が直面する、初めての感情ばかりだったからだ。

 俺がどんな思いで、お前の音色を聴いてたか、なんて、きっとお前は一生わからないだろうな。

 俺が月森くんに妬いてないとでも思っていたのなら、とんだお門違いだ。

 俺はベットの縁に座ると、香穂子の顔に掛かっている髪をかき上げながらまじまじと寝顔を見つめた。

 香穂子が月森くんからもらったという手袋を申し訳なさそうに身に着けてきたとき。
 3週間というもの、ずっと香穂子との時間を月森くんが独占していたとき。
 そして、今日。
 ぴったりと息のあったヴァイオリンを聴かせられたとき。

 ── 妬いたさ。

 異なる楽器のこと。学年が違うこと。そして俺はもうすぐ卒業だということ。
 春から作ってきた、俺と香穂子のささやかな時間は、卒業という節目で一旦終わる。
 香穂子は高校に残り、俺は大学へ進学する。

 必然的に二人で会う時間は減っていく。

 一方、あと1年という時間を香穂子と共有できる月森くんは、俺の有していないいろいろな権利を持っている。

 妬いたから、といってどうにもなるものでもない。
 ましてや、抱いたからといって、答えが香穂子の身体の中にあるわけでもない。

 ── 答えは、どこだ。

 わからないまま臨んだ、今日のクリスマスコンサート。

 そこで再び香穂子の音色を聴いて。
 俺の琴線に触れる音色を響かせて。

『弾いたら弾いた分だけ、先輩が近くにきてくれる気がして』
『私、嬉しくって。ジュピター、木星……。ほら、ちゃんと柚木先輩の名前が入ってますよね』
『柚木先輩に会えて良かった。── ありがとう……』

 眠そうに言葉を繋ぎながら、香穂子は、俺を嬉しがらせることばかり言っていたな。

 ── 全く。手に負えないね。

 会える時間、とか、抱き合う時間、とか。
 それらは、大切だけどささやかなこと。

 俺がこうして音楽から離れても。
 そして多分、香穂子が音楽から離れることになっても。

 音楽は俺たちの中で架け橋となり続けるだろう、という確信が、今は、あるから。

 おかしなものだ。
 可愛いおもちゃ。からかうだけの対象。
 ちょっとつついたときの反応が意外だった。楽しかった。

 愛情に溢れて育ったのだろう、人の裏を見ることを知らないまっすぐな女の子。

 それが今はどうだろう。
 こいつの作る音楽に浸り続けていたいと思う自分がいる。

 音楽だけじゃ足りなくて。
 身体も、心も。香穂子の作っている全てのものを抱きしめてやりたいと思う自分がいる。

 香穂子が俺を必要だと思う間。香穂子の気持ちが俺に向かっている間は。
 俺はこいつに向かって両手を広げていてやろう。
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