*...*...* Sincerely 1 *...*...*
 受験も終わり、合格発表を待つだけの日。

 去年は、3年生全体は自由登校日となり、ちょっとだけ人通りが少なくなった学院内で、背中を押されるような感覚を味わったいたけれど。
 今年はこうしてゆったりとした気持ちで花を活けていた。
 18才の冬の1日が穏やかに終わろうとしているのに、わけもなく不思議な感覚に囚われる。

 手応えからして多分合格は確実で。
 俺は美しい仮面をつけたまま学院を卒業することになるだろう。
 3年前、今よりも幼い頭で考えていた予想図と何一つ変わらない。何もかも俺の予定通りだ。

 ── なのに、どうしてだ?
 澄んだ水に一滴の墨を落としたかのような、心の迷いが生まれているような気がする。

 午前10時のこの時間は、家の中も外も閑散としていて、物音一つ聞こえてこない。
 本当は俺が知らないだけで、周囲のあらゆるモノが活動を止めているのではないかと思える、そんな中。

 俺の使う花ばさみだけが乾いた音を響かせている。
 俺は紅梅を手に持つと、もう一度花の正面を見極めた。

 何度立てても、上手くいかない。
 花立ちも蕾も見事に美しいのに、俺の求める花器に活けるとその美しさはたちどころに造花のように白々しく見えてくる。

「花器を代えるか……」

 投げ入れに相応しいと思って求めた恬淡とした墨塗りの花器。
 しかし今日はどうしても、自分の納得した形に持って行くことができないでいた。

 以前、香穂子から花ばさみをもらったことを思い出し、俺は違い棚の戸を引くと、大切にしまってあった花ばさみを取り出す。
 まだそれほど使い込んではいない冴え冴えとした銀色の刃が、周囲の空気を一層冷ややかに引き締めている。

 どうにか形をつけた花を玄関の飾り棚の上に置く。
 そして数歩下がると、最後に全体の葉ぶりを見て、不要な箇所を指でつまむ。

(あいつの花ばさみが良かったのかもしれない)

 この最後の仕上げともいえる作業はいつも思いの外、俺を慰めてくれたりする。

「ああ、梓馬さん。客迎えの花を活けられたのですね」
「はい。お祖母さま。良い枝の梅が手に入ったと聞きましたので」

 朝食の時、今日は簡単なお手前を披露しなくてはいけないから、と言っていた祖母が、粉雪を織り込んだような銀鼠色の着物に、薄い菫色の帯を付けて自室から出てきた。

 手には色の対比が美しい、梅紫と言われる羽織を持っている。
 祖母はいつも見慣れている人間にさえ、辺りを振り払うような威厳を持っている。

 俺はこんな人間を祖母以外に知らない。

 祖母は俺の活けた花の立ち方を一瞥すると、皺の深い指で梅の枝を動かした。

「心此処にあらず、といった風情ですね。花は雄弁に活け手の意志を語りますよ」

 ほんの少しのことなのに祖母の手を借りることで、枝と枝の間には俺が活けたのでは作ることのできない艶なすき間ができる。

「大学に入れば、梓馬さんも今以上に自由な時間も増えるでしょう。
 花もご自身も人の目に触れることも多くなります。
 柚木の名を高めるためにも、こんなぐずぐずとした活け方ではいけませんね」

 祖母は何を思いついたのか、一旦自室に戻ると、花器手に携えて戻ってきた。

「もう一度同じ花材でやってごらんなさい。
 ── 近くあなたと礼乃さんとの婚約披露もありますのに、このお力では柚木家の名折れですからね」
*...*...*
 夕方近くになると、家の中の空気がどこか慌ただしいものになる。
 お弟子さんの出入り。お手伝いの廊下を走る音。
 小さな喧噪の中、俺は茶室でもう一度同じ花材を活け直していた。
 祖母のお気に入りの花器が、俺の挙動を厳しく見つめ続けているような気がしてくる。

(近く礼乃さんとの婚約披露もありますのに)

 結局、夏の日に一度会っただけの人間だった。
 その後、人伝に何度か会席の機会を求められたが、俺は受験を理由に断り続けた。
 それでは外聞が悪いとばかりに、多分祖母は俺の名を語って勝手に返事を出し続けていたのだろう。

 ── さて。どうするか。

 全面的に争うのは賢くない。
 かといって、俺の予想ではかなり両家の間で話は進んでいるはずだ。
 問題はそれをいかに食い止めるか、だが……。
 ちらちらと目に映る朱い蕾は、香穂子の唇のようにも見える。

(雑念、か)

 いろいろと手厳しいことを言う祖母だが、やはり花を見る目は一流だ。
 だから、祖父を始め、父母とも、対峙するという姿勢を持つ前に、祖母に屈するのだろう。

『いいですか? 梓馬さん。兄弟には序列というものがあるのです。
 あなたがお兄さまたちより秀でることは却って見苦しいことなのですよ?』
『どうして? どうしてですか? お祖母さま』
『どう言おうと駄目なものは駄目なのです!』

 そう言って、幼い俺の膝を叩かれたこともあった。
 この年になってさすがに叩かれることは無くなったが、祖母の威厳と勢力は以前にも増して強くなっている気がする。

「お兄さま? 入ってもよろしくて?」
「ああ、雅か。お帰り」

 襖のすき間の向こう、雅は品良く膝をつくと、軽く礼をして部屋に入ってきた。

「いいなあ、お兄さまは。学校がお休みなんて。今日は特別寒かったのよ?」
「ああ。……だな? お前の鼻を見ていると大体想像が付くよ」
「え? やだ、赤い??」
「まあ、梅の花弁ほど朱くはないけど」

 俺は一旦手にしていた水仙を脇に置いた。

 俺は想像する。
 寒空の下、雅は門に降り立つ。それから玄関までの道を小走りに進んで。
 父も母もいない寒々しい居間にため息をついて、自室でそそくさと制服を着替えると、俺の部屋にやってきたのだろう。

「紅梅ね。私は何度梅の良さを説明されても、桜の美しさには敵わないと思うわ」
「確かにね。桜の美しさに梅の匂いがあればいいのに、って言っていた古人もいるくらいだから」
「ああ。梅の香りってどこかすっきりとしてていいわね」

 雅は俺の正面に正座すると、のびやかな表情をして笑う。
 そして活けている花器を自分の正面に回すと、うっとりと枝振りを見つめた。

「素敵ね。この活け方。お兄さまの花はいつも優雅な気がする」
「まあ、華道の宗家だからな。三男であってもこれくらいは活けられないと話にならないだろ?」
「ううん? 二人のお兄さまの花よりも、品があって私は好きだな」
「ふぅん? じゃあもう少し地味に活けないといけないね」
「また、お兄さまったらそんな……」

 雅は痛そうに顔をゆがめてそうつぶやくと、油紙の上に置いてあった水仙に手を伸ばした。
 つんとした涼しやかな香りが辺り一面に広がる。
 こうやって、言葉にできない感覚的なモノに出会うたびに思い出すのは香穂子の音色だ。
 放課後のこの時間、あいつは何をしているのだろう。
 クラスメイトと譜読みをしてるのか。
 3年生がいなくなったことで練習室の予約も取りやすくなったと言っていたから。
 案外、一人、閉じこもってヴァイオリンを奏でてるのか。
 期末試験も近いから、苦手な数学に四苦八苦しているのかもしれない。

 家を隔てて、なお遠くにいて。
 それでもなお、ふとしたときに近くにあいつの気配を感じる俺は、確かに祖母の言うように気の迷いが生まれているのだろう。

 でも。
 俺の中の屈託は、気の迷いという陳腐な言葉では終わらせることができないだろうから。
 雅はまだ活け終えてない水仙の顔を見つめると、息を潜めて剣山に活け込んでいる。
 一差し一差しに活ける人の個性が表れる花器の上、拙い手つきは意外にも大胆な構図を生んだ。

「……ねえ、雅?」
「はい? なあに、お兄さま」

 雅は手を止めると無邪気に俺の顔を覗き込む。

 仮に今、俺が思っている行動を起こしたときのことを考えてみる。
 不機嫌を隠そうともしない祖母。
 鳥が逃げ立つ瞬間のようにおろおろと顔色を伺う母。
 無関心を決め込むであろう、祖父、父。
 その編み目の狭間に立って、一番辛い思いをするのはこの妹だろう。

 俺は雅に笑いかけると口を開いた。


「これから、少しの間。……悪いけど、お前にも迷惑をかけると思う。すまないね」
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