*...*...* Sincerely 6 *...*...*
「真奈美ちゃん、私、これは、(B)が正しいと思うなあ」
「そうかな? 香穂ちゃん。多分(B)は引っかけ問題だよ。(C)が正解。絶対」
「ブッブー。二人とも残念。正解は(D)でした。だって、あの魔神パガニーニの弟子だった人だもん」
「あ、そっかー。美咲ちゃんすごい」

 今日で実技系の試験が全部終わって、あとは知識を問う音楽史や理論の試験が残るだけの日。
 こんな日の放課後は、当然のことながら練習室はがらがらになる。
 みんな早々に図書館や自宅に散って、一夜漬けで頭に知識を詰め込んでいるのかな。
 普段だったら森の広場や音楽室から聞こえてくるはずの音色は、今日は全くなく、辺りは静まりかえっている。

 そんな中、私は真奈美ちゃん、美咲ちゃんの3人でお互いに試験範囲の問題を出し合いながら、最後の仕上げをしていた。

 4択って難しいと思う。普通科の時から苦手だった。音楽科に転科してもやっぱり苦手だ。
 こう、大体、4つのうち、2つは違う、ってわかるんだよね。
 で、残りの2つのうち、どっちかだ、って散々迷って、結局違う方を選んじゃう。
 以前、柚木先輩にそう言ったら呆れたような返事が返ってきたっけ。

『は? どうして2つになるの?
 正解は1つしかないんだから、その段階ですでにお前の知識が曖昧なんだよ』
『だって。2つのうちの1つが正解なら、あと一歩、じゃないですか。そこからどうしたらいいかな、って』
『問題っていうのは人が作ったんだから、心理戦なんだよ。必ず作り手の意図が入ってる。そこを上手く突くんだな』
『意図、ですか』
『……ま、お前の場合、鉛筆でも転がした方が得策かもしれないけど』

 う、なにも私、最後のイヤミなセリフまで思い出すことないのに。
 意図、意図ね……。
 ってそんな高尚なことを考える前に、まず基本的な知識を身に着けた方が確実に点数はアップしそうな気がする。

「よし、じゃあ、美咲ちゃん、次の問題出して」
「香穂、全敗更新中だもんね、よし、次行くよー?」
「うん。……あれ?」

 私はクリーム色のカーテンが揺れている窓を見る。
 2月に入ってから本当に天気が良くて、外の風に当たらない限り、窓近くの席は春本番の暖かさだ。
 毎朝長かった影が、目には見えない早さで少しずつ小さく、濃くなってるの、感じるもん。

「ほれ、香穂。試験、明日なんだから、集中、集中」

 この、音……?

「あれ? 美咲ちゃん、真奈美ちゃん。聞こえない?」
「え? なあに、香穂ちゃん」

 二人はきょとんとした顔で私を見る。
 真奈美ちゃん、美咲ちゃんたちは聴音のセンスが抜群で。
 ソルフェージュBはいつもパーフェクトの解答を出して、先生を驚かせている。
 けど、この表情を見てると、どうやらこの音は二人には聞こえてないみたい……?

 切れ切れな旋律が私の耳を突く。

「じゃあ、香穂、真奈美、行くよ〜。
 第4問。『17世紀初頭のヨーロッパにおいて、ヴァイオリンの……』」

 あ、曲が替わった。この曲は、と……。
 『春の歌』だ。メンデルスゾーンが、心に訪れる春を愛おしんで作った曲。
 かなり吹き込んであるみたい。リズムも正確な、優しい音。
 ちゃんとこの演奏者さんは、曲の終わりまで私を連れて行ってくれる、っていう安心感が浮かんでくる、音。

(安心感……?)

 うっとりと音色に任せて目を閉じていた私の耳に、今度は別の旋律が飛び込んでくる。
 ── これ、は……?

「ちょちょっと待って! これ……っ」
「あれ? 香穂。問題聞いてなかったの? も1回、言おうか?」
「ごめん。ちょっと行ってくる! 私」

 私は勢いよく椅子から立ち上がって二人に謝ると、ある場所に向かって走り出す。


 ばかばか、私、どうして気付かなかったの?
 耳をかすめてしまうような切れ切れの音であったとしても。
 ただのワンフレーズであったとしても。

 私だけは、絶対気付かなきゃいけない音だった。想いだった。

 けれど。
 この前のような重い音を奏でるフルートとは別人のようだったし、昨日聞いた、どこか好戦的なピアノの音とも違う。
 春の暖かさが曲中に閉じこめられているような、丸い音。

 ── その音で形作られている『愛のあいさつ』を。

 薄暗い階段を、私は肩で息をしながら上がる。
 暗い踊り場の一角。
 そこには夏には見ることのできなかった暖かな光が、湖面のように揺らめいている。

 きっと、コンクールが終わって、私の音を聴いたとき。
 柚木先輩もこうして私を捜してくれたのかな。

 彼が私を。捜して、見つけ出してくれたから。
 今の私たちがあるのかな。

 ねえ、リリ。
 リリは去年の春に、未来の私がこんな風に柚木先輩のそばで 音楽の道を歩き始めることを知ってた?

「柚木先輩!」

 重い鉄製のドア。開けるのももどかしい。
 私は力任せに取っ手を引っ張る。
 そして光が目に馴染む前に、大好きな人の名前を呼んでいた。


「お前か。相変わらず落ち着きがないな」
「この曲……」
「そう。聴こえた?」
「はい」
「フルート用の楽譜がなかったら、自分でところどころ編曲している。
 多少の音階のズレは目こぼし しろよ?」

 それだけ告げると、柚木先輩は再び形良くフルートを構える。

 愛妻家エルガーが、生涯愛し切った妻キャロラインに贈ったと言われる曲。

 曲1つ1つにはそれぞれ作曲者さんたちのエピソードが込められている。
 最初は試験に出るから、という目的でしか意識していなかったストーリー。
 けれど、こうした素敵な音色の前には、死者は生者となって音の中に現れる。
 ── 目の前で、呼吸している。

 暖かい暖炉のそば、キャロラインがエルガーの靴下を編みながら微笑んでいる。
 エルガーはそんな妻の笑みをさらに音に映す。
 キャロラインが亡くなってからというもの、エルガーは楽曲を作れなくなったという。
 想い、想われて作られた、二人の愛らしい曲。

 柚木先輩は軽やかな音を響かせたまま、『愛のあいさつ』を弾き終えた。

「素敵です。……この前聴いたフルートとも違う。ピアノとも違う気がする。
 あ、あの、どれも素敵なんだけど……」
「いいよ。言ってごらん?」
「はい。今日のフルートはあったかいです。優しくて、丸くて。抱きしめられてるみたい……」

 わ……、私、何言ってるんだろう。
 言ってて、かっと耳の後ろが熱くなってきたのが分かる。
 抱きしめる、って……。なんだか考えれば考えるほど恥ずかしい告白のような気がする。

 どうしよう。口に出した言葉って、メールみたいに消すこと、できないのに……。

「ふぅん。なるほどね。まあ、お前にも音楽の耳が出来てきたってところか」

 柚木先輩は私の心配に構うことなく、フルートを手にして優雅な足取りで近づいてくる。
 そして、ドアの横、一番風の当たらない壁の近くにいた私に軽く口付けると、なんでもないことのように切り出した。

「ああ、お前にも伝えておかないとな。以前言っていた家の話、とりあえずは回避したよ」
「家の話……?」
「そう。見合い話」

 淡々と告げられた言葉を、私の頭はゆっくり理解する。
 と思ったら、理性より先に、慌てた声が飛び出した。

「……えっと……? ……は、はい??」
「香穂子、反応遅すぎ」

 目の前の人は、私の様子を楽しむかのように意地悪な笑いを浮かべている。

「まあ、俺にここまでの行動を取らせたんだ。お前もそこそこ覚悟してくれないと困るぜ?」
「覚悟、ですか?」

 ……覚悟。
 私に、覚悟、って。覚悟、って──。
 けど、えっと、柚木先輩は、お見合いを断って。
 それで……、覚悟、って……。
 それは、つまり、私は、目の前の人と……?


 結婚なんて、私の歳ではずっと先の、甘いおとぎ話でしかない。
 ……けれど。


「そう。責任取れよ」

 照れくささを隠すためなのか、柚木先輩はわざとぶっきらぼうな口調で告げてくる。
 薄い水色の羽を重ねたような空の下、少年のように赤らめた頬が、先輩の綺麗な顔立ちを際立たせている。


 私たちはまだまだ子どもで。
 目の前の大人っぽい人も、大きな社会の中から見れば、ちっぽけな子どもに過ぎない。
 これから大人になるまでに、昇らなくてはいけない階段がたくさんあるだろう。もちろん、私も。

 だけど。
 ── それを目の前の人と一緒に乗り越えていけたら。そう、そのときには。

 私は柚木先輩へと手を伸ばす。
 ひんやりとしたコートの布地が心地良い。もうすぐ、この制服を脱いで柚木先輩は卒業する。

「おいで。――香穂子」

 心の中に、優しい風が吹く。
 抑えきれない、湧き立つほどの思いが、光のしずくになって私の中に満ちていくのを感じる。


 すぐ近くに、穏やかな柚木先輩の笑顔がある。
 なんの屈託もない優しい顔を初めて出会った人のように見つめたあと、私は思い切り抱きしめた。
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