*...*...* Sincerely 5 *...*...*
月曜日の夜。この日は日頃仕事に忙しい父母も、そして祖父母も揃う週に1度の日だった。
雅はやはり嬉しいのだろう。いつもよりも心なしか明るい顔をして夕食の席についている。
けれど出てくる話題といえば、柚木家の事業の話、花の話、それと、時折り、芸術の話程度で。
俺や雅の学校の話など、話題に上ったこともない、寒々とした報告会議のような食卓だった。
母は、祖母がいるときはお手伝いの人然として、末席に座ると祖母の給仕をしている。
── 今更だが、香穂子の家とは大違いだな。
祖母は一番最後に席に着くと、家族の面々を見渡して、俺に視線を当てた。
「梓馬さんも大学合格おめでとう。まあ、柚木の家の人間なら当然ですわね」
「ありがとうございます」
「雅もわたくしの母校の附属大のある中学ですし。
まあこれでわたくしの目の黒いうちに、5人の孫たちの行く末が見えてきましたよ」
お祖母さまはお茶を手にすると顔を綻ばせた。
「これで梓馬さんも、受験勉強というものからも離れられるわけですからね。
早速ですが、あなたの卒業を待って、3月あたりに礼乃さんとの婚約披露を開こうと思っているのですよ。
お二人ともよろしいですわね」
名指しされた父母たちは元々俺が反対する気持ちを持っているはずがないと思い込んでいるのだろう。
いつもの微笑で頷くばかりだった。
祖父母、祖母、雅。独立した兄姉以外の家族は全員揃っている。告げるなら今だ。
俺の中で矯めていた想い。それを吐き出すのはこの機会をおいてないだろう。
俺は祖母の方に身体を向けるとはっきりとした口調で告げた。
「お祖母さま。今回の三条家とのご婚約、せっかくのお骨折りですが、なかったことにしていただけませんか?」
祖母は一瞬たじろぐような表情を浮かべたものの、すぐに情況を立て直すと、厳めしい口調で諫めてくる。
「何を笑止なことを。梓馬さん。もう既に下準備が整っていることはご存じでしょう?」
「はい」
……まあ、な。
最初はまるで相手にされないだろうと考えていたけど、この反応は俺の想定内、というところか。
正面に座っていた父が、不思議そうに顔を上げる。
父の記憶の中、俺が祖母に口答えとも取れるような言動を取ったのは初めてだったからだろう。
俺は口調を和らげた。
「僕はまだ、一人の人間に縛られるような人生を送りたくないのです。
もっと見聞を広げて、いろんな人間と出会って。それから伴侶を選んでも良いと思っているのです」
さらさらと美辞麗句が口から出てくる。
こんなのは、建前だ。
けれど、ここは無難に交わすことが得策というものだろう。
祖母は俺の顔を凝視すると、改まった口調で切り出した。
「梓馬さん。嘘をおっしゃるものではありませんよ。このわたくしが何も知らないとでもお思いですか?
ああ、雅はちょっとお下がりなさい。中学生に聞かせる話ではありません。
ああ、あなたも。息子の大切な話なのですよ。おどおどしてないで席におつきなさい」
雅は、祖母が湯飲みをテーブルに置いた時の音に追い出されるようにして部屋を出て行った。
母は弾かれたように席に座ると祖母に対して頭を下げている。
俺は改めて尋ねた。
「お祖母さまは何を嘘だとおっしゃるのでしょう?」
「綺麗事を言っているのは分かっています。
あなたがこの縁談を避けるのは、同じ学院のお嬢さんがいるからでしょう。
── なんです。何の取り柄もない、普通の家の普通の子じゃありませんか。益体もない」
祖母は吐き捨てるように言い放った。
……なるほどね。香穂子のことは把握していた、というわけか。
できれば香穂子のことは全面に出さずにこの話を回避できればと思っていたが、どうやら無理みたいだな。
祖母の根回しの良さに驚いたかのように、父が口を挟む。
「母さまはどうしてその事実を?」
「知れたこと。田中に聞いて、その後のことは金を使えばわかります。
本来はあなたたちがしなくてはならない子どもの管理を、忙しさにかまけて放り出しておくからこういうことになるのです。
いいですね。梓馬さん。いつもわたくしが申していますでしょう。三男は三男らしく、分を弁えるように、と」
柚木家で。三男で。二人の兄より優れることはなにもかも許されなくて。
今まで、いろんなモノを諦めてきた。だから諦めることには慣れているはずで。
ピアノもそう。今度選んだ大学も、そう。
週末、雅の部屋にあるピアノを借りて、俺にしては真面目に練習をした曲が耳によみがえる。
練習室で奏でた音。香穂子の拍手。
俺の不安を取り除くかのように、優しく撫で続けていたあいつの指遣いさえも。
香穂子は俺に対して、何も求めない。
心配しているクセに、それを口には出さず。
自分の中で健気に昇華して。ずっと俺を信じて、待っていてくれる気がする。
初めはわからなかった。どこにでもいる普通の女の子だと思った。
懸命に練習する姿も、俺の助言に真剣に耳を傾ける様子も。
今になってみればわかる。
あいつの優しさは全て、俺に対する想いの強さだったのだと。
その強さに惹かれて、頼って、今の俺がいる。
── もう、これ以上。あいつに悲しい思いはさせたくない。
俺は祖母を注視した。
怒りで赤くなっていた祖母の頬が、徐々に薄紙を剥ぐように青白くなっていく。
「今まで僕が何かを欲しがったことがありますか?
あなたに長兄、次兄以上の何かを求めたことがありましたか?」
「梓馬さん……」
「── 答えてください」
『Jupiter』の旋律を作っているときに感じた、心の昂揚。
幼い頃、楽譜を見るのが楽しかった。暇さえあれば鍵盤に触れていた。
もう、大人のふりをして諦めることには慣れたくない。幼い自分が泣き声を上げる。
祖母は鋭い形相で俺を睨みつける。俺も視線を外さないまま祖母を見つめ続けた。
父は持っていた湯飲みをゆっくりと茶托の上に置くと、口を開いた。
「梓馬。母さまとは私が話をしよう。おまえは部屋に引き取りなさい」
*...*...*
「久しぶりだな。おまえの部屋に入るのも」
静かに襖を開けると、父は懐かしそうな表情を浮かべて俺の部屋に入ってきた。
この部屋は昔 父が使っていた部屋だからだ。
そして目の前に姿勢良く端座すると、俺の顔を見上げた。
その仕草に、俺はいつのまにか父の背を越えた自分がいることに気付く。
「母さまから大体話は聞いたよ」
「迷惑をかけました」
「いや。私は梓馬に謝って欲しいわけじゃない」
久しぶりに父と対座する。
父と祖父は似た顔立ちをしている。
どこか気の弱そうな柔和な瞳。額の生え際は豊かな白髪で覆われている。
「むしろ謝りたいのは私の方だろう。── 今までおまえにはいろいろな辛抱をさせてしまった」
「いえ」
「無理しなくてもいい。もし私がおまえなら同じことを思ったに違いない」
暦の上では春であっても、外は冷え込みを増しているのだろう。
窓からは静かな冷気が忍び寄ってくる。
父は穏やかな瞳で俺を見つめた。
「昔の話だ。
……今から30年くらい前、私にも想う人がいた。けれど、母さまは今の母さま以上に厳しい人だった。
最後には直接 彼女の家に乗り込んで酷いことを告げて。── それで、終わった。
私も気が弱かった。彼女を守り切ることができなかった」
俺は黙って頷くと、父の唇に見入った。
そこは父の中で唯一別の意志を持った生き物のように、ひくひくと波打っている。
「今頃あの人はどうしてるのかと、何でもない折りにふと考えることがある。
むごい別れ方をしたから、今でも私のことを憎んでいるのかもしれない」
「お父さま……」
「というのは単なる私の思い上がりなのだろう。
……彼女はとうに私のことなど、記憶の隅にさえも置いてくれていないのかもしれないね」
父は自嘲気味につぶやくと苦笑した。
「どうでしょう? 今も、その人と共に人生を歩めば良かったとお考えですか?」
祖母の言うがままに、日常の家事を黙々とこなす母。
さっきの場でも、お祖母さまに反論しようとする俺の行動を戒めるような悲しい目をしていたことを覚えている。
気弱いばかりの母は、こんな父の事実を知っているのだろうか?
「いや。妻には感謝しているよ。
お前を始め、5人の子を授けてくれた。あの難しいお祖母さまにも良く尽くしてくれる。
もし私が、以前想っていた人と暮らしたとしても、これほど上手く行かなかっただろう、とも思える」
「お父さま」
父は突然我に返ったように照れ笑いを浮かべた。
「いや。私のことはもういいんだ。おまえのことだ。── 梓馬は、これから、だから」
そしていつもの穏和な表情をして俺の肩に触れた。
「大事にしてあげなさい。その人のことを。それが男の責任だ。……私が昔の人にしてやれなかった分もな」
「いや、先のことはわからないですね。彼女はまだ若いから」
「おや、梓馬。自信がないのか? 珍しいな」
父の苦笑の前、俺は、『自信』、という言葉の意味を自問する。
今まで、あいつの俺に対する気持ちを疑ったことは一度もない。
それを自信と定義づけることもできるだろう。
けれど……。俺がいつもあいつを思うときに浮かぶ気持ち。── それは。
「僕は彼女を縛りたくはないですね」
香穂子の時間を縛るのは簡単だ。
実際の生活の中で、もっと香穂子を束縛する方法はいくらでもあったはず。
なんなら香穂子に学院以外の練習場所を与えて、そこで練習させることも可能だった。
けれど、俺はそうしたくなかった。
束縛することによって、香穂子の音がどこか萎縮した存在になる予感がしたからだ。
香穂子の、素朴で素直な音色を思い出す。
あちこちに羽ばたいて、目的のモノをついばむ。
それはクラスメイトと一緒の授業であったり、月森くんから受けるヴァイオリンの薫陶であったりする。
俺はそれらを全て包む一つの空間になれたら、いい。
雨を嫌っていた俺に、雨上がりの空の色を教えてくれたあのときの色、そのままに。
俺がそう告げると、父は眉を大きく上げて微笑んだ。
「ほう、面白いことを言う。ここまで家を乱して、それでもなお その子を自由にしておきたいと?」
「とりあえず今は……、とでも申し上げておきましょうか?」
帰り際、襖の間から顔を覗かせて、父は言った。
「一度私に会わせてほしいね。おまえがそこまで想う人に」