*...*...* Sincerely 3 *...*...*
『帰る』

 そう呟いて背中を翻した柚木先輩に返事をすることもできないで、私はぼんやりと白い背を見送っていた。

 どうしてこんな風になっちゃったんだろう……。
 確かに、約束していた時間には着けなかった。
 携帯で連絡しようにも、白熱した議論を展開している人たちの前、ムリだった。
 それに、……多少は私の甘えもあったのだと思う。
 音楽科の先輩と後輩同士。柚木先輩が通ってきた道を私も通ってるのだから、『演奏法』の授業の形態も知ってくれてるよね、大丈夫だよね、って。

 けど、時間に厳しい人だと言うことはわかっていたから、途中で話を切り上げて練習室へ向かった、のに……。

『ああ、すまない。今日は金曜日だったな。……ところで、ヴィオラのE弦の摩耗頻度を知りたいのだが』

 月森くんはそう気遣うようにして、さりげなく周囲の関心を違うところに逸らしてくれた。
 私はそんな彼の気遣いに却って顔が熱くなるのを感じて、お辞儀をするとそのまま、練習室へ走り出した。

 ── けど。

 ほんの10分後の私は、こうして一人練習室に取り残されている。
 まるでさっきのことは白昼夢みたい。

「も、もう、勝手なんだから、柚木先輩はー」

 私は柚木先輩との間にあった空気を払うかのように、わざと音を立てて譜面台を元の場所に戻す。
 今夜、電話をしてみよう。
 やっと受験も終わったし、ずっと前に、この週末どこかへ遊びに行こう、って話もしてたもんね。
 そのとき言うんだ。

『人は、視界に入らない人間を忘れていくものなんだよ』

 って言った柚木先輩に対して、

『忘れようがありませんよ』

 って。
 こんなに変わった人は初めてだったから、って。こんなに好きになった人も初めてでした、って。

 言える、かな……?
 そう考えてため息をつく。

 思えば、2人でいつも会ってるときには、必ず音楽の話があって。
 師弟の関係、っていうワケではないけど、私は柚木先輩の話を聞いて、消化するのに精一杯だったかも……。
 こうやって、自分の気持ちを、しかも、真剣に反論する、なんてことは、今までしたことが無いかもしれない。

 ましてやさっきみたいに、気まずいまま別れた後に、いつもみたいに元気に電話、なんてできるかな。
 電話って表情が見えない。
 だから柚木先輩がどういう声を聞かせてくれるか、って、声が聞こえる前の数秒間、すごく緊張したりする。


 結局、私はこのまま使うことができた練習室を出て、音楽室へと向かった。
 さっきの『演奏法』で聞いた、チェロの音が気になったから。
 同じ弦楽器と言っても、大きさがまるで違うチェロはヴァイオリンとは違う種類の弦を使っていた。
 その大まかなサンプルが音楽室の奥、金澤先生の音楽科準備室にあるという話をチェロ専の子がこっそり耳打ちしてくれた。

「金澤先生……?」

 準備室のドアを軽くノックする。
 準備室、と斜めにぶら下がってるプレートがかたりと頼りない音を立てた。
 部屋の主はいないらしく、ドアの向こうは平然と静まりかえっている。

「入りますよ……?」

 普段の時でも、生徒は勝手にこの場所に出入りしている。
 金澤先生個人のCD収集はかなりのもので、みんなお目当てのCDがあると、備え付けの『金やん 貸し出し帳』なんてふざけた名前の付いたノートに、借りたCDの名前と自分の名前を書いて出て行く。
 イタリアのオペラのCD収集はすごいぜ? って声楽科の男の子が声高に言ってたの、覚えてる。
 今はあんなにモクモクとタバコを吸ってるのに、実はすっげー有望な声楽家だったんだぜ、あいつ、って。

 ── 本当かな?

 何となく金澤先生って、月森くんの音楽への姿勢とか志水くんの質問とかを疎ましげに処理して、逃げの姿勢ばっかり取ってた気がするんだけど……。

「えっと、弦、弦は……っと……」
「なんだ。お前さん、来てたのか?」
「ひゃ!!」
「って、なんだ? 俺、そんなにお前さんの驚くことしたかー?
 俺の方が驚きたいくらいだよ。ったく、勝手に準備室に入ってきて」

 振り返ると、準備室のドアを大きく広げて金澤先生が立っていた。
 ひらひらと薄い素材の白衣は、この季節はやけに寒そうに はためいている。

「ごめんなさい。『演奏法』って授業で、チェロ弦のサンプルがあるって聞いて、お邪魔しました」
「おおー。日野、ご熱心だねえー。俺が音楽科を薦めた甲斐があるってもんよ。どれ、こっちだ」

 金澤先生は顎で方向を示すと、すたすたとさらに奥の部屋へ入っていった。

「暗いだろ。電気、付けるぞ」

 ほこりっぽい部屋は壁一面、星奏学院の専科の楽器の備品がちょこちょこと展示されている。
 弦以外にも、各管楽器のマウスピースや、練習器具なども並んでいて、ちょっとした博物館のような感じだった。

 今度、志水くん、冬海ちゃんの1年生コンビに教えてあげたいな。
 二人とも練習熱心だから、喜んでくれそうな気がする。特に志水くんは。

「俺の先任者さんが、俺とは違って研究熱心な人だったんだと。
 で、趣味が高じて、私財を投じてこんなのを作っちまったらしい。
 いやあ、全くマネできないねえ」
「すごい、こんな風になってるんですね……」

 金澤先生はガラスケースに入っている一つ一つを指先で弾きながら説明をしてくれる。
 そしてにやりと笑うと顎であるモノを指し示した。

「ほれ、ここにフルートのカバードキーのカケラがあるぞ? 今とはだいぶん形が違うな」

 金澤先生はいつも私に会うと、何気ない調子で、柚木先輩に絡ませる話をする。
 どうやら私が焦って顔色を変えるのを見て、楽しんでいるみたいだ。

 私は自分からつきあってるとかそういうことは言ったことがない。
 しかも3年生が自由登校になった今は、学院内であまり一緒にいることもなくて、一時の噂もなりを潜めていた。

 でも。
 今日は、柚木先輩に関わる話をするのは、……困る。

『人は、視界に入らない人間を忘れていくものなんだよ』

 さっきの、柚木先輩の目の色が浮かんでくる。
 私を傷つけようとして、それ以上に柚木先輩が傷ついているような……。

 本当、なの?
 忘れちゃうのかな、私のことも。
 それこそ、1年後。
 今を振り返ったら、柚木先輩と出会ってからの半年間は、本当に白昼夢になってるのかな?

「金澤先生……」

 わ。鼻の奥につんと熱いモノを感じる。……ここで泣いちゃ、ダメだよ。
 いつもみたいに、笑って、言い返さないと。……笑って。笑うの、私!

「お?」

 金澤先生は不思議そうに、何も言わない私を覗き込む。
 それがクヤしくて、私はくるりと背を向けた。結局笑顔にはなれなかったから。

『忘却は最大の罪だ』

 って何かの本で読んだことがある。
 憎んでてもいい、恨んでいても。
 忘れ去られるってことは、無関心であること。どんなことよりも悲しいことだ、って。

「……! や!! な、なに……っ」

 突然背後から、タバコの匂いが追いかけてくる、と思ったら、ぱさりと白衣の冷たい布があたる。
 柚木先輩より大きな背中が私の身体を覆っている。
 伸びてきた腕は私の身体をくるりと一回りしてもまだ余裕があるのか、その分、さらに強く締め付けてくる。

 不安が寒さのように背中を伝ってくる。怖い。── 初めてのときより。
 柚木先輩に抱かれ慣れたことによって知った、抱かれる手順。
 もし、今私の身体を抱きしめている手が、同じような方法で私を抱いたら。
 私は本当に柚木先輩から忘れ去られる存在になるかもしれない。

 ── そんなのはイヤ。

 もがく私を愉しむかのように、金澤先生は力を緩めない。
 けれど不思議なことに、首の下に回っている腕は胸を愛撫することなく、それより下には降りてこなくて。
 そのまま鼻先を私の髪に埋めてじっとしている。

「……どうして、こんなこと、するの?」

 私は抵抗することを止めて、ぼんやりと尋ねた。
 思えば、泣くっていう振る舞いは、その振る舞いをするだけの余裕が身体にあるからできることだったんだ、ってようやく気付く。
 自分の身体と心の間にある、ズレが生まれたような、感覚。

 泣きたくても泣けない時って、あるんだ──。

 金澤先生は最後に息を深く吸い込むと、するりと長い手を離した。

「いや。── お前さんがすごく美味しそうだったから、とでも言えばいいのか?」

 金澤先生は私との間にある空気を追い出すかのように、窓際に寄って大きく窓を開ける。
 そして白衣のポケットからごそごそとタバコを探った。
 口元は微笑んでいるのに、射るような鋭い目は私から離れない。

「お前さんを見ていると、昔の俺を思い出してイライラする。切なげで泣きそうな顔ばかりして。
 取り繕ってるんじゃないか? ちゃんと、言いたいこと、あいつに伝えてるのか?」
「金澤先生……」

 私は何度もかぶりを振る。
 そうすることで、自分の中で浮かぶ不安が消えればいいと思いながら。

 言葉で的確に自分の意志を伝えることはとても大切なことだってことはわかってる。

 けど、いつも。
 微笑みながらも余裕がなさそうに見える彼に、今の私は伝える言葉を持たなかった。
 今までもずっとそうだった気がする。

 言えない気持ちを言葉にする代わりに、音にする。
 だから、時間があれば屋上に行く。ヴァイオリンに触れる。
 風の冷たさが、私の左手に傷を作っていく。
 短いフレーズが空いっぱいに広がるのを感じて、安心していたりした。

 ── たったワンフレーズでいい。先輩に届けばいいと祈りながら。

 つん、と紙の燃える匂いと細い煙が、私の方に流れてくる。
 私は目の前の人仕草をぼんやりと見つめる。
 すると思ってもみなかった優しい栗色の瞳に出くわした。

 ……この人なら、知ってる?

 恋って、楽しいばかりじゃない、ってこと。
 苦しくて、泣きたくて。けど、離れられなくて。やっぱり大好きで。
 好きになりすぎて、今の続きを願う気持ちの隣りに不安が生まれてしまうことを。

「ね、金澤先生は……」
「おう、なんだ?」
「あのね、人と出会うことは必然で、別れることも必然だと思う?」
「日野?」
「つまりね、自分の努力とかいう次元じゃなくて……。
 神さまみたいな存在の人が、お前はこっち行け、君はあっちね、っていう風に、どこか行く先を決めてるのかな、って」

 金澤先生は美味しそうにタバコの煙を吐き出すと目を細める。
 そしてまだ吸い始めたばかりのタバコを灰皿に押しつけると、淡々とその上にお水をかけた。
 ちろちろと赤い火を灯していたタバコはあっという間にふやけた灰になる。

 私はタバコの様子を視界の端に捕らえ続けた。

 私の今の状態は、赤い火を灯していたタバコで。
 思いもかけずかけられたお水は、柚木先輩の家そのもの。

「人って会えなくなると、遠くなっちゃうのかな……」

 消えちゃった、赤い火。
 私は、突然、大切に大切に温めていたモノを、消してねって言われてるみたい。

「さてね。……ま、Yesであり、Noである、とでも回答しておこうか」
「はい……」
「ただな、一つだけ言えることは、お前さんに会って、あいつの音は広がった、ということだ。
 俺も少なからず生きてきて、人ってさ、そんな風に影響を受け、影響を与えて生きてるんじゃないかって思うときがある。
 すごいことだぞー。そんな人間に出会えた、ってことは」
「ん……」
「ははっ。なーんか、答えになってないか」
「ううん? ……ありがとうございます」

 さっき感じた金澤先生と私との間に生まれた熱はとっくに消えて。
 その代わりに、なにかしら温かいモノがまとわりついている。
 ── そう。同じ秘密を共有している、仲間同士のような。

 私はもしかして、私と柚木先輩の関係に、何かしらの確証が欲しかったのかもしれない。
 人から、認められて。許してもらえるような確証を。

 私は金澤先生の後を付いて、音楽準備室を出る。
 音楽室に着いたとき、金澤先生は数歩後を歩いている私の姿をまぶしそうに見つめた。

「そうだなあ。音楽科主催のクリスマスコンサートのあたりからか?
 お前さん、本当に綺麗になったよなあ。……これもあいつが手入れしたから、か」
「手入れ、ってそんな……。お花かペットか何かみたいですよ?」
「ま、あいつにとっちゃあまり違わんだろうが。
 ってあんまりムリすんなよ。また俺みたいな悪い虫が付くぞ。ははは」
「もう、金澤先生ったら。……気を遣ってくれてありがとう……」

 軽い調子で冗談を飛ばしてくれる金澤先生の気遣いが嬉しい。

 親衛隊さんが怖いこともあって、柚木先輩のことを誰にも相談できなかった、から。
 きっと。……そう、きっと。
 私が、普通に友達に相談できる恋をしていたなら。
 私は友達に向かって、こんな風に決意表明していたのかな? そんな気がする。

 私は一度床に落としていた視線をまっすぐに金澤先生へ向けた。

「無理してないですよ。……好きだから、いいんです」
「ほう?」
「あの人は私にとって、それだけ価値のある人なの。だから、── いいの」
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