*...*...* Sincerely 4 *...*...*
「香穂、かーほ! 一大事だよ!!」
「え? どうしたの、美咲ちゃん」
「柚木先輩が学院に来てるんだって! 月曜日、大雪。オマケに3年生は自由登校日だっていうのに!」
「あ、そうなんだー」

 お昼休み、ちょっと空いた購買で小さなパンとリンゴジュースを買って席に着いた私に、お弁当組の美咲ちゃんがはきはきした声で教えてくれる。

 やっぱり柚木先輩ってすごい人なんだ。
 登校するだけで、その事実が一つの立派な話題としてこんな風に人の口に乗るんだもの。

 いつもの金曜日、2人で会うときは、人の少ない時間帯に登校してきてくれるのか、そういった話題に上ることは少なかったのに、今日は、どうしたんだろう。
 みんながゆっくりしているお昼休みに登校したのかな……。
 ああ、それで、正門前で親衛隊さんたちの一人に会ったのかな。

 結局、週末は連絡をしそこねて。
 謝ることも、この前の話を続けることもできなかった。

 その柚木先輩が、登校してる……?
 私は手にしていた食べ物を自分の席に置いた。
 食欲が無くて今日も1つしか買わなかったパンが、寂しそうにこっちを向いてる気がする。

「ごめん。美咲ちゃん。私、ちょっと用事ができたの。ランチ、悪いけど……」
「ふふ、そう言うと思ってた」

 真奈美ちゃんは私の肩を撫でる。
 ヴァイオリンを鳴らすたびに痛みが走る左肩を、いつも真奈美ちゃんは優しく撫でてくれる。
 真奈美ちゃんのマッサージ、いつも気持ちいいんだよね。
 まるで自分がピアノの鍵盤になったような気がする。
 そして改めて真奈美ちゃんの弾くピアノの素敵なワケを知ったりするんだ。
 こんな優しい指遣いで触れられたら、ピアノだって頑張っちゃうと思うもん。

「真奈美ちゃん……」
「まあ、今はいいよ。そのうちね。……そうだね、卒業したら、聞かせて?」
「うん。ありがとう……」

 突然、さりげなく告げられた内容に私の方がドキドキする。
 具体的な名前は何も言ってないのに、私と美咲ちゃん、真奈美ちゃんの視線が合ったところに、確実に柚木先輩の名前が浮かんでいるような気がする。

 きっと二人にとって、私から柚木先輩のことを聞き出すことはすごく簡単なことだっただろう。
 けれど、秋から今まで。
 二人は、何も言わないで、ずっと見守ってくれてたんだ。
 どうしよう。……嬉しいかも。

 そんな友達の気遣いが嬉しくて、私はまた泣きそうになる。
 教室の引き戸に手を当て、もう一度振り返ると、2人とも大きな声で追い立てた。

「何やってるの! 早く探さなきゃ、ね」
*...*...*
 私は廊下を駆け抜けると、3年生の教室へ行った。
 けれど、そこは人の気配もなく、閑散としている。
 そうだよね。月曜日の雪の日。しかも自由登校日っていう日に、わざわざ学校に来る人っていないよね。

 私は、今度はもう一度1階に引き返すと、今度は柊館へ向かった。
 柚木先輩は、お世話になった先生たちに挨拶をしてるのかな、と思ったから。
 時折見せる私に対するぶっきらぼうな態度は、本当の本当の柚木先輩の本心だとは思うけど。
 それ以外の90パーセント以上は、人に優しい、律儀な、優等生然とした人だから。
 そういうことはそつなくやりそうな気がする。

「柚木くん? ここには来てないわよ」

 音楽史の先生は不思議そうに首を振る。

 予鈴が鳴る。
 すると職員室中の先生は、バネ仕掛けの人形のようにてきぱきと立ち上がって授業の準備を始め出した。

 どこだろう、どこに行ったんだろう……?
 屋上。森の広場。さっきよりもさらに人気の少なくなった購買にも顔を出してみる。

「いない……」

 柚木先輩、どこにいるの?
 私は右手首の腕時計を見た。もう昼休みが終わるまでにあまり時間がない。
 どうしよう……。
 もしかしてすれ違いってことになっちゃったのかな?
 そっか。もう一度3年生の教室へ戻れば、会えるかもしれない。
 くるりと方向転換して、私はもう一度走り出した。

「った!」

 前をよく見ていなかったせいで、私はすぐ後ろにいた人にぶつかってしまう。
 とっさのことで避けきれなくて、その人は手にしていた本を落とした。

「……あ、ごめんなさい! 私、拾います」
「……香穂先輩。……そんなにあわててどうしたんですか?」
「志水くん?」

 見ると春よりも少しだけ大人っぽくなった志水くんが驚いた表情をして、本を受け取っている。
 志水くんの髪の色のようなふんわりとした表紙には、『バッハの人生』と書いてある。
 ふふ、志水くん。また、図書館のお姉さんに新書の依頼を出したのかもしれない。

「あのね。ごめんね、志水くん。柚木先輩を見かけなかった?」
「柚木先輩ですか? ……さあ……」
「……そっか。うん、ごめんね、引き留めて。もうすぐ昼休みも終わっちゃうね」

 とりあえず、授業は受けなきゃ。
 私は自分の机の上に放り出してきたパンを思い浮かべる。
 午後からの授業、私本人がいなくて、パンとリンゴジュースが授業を聞いている図、っていうのは、やっぱり恥ずかしいよ。

 じゃあ、またね。と手を振った私に、志水くんはふと何かを思い出すような表情を浮かべた。

「今日、昼休み練習室に行ったんです。昨日忘れてきた楽譜を取りに」
「そっか……。うん、それで?」
「そのとき聞いたピアノの音が今も忘れられなくて。
 ……なんだろう。多分香穂先輩がクリスマスコンサートで弾いた曲だと思います」
「え? そうなの?」
「……ああ、今、分かりました。あれ、ヴァイオリンの主旋律をピアノで弾いてたんですね。
 聴いた感じが違うからずっと気になっていたんです。香穂先輩の顔を見たら思い出しました。
 話してすっきりした気がします。……ありがとうございます」

 まさか。もしかして。でも……。
 私の中でぐるぐるといろんな言葉が浮かんでくるのがわかる。
 胸の高鳴りは、そのまま私の脚を動かした。

「香穂先輩?」
「ありがとう。志水くん。私、練習室に行ってみる!」

 もどかしいまでに足が動かない。
 ここずっと、ヴァイオリンの練習と期末試験の勉強ばかりで運動不足だったのかも。
 息が弾む。心臓の音が耳のそばで打ってるのが分かる。

 わからないよ。柚木先輩に会えることが嬉しいのか、怖いのか。
『Out of site, out of mind.』
 それとも、忘れ去られることが悲しいのか。
『人ってさ、影響を受け、影響を与えて生きてるんじゃないかって思うときがある』
 金澤先生の真剣な眼差しが浮かんでくる。

 ── もう、いい。
 私は息を整えると、静かな旋律が流れている練習室の前に立つ。

 いろいろな色の気持ちを全部一つにして、私は今、柚木先輩に会いたい。だから行くんだ。

 艶やかな音が廊下にまで広がっている。男の人が奏でてるとは思えない、優しい音。

 音は人なり。
 どんな音色にもその人その人の人格が顕れるんだよ、とヴァイオリン専科の先生は言う。
 だとしたら柚木先輩は、優しい人なんだと思う。信じてる。

 私は祈るような気持ちでおそるおそるドアを開けた。
 旋律は止むことなく続いている。
 まるで私の行動はすべてお見通しだとでもいうように。


「ずいぶんと遅かったじゃないか」
「……探しました。いっぱい」
「香穂子、タイが歪んでる」
「え? は、はい?」

 私はポケットから手鏡を出すと、慌ててタイと髪の毛を整える。
 ばかばか、こんなことは、この部屋に入る前にすることでしょーー。
 鏡の中の私はいつも見ている自分じゃないみたい。潤んだ目で私を見据えている。頬が熱い。
 ── もう。このすぐ赤くなるクセを直せば、また少しだけ柚木先輩に近づけるのかな?

 私はゆっくりと柚木先輩に進んでいく。

 不思議。
 同じ練習室なのに、この前の金曜日に感じた悲しい気持ちはどこにもなくて。
 私は、『Jupiter』の主旋律に乗せられるようにして、ピアノのそばにたどり着いた。
 柚木先輩は楽譜から目を離すことなく、曲を奏で続けている。

「上手ですね」
「週末練習したよ。この俺が結構真面目にね」
「ん……」

 ピアノ科の子が初見でふうふう言ってたこの楽譜。
 それを柚木先輩は2日でこのレベルまで……?
 こういう人っているんだ。
 私は唖然とした気持ちで、鍵盤を滑る柚木先輩の指を見つめた。

「音楽を愛おしむ感性を持っていることに感謝するのはこんなときだな。
 触れていると、心の葛藤が溶けていくだろう?」
「はい。……わかる気がします」
「それに、お前もこうして音のそばに寄ってくるし」
「そうですね。……ヘンなの、私。怖かったはずなのに」
「怖い? ── どうして?」
「ん……。いつか、柚木先輩、忘れちゃうのかな、って。
 私と一緒にいた時間とか、聴いた音楽とか、── 全部、何もかも」
「そう?」

 それきり。
 柚木先輩は余計な言葉を口にすることなく楽章に集中し始めた。

 しなやかな指は、第四楽章の最終フレーズに入っていく。
 この実力なら十分ピアノ専攻者としてコンクールも出場できたんじゃないかと思うような音色が広がる。

 土浦くんとはちょっと違う、優美で、華やかなまでな和音が響き渡って。
 柚木先輩は余韻を残したまま鍵盤から指を離す。
 その途端、今までの音は冬の空気の中に吸い込まれて、ひっそりとした静寂がやってきた。


「ありがとうございました。……素敵です」

 固唾を呑んで聞いている間に、私の両手は何かに祈るように あごの下で組まれていた。
 その指を解いて、手を叩く。
 私一人で作る拍手の音はどこか気が抜けてて寂しい。その分を補うようにいっぱい叩く。

『香穂子』
 自分の名前の音が柚木先輩の指のすき間から聴こえてきたような気がする。
 音楽には力がある。この前のクリスマスコンサートで強く思った。
 そのときと同じ感情を、こうしてまたこんな風に味わうなんて。


 この人なら、家の力とかお金の力とかで、どんな風にも私をフォローすることはできるだろう。
 けど。

『週末練習したよ』
 私は、柚木先輩がさりげなく告げてくれた言葉の中に、すごく暖かいものを感じていた。
 いつも柚木先輩はそう。
 見えにくい優しさで私のことを包み込むから。
 私はもどかしくなって、泣きたくなって、また先輩を好きになる。

「香穂子」
「はい?」

 深緑のスラックスの上に乗せられていた白い指が、私の方へ伸びてくる。
 柚木先輩は私の腰を引き寄せると、椅子から降りることなくそのまま私の胸へと顔を埋めた。

「先輩……」
「しばらくの間、こうしてろ。── これは命令」
「は、はい……」

 柚木先輩は私の胸の鼓動を聞き分けるかのように、静かに身体を預けている。

 こういうときってどうしたらいいの……?
 今まで抱きかかえてもらうばっかりで。抱きしめてあげることはしたことがなくて。

(抱きかかえてもらうばっかり……?)

 そっか……。私は自分を振り返る。

 今まで私、柚木先輩からいろんなものをもらってきたんだ。
 目には見えない、暖かいものを。
 音楽に対する助言も。柚木先輩が作る音も。抱きしめてもらうときの温もりも。そう、全部。

 ── じゃあ、今度は私の番。

 わからないまま、私はゆっくりと柚木先輩の髪を撫でる。
 今の私にできるのは、今まで私が柚木先輩にしてもらったことをすることだけだもん。

 息が触れあうような距離の中、髪の毛をかき上げてくれる仕草が好き。
 少しクセっ毛の髪を耳にはさんでくれるのが好きだった。

 しっとりとした絹のような髪は、私の髪よりずっと従順に私の指に従う。
 柚木先輩は眠っているかのように静かに目を閉じている。
 長い睫は、微かにできている目の下のくぼみまで陰を落とす。

(疲れた顔してる)

 受験勉強が忙しそうな時期でも、もっとすっきりとした顔をしていたのに。

 私の中で、秋頃に感じていた不安が強くなる。
 伝えてくれないことに対する不安じゃない。
 これは柚木先輩が悩みを抱えて生きていることに対する悲しみだと思う。

 ── もっと、もっと。私は強くなりたい。

 腕に抱えてるこの人が、もうこれ以上悩まなくてすむように。
 この人を守れるだけの強さを、持ち続けることができるように。


 知らないうちに指に力が入ったのだろう。
 私の腕の中、柚木先輩はぽっかりと大きな目を開けた。

「ごめんなさい。ぎゅってしちゃいました」
「……別に」

 抱きかかえていた人は私の腕を振りほどくと、何もなかったかのように身体を離す。


 ── 今の私は、限られた時間の中で、どれだけのことができるのだろう。
 言葉にならないほどの想いを、どれだけこの人に伝えられているんだろう……。

 柚木先輩は椅子から立ち上がると、優しそうに目を細めた。

「今、お前からもらったものがあるよ」
「え? なんだろう……」

 私、柚木先輩にあげたものってあったっけ?
 あ、もしかして、胸ポケットの中に入ってるアメ? それともスカートのポケットにあるチョコ?
 お昼前、お腹の音が鳴ると恥ずかしいから、って制服のあちこちに隠しているお菓子のこと??
 なんか、私、子どもっぽすぎる。全然、柚木先輩に釣り合ってないよ……!

 ごそごそとポケットに触れる私を見て、柚木先輩は声を上げて笑った。


「違う。そんなんじゃない。── 『抗う力』をもらった、ってこと」
←Back
Next→