*...*...* Jupiter 7 *...*...*
「ん……」

 シーツの襞に手を伸ばす。そこにはさっきまでいてくれた人がいない。

「柚木、先輩……?」
「ああ、目が覚めた?」
「はい……。今、何時ですか?」
「3時。俺も もう そろそろ眠ろうかと思っていたところ」

 見ると、部屋のコーナーの灯りだけが温かい色を生んで。
 テーブルの上には焦げ茶色の分厚い本が数冊積み重なっている。

 柚木先輩は、読んでいた本から目を離すと 私のいる方向へ顔を向けた。

「勉強、ですか?」

 私はベッドから起き上がると明かりへと歩き始める。
 足元がふわふわと心許ないのは、起き抜けだからかもしれない。

「マルクスの経済学理論。大学で使う教科書の初歩的なものだな」
「もう、大学の勉強をしてるんですか?」
「受験に必要な勉強は終わってしまったからね」

 思えば柚木先輩は受験生なわけで。
 私の中の受験生ってこの時期、必死な形相で机にしがみついてるっていう印象があるのに。
 今 目の前にいる人はまるで優雅だ。

 柚木先輩はゆっくりとミネラルウォーターの入ったグラスを傾けると口を湿らせた。
 ちらりと目に入る本のページは、細かい横文字が並んでいる。

 ……も、もしかして、英語? 原書……?

「む、難しいそう……」

 私は先輩の隣りのスペースに座る。
 ゆったりとしたそのソファは私が膝を抱きかかえて座ってもまだ余裕があって。
 膝の上にあごを乗せていると、柚木先輩がグラスにミネラルウォーターを入れて差し出してくれた。

 ふんわりとしたパイル地の黒いガウン。すっきりとした目鼻立ち。
 1つにまとめた髪はさらさらと肩先に流れている。
 ……本当、綺麗な男の人。動作一つ一つに育ちの良さみたいなのが滲み出ている。

「柚木先輩……」
「なに?」
「先輩って、なんでも、いっぱい経験してきた、って感じがする……。なんか、ずるい」

 物慣れた雰囲気。こんな時も、ベッドの上でも。
 慌てた様子なんて見たことない。
 ……というか、私に、先輩を観察する余裕がないのが原因かもしれないけど。

 柚木先輩は私の手を取ると、おやおやと言いたげに目を見開いた。

「いきなり、なに言ってるの?」
「── だって先輩すごく上手なんだもの」
「は?」

 自分で言った言葉に赤面して下を向く。
 わざわざ主語を取って話したのに、勘の良い先輩にはあっさり分かってしまったみたい。

 ……けど、私だって少しくらい、昔の柚木先輩にやきもちを妬いてしまうときだってあるもん。


 今の私のように、柚木先輩に可愛がられた人、っているのかな?
 抱かれたとき、柚木先輩の背骨がどんな風に波打つのか、知ってる人、いるのかな……?


 たった一つしかない歳の差。
 なのに、こういうときには何倍にも感じられる。
 追いつこうとしても、追いつけない。

 柚木先輩は、手にしていた本を閉じると白い歯を見せた。

「それは光栄だね。……でも珍しいな。香穂子がそんなことを聞くのも。まあ、この手の質問には慣れているけど」
「そうなんですか……。んー、でも、気になるときもある、かな……?」
「どうして女はそうやって過去を気にするの? そんな、気にしたって変えようのないものに」

 微苦笑を浮かべる柚木先輩が、少しだけ癪にさわる。悔しくなる。
 先輩がどれほど私を大切に思ってくれているのかが、あまりにもストレートに伝わってくるから、余計に戸惑う。

「おいで、香穂子」

 柚木先輩は私が手にしていたグラスを取り上げるとテーブルの上に置いて。
 私を膝の間に座らせると背中から抱きかかえた。
 そして肩の上にあごを埋めると、耳元に囁く。

「only enough、っていうんだよ」
「only enough ?」
「充分な数だけ。『お前に会うために必要な数だけ出会ってきた』、っていう意味。それが答え」
「え、っと……。なんだか上手く はぐらかされたような気がします……」
「そう?」

 柚木先輩はくすくすと笑いながら、腰に回されていた腕の輪を小さくする。

 大好きな香りが近づいてくる。
 そうだ、私……。
 ── この香りに包まれて、安心して眠っていたんだ。

「まだわからないの?」
「は、はい……」

 only enough、って……。充分、な、数? えっと?
 それは、昔にもそういう人がいた、ってこと……? いなかった、ってこと??

 柚木先輩はふっと息を吐くと つぶやいた。

「── お前に会えたから充分なんだよ。俺は」

 耳の後ろに唇が伝う。
 お風呂に入るとき、この場所を最初に洗うようになったのが、今年の私の変化の一つかもしれない。

「ありがとう、ございます……。私も、です」

 きっとこの人は、小さな頃からいろいろなものに気を遣ってきたんだろうな、と思えるような細やかな気遣い。
 さりげない優しさ。

 昨日の夜も、何度も私に疲れてないかと聞いて。
 ベッドではそのまま何もしないで、眠らせてくれたっけ。

 私は振り向くと柚木先輩と向かい合わせになって微笑んだ。
 初めて一緒に過ごすクリスマスが、こんなに幸せな気持ちをくれるなんて思ってもみなかった。

「それにしても、昨日の夜景、綺麗でしたね。田中さん、詳しいんだもの」
「ああ。俺も驚いた。あいつは もっと堅物かとも思っていたけど」


 ── だから。
 だからね、もっと、って。ずっと、って思いたくなる。願いたくなるんだ。


「ね……。柚木先輩?」
「なに?」
「……来年のクリスマスも、一緒にいてくれますか?」


 言ってて、心の底が焼けるような気がする。切り込まれるような痛みがある。
 ああ、これを、人は『切ない』っていう言葉で表現するのかもしれない。

 信じているのに。信じているけど。

 ── 柚木先輩が学院を卒業したら、どうなるのかな……?

 目をそらして見ないようにしてきた未来。
 今の続きを願う私は、怖さに負けて、目を覆って逃げてばかりいる。

 今、が大事なんだ、ってそう思って。
 今を重ねていけば、きっと大丈夫だって、そう言い聞かせて。

 ── けれど。

 私は今、柚木先輩に甘えてる。
 日頃言わないようにしている不安をどうしようもできなくて、先輩にぶつけてる。

 ── 先輩が、いい、って。


「香穂子」

 柚木先輩は一瞬だけ痛そうに頬を歪ませて。
 だけどそんな顔を隠すかのように、私を一気に引き寄せると胸の中に閉じこめた。

 耳に届く息遣い。背中に回された腕の強さ。


「── お前がそれを望むなら、ね」


 降ってくる言葉が、その答えだと。

「……ありがとう」

 顔を上げて、形の良い先輩の唇にキスをする。
 先輩を想う気持ちは、どれだけ唇を重ねれば伝わるのかな?
 いつもは浮かぶ恥ずかしい、という思い。
 それを解き放って、ただただ、先輩を求める。

 柚木先輩の指が私の身体を滑り落ちていく。
 触れた場所一つ一つが花が咲いたように、熱を帯びる。

 いつもの私じゃないような、身体中が沸き立つような、たまらない気持ち。
 柚木先輩は私のガウンの裾を広げると、いつくしむように 幾度も私の弱いところをそっと辿ってきた。

「……ああ、やっぱり濡れてる」
「ん……。ごめんなさい。……止まらない、みたい」
「馬鹿。どうして謝るの?」

 柚木先輩はそのまま中指と人差し指を そこから離した。すると蜜が糸を引いているのが見える。

「……こんなになってる」
「や、やめて……」

 熱く潤っている事実を、目の前に見せつけられる。
 自分の身体なのに、自分じゃ制御できなくて。
 柚木先輩だけが私のことを自由にできる、だた一人の人間になってる。

 はらりと肩からガウンが落ちて。
 ふんわりした床。
 落ちたからと言って音はしないはずなのに、私には始まりの音が聞こえたような気がした。

 先輩は、露わになった胸の飾りを口に含むとゆっくりと甘噛みし始める。
 舌の上で転がすように愛撫されて、少しずつ身体の強ばりが溶けていくのがわかった。
 長い指が正確に私の弱いところを辿っていき、下に降りていく。
 やがてヒップにたどり着くと、その丸みを楽しみように愛撫する。

「……私、柚木先輩がいい……。柚木先輩じゃなきゃイヤ」
「可愛いことを言う。……とまらなくなるだろ?」
「本当のこと、だもん」
「……なに? そんなに乱されたいの?」

 柚木先輩の指で作られた滑りのよい道に、ゆっくりと先輩自身が入ってくる。
 そして最奥に忍び込んで来た後、何かを確かめるようにゆっくりと私を揺らした。

「……最初の時と全然違う。お前の中」
「え? ……最初の頃と……、違うの?」

 確かに最初のころの痛くてたまらなかった気持ちは、もうない。
 それどころか、抱かれる瞬間を待ち望んでいる自分がいることだってある。

 どうしよう……。最初の時の方が良かった、っていうこと、だったら……。

 すくめられるようにこわばった肩を見て、柚木先輩は苦笑を深くする。
 そして私のこめかみに短く触れると、再び付け足すようにささやいた。

「── 馬鹿。今のほうがいいよ。心配するな」

 そのまま私の最奥にある鈴を つつき始める。
 それは波動となって、私の身体中を駆け巡り出した。

「もう……。や……っ」
「楽にしてやるよ。……いいよ、イって」

 ね……。もう、私、何度先輩に告げたかな。好きだって言葉を。

 告げるたび、返事の代わりに、優しいキスが降ってくる。呼吸が、上がる。
 釣られるようにして浮き上がる腰。
 その下に柚木先輩は近くにあったクッションを押し込むと、さらに私の快感を引き出していく。

「だめ……。もう……っ」

 悲鳴のような声が喉の奥から飛び出ていく。
 それを吸い取るかのように柚木先輩は口づけを深くした。

 いつもは慈しむように、慰めるようにくれるキス。
 それが今日は、私を求める以外の何物でもなかった。

 上と、下、と。先輩の思うがままに揺らされて、私は頂点で静止する。












「ん……。あれ……?」
「香穂子?」
「ヘンなの。……頭の中でコンサートの曲が リフレインしてる」

 モーツァルト交響曲第41番。
 『ジュピター』と名付けられ、親しまれてきた、壮大な曲。


 月森くんのA線の低音が響く。釣られるように私の音も聴こえてくる。
 その後をクラスメイトの音色が続く。── 柚木先輩に向かって奏でた想い、そのままに。



 私がそう告げると、なぜだか柚木先輩は嬉しそうに笑った。
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