*...*...* Sincerely 2 *...*...*
 金曜日。

 香穂子の練習を聞くという名目で俺はいつもこの曜日を空けていた。
 しかし、卒業をという節目を目前にして、この機会はあと数回残っているかといった程度だった。
 運転席の田中は1週間ぶりの学院への道を滑らかに運転に集中している。
 街路樹が日差しの強さに負けて、枝の上の雪を落としていく。

「悪いね。田中。午後から車を出してもらって」
「いえ。とんでもございません」

 俺は軽く息をついた。
 受験ということも手伝って、この数週間は香穂子に寂しい思いをさせただろう。

『柚木先輩も頑張ってるんだから、私も音楽、頑張ります』
『ふぅん。── 俺がいなくても大丈夫なわけね』
『ううん? 今の寂しい分は、今度会えるときに持ち越し、です。……甘えたい、です』

 電話越しに照れている香穂子の声が耳にくすぐったかった。
 そうだ。香穂子の都合が良ければ、今夜、は……。
 久しぶりに着た制服がやけに窮屈に感じている俺は、また少し変化し始めたのだろうか?
 俺は少しずつ溶けていく雪が雫になるさまを窓の中から眺めた。
*...*...*
 ── 遅い。もう予定を30分過ぎている。

 俺はいつも香穂子の演奏を聴くために予約してある練習室にいながら、懐中時計を眺めた。
 今までどんなに遅れても5分と待ったことがなかったのに。
 そして俺はその香穂子の行動を当然なものだと捉えていただけに、30分というのは思いもかけず長い時間のようにも感じた。

 待たされる時間と香穂子の俺に対する想い。
 その間にはなんの法則もないだろうに、俺の中では不安が少しずつ不愉快さを育てている。

 他の練習室では、早速練習を始めた人がいるのか、ショパンのピアノ曲が流れ出した。

 ── この気持ちは一体なんなんだ?

 俺は仕方なく、自宅から持ってきたフルートを組み立てると、軽く指慣らしをする。

 指慣らしに適した選曲、というのがどの楽器にも大抵存在する。
 それほど指遣いが難しくなく、かつ、全ての音階がまんべんなく入っている曲。
 フルートのように組み立てて使う楽器は、初心者の場合、きちんとジョイントの組み合わせができてないこともあって。
 案外練習曲を奏でることで、分かる場合もある。

「ごめんなさい。遅くなりました!」

 ぱたぱたと廊下を走る音が聞こえたと思ったら、ノックの音がする。
 俺の姿がガラス越しに分かったのだろう、香穂子が慌てふためいて部屋に入ってきた。
 見ていなかった少しの間に前髪が伸びて、ふわりと額を覆っている。

「遅いよ。お前」
「月森くんや、違うクラスの子たちと期末試験の勉強してたんです。
 『演奏法』って、楽器によって違うんだなあ、って。
 チェロもヴァイオリンもヴィオラも同じ弦楽器なのに、指使いが少しずつ違うんですね」

 『演奏法』という名の授業。
 これは専門の楽器以外の楽器に対する基本的な知識を得るために授業だ。
 こうして期末試験の前などに、他の楽器演奏者と交流を組んで授業が行われる。

 もちろん授業と言っても、時間内に終わることはむしろ稀で。
 香穂子は俺との約束を気にして、さぞ そわそわと腕時計をにらんでいたに違いない。

「ふぅん。要領の悪い人間は困るね。
 もっと手際良くいろんなことを進めれば、こんなに時間はかからないだろう?」

 わかってる。
 これは香穂子本人の力ではどうしようもできなくて。
 香穂子なりに急いでこの場所に来たことはわかってる。

 『演奏法』は普通、午後から2時限通しで行われる授業だ。
 そしてSHRもそこそこに話は継続。ともすれば放課後いっぱい使って話し合いが行われる授業で。

 多分、香穂子は練習室の予約があるから、とか言って、途中で話し合いを抜け出してきたのだろう。
 そこまでわかっていて。

 ── なのに。どうしてだ? 俺は……。なにをそんなに苛ついている?

「柚木先輩?」

 香穂子は改めて俺を振り返ると、譜面台を用意する手を止めた。

「まあ、もうすぐ俺も卒業なんだし? ── これからはお前、月森くんに可愛がってもらえば?」
「え? あ、ごめんなさい。約束の時間より遅くなったことは謝ります。
 でも、どうして月森くんなんですか?」
「『Out of site, out of mind』って言ってね、人は、視界に入らない人間を忘れていくものなんだよ」
「そんな……」

 微笑みを浮かべていた顔は徐々に強ばり、固く結ばれた唇が微かに震えているのが分かる。
 こんな香穂子を見たいわけではなかったのに。

 香穂子が俺を軽んじて、時間に遅れたわけではない。分かっているはずなのに、俺は……。

 なんなんだ。この気持ちは。
 香穂子の口から出た『月森くん』という音が不愉快だったのか?
 それとも。
 これから俺が引き起こすであろう、柚木の家の騒動が気になるのか?

 人は自分の許容範囲を超える困難にぶつかったとき、自分より弱いものに当たると言う。
 自分だけはそんな人間を心底軽蔑してきたというのに。
 今の俺の状態は、そんな人間と何が違うというのか。

 放った言葉は消えない。

 しかも自分の想像以上に、相手を傷つける場合だってある。
 香穂子以外の人間に対しては、全てそつなくやってきたのに。
 どうしてだ? なぜ、香穂子に対してだけは、こんな自分が生まれてくる?

 香穂子は固まったようにヴァイオリンケースを手にしたまま俺を見た。
 一瞬香穂子の黒目が大きくなった、と思ったら、それはゆらりと盛り上がって頬に流れていく。


「柚木先輩も……。柚木先輩も、卒業したら、私のこと、忘れちゃうの? 視界に入らないから、って」
*...*...*
 帰り。
 もう夕闇が迫る時刻、俺は一人で正門前に立つ。

 時折すれ違う親衛隊の子たちにはいつもの通り、笑顔で接しておいた。
 もう高校生活もあと少しなんだ。
 3年近く作り続けていた仮面をわざわざここで剥がす必要もないだろう。

 俺の姿に気付いた田中は慌てて運転席から飛び降り、後部座席のドアを開け、訝しそうに俺を見上げた。
 俺がかぶりを振ると、そのまま口元を引き締め運転席へと戻る。

 田中は何も言い出さないヤツだったけど、香穂子のことがとても気に入っているのを知っていた。
 何を話すわけでもないが、今日香穂子を乗せてあいつの自宅に向かうことを心待ちにしていたのだろう。

 ── 心の中の透明のコップに、また少しだけ墨が垂らされたような感覚。

 今はまた墨は、比重の重さから原型を留めている。
 けれど、少しコップ全体を揺らしたら、瞬く間に薄汚い水になるだろう。
 そして元には戻らないんだ。

 音楽室で固く唇を噛んで、涙をためていた香穂子の顔が浮かんでくる。

(俺は何をやっているんだ?)

 どうして手を伸ばしてやれなかったのだろう。

 一言言えば済むことだった。手を引っ張って抱き寄せれば良かった。
 いつもの毒を含んだ口調で謝れば、俺の扱いにくいプライドも崩さずに済んだのに。


 車は俺の憂慮に構うことなく、香穂子の家を通り過ぎていく。
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