*...*...* Sakura 1 *...*...*
「── そんなに緊張しないの」「えっと……。緊張してるように見えますか?」
私は笑顔を作って柚木先輩を見上げた。
もうすぐ柚木先輩は大学の入学式、私は進級式を迎える、という春の日曜日。
私は、柚木先輩のご両親に会う、という理由で、今 柚木家の前にいる。
玄関だけで、私の家がすっぽり入っちゃうような大きな門。
前に一度来たことがある柚木先輩の家。
だからなんとなく、造りは分かってる気がする。
けれど、行きは雅ちゃんに引っ張られるように家の中に入っていったから、よく覚えていない。
帰りは帰りで、暗かったし思い出せない。
だから、というわけではないだろうけど。
こうして柚木先輩と2人で一緒に門をくぐる、となると、どうしても右手と右足が同じタイミングで出てきちゃうようなぎこちない動きになってしまうんだよね。
「やれやれ。一度抱いてから来れば良かったか?」
「は、はい?」
「その方がお前、適度に力が抜けるかもしれないぜ?」
「な、なに、言ってるんですか……」
「事実だろ? お前、抱いたあと、身体が柔らかくなるから」
横に並んでいる人は、冗談とも本気ともつかないような顔をして、まっすぐ前を見ている。
その横顔が、いつもの余裕たっぷりの柚木先輩とは少し違う。
やっぱり先輩も、私を自分の両親に会わせるということで緊張してるのかもしれない。
私はふぅっと息を吐いた。
「うう、柚木先輩みたいにちゃんとできればいいんですけど……」
「ちゃんと?」
「はい。だって、うちのお母さん、すっかり柚木先輩のこと信用しきってますよ?
しっかりした素敵な男の人だ、って。たった1回会っただけなのに」
「ふぅん」
「私も、受け入れてもらえるといいな……」
手にした菓子折を握り締める。めったに手の平に汗をかかないのに、今日だけはじんわりと熱い。
『この前言ってた見合い話、とりあえずは回避したよ』
春まだ早い頃、そう、他人事のように柚木先輩は言ってたけど。
やっぱり、大変なお家であるということは私もだんだん分かり出していて。
こうやって挨拶に行ったとしても、柚木先輩とのお付き合いというのは許してもらえないのかも、という不安は消えない。
「ま、いつものお前で大丈夫だろ」
「……ん。そうだといいなあ……」
門から続く長いアプローチを進む。
すると車の音を聞きつけたのか、妹の雅ちゃんが玄関から顔を出した。
「香穂子さん。ようこそお越しくださいました!
ふふ、私ね、今日 香穂子さんに会えるの、すごく楽しみにしてたの」
「あ、雅ちゃん! この前は、あの、……ありがとう」
私は去年の秋、突然柚木先輩の家に行って、雅ちゃんの部屋に通してもらったことにお礼を言った。
本当に……。
あの時 雅ちゃんが機転を利かせてくれなかったら、そのまま柚木先輩と私はお互いの気持ちを伝えることなく、別々の道を歩き出していたかもしれない。
今の柚木先輩と私がこうしていられるのも雅ちゃんのおかげ、だよね。
雅ちゃんは慌てて、口の前で人差し指を立てた。
「しーーっ。それはここでは内緒よ?
あ、お兄さま、今日は私が簡単に最初の接待だけ、するわね。
とりあえず客間は準備しておいたから。あとは、お茶と、お茶請けくらいでいいかしら?
一応、桜茶を、ってお母さまが準備していたから、それを出すわね」
「ああ。悪いね。よろしく頼むよ」
お茶請け、と聞いて、私は手にしていた袋を雅ちゃんに手渡した。
「あ、じゃあ、あの、これ……。お茶請けにしてくれますか?
お抹茶のパウンドケーキ、お土産に作ってきたんです。
お抹茶の風味なら、お茶席でも合うかな、って、お姉ちゃんと二人で」
雅ちゃんは包みを受け取ると、そこから香る匂いに気づいたのか、にっこりと笑った。
「美味しそうね。香穂子さん、お料理得意なのかしら。お兄さまは幸せね」
「こら、雅。……いい子だから早く仕度しておいで」
雅ちゃんは柚木先輩にそう言われると、私にだけ軽く目配せして、小走りで家に入っていく。
その様子に私はほっと息をついた。
今の雅ちゃんからは、私を嫌ってる、という感じはまるでなくて、ほわりと心の中が暖かくなった。
好かれたいから、といって媚びへつらうのは好きじゃないけど、嫌われるのもやっぱり悲しいもの。
それにしてもすごい。中学生の女の子が、ちゃんとお客さまの接待、とかするんだ。
「じゃあ、行くぞ」
柚木先輩は私の頭の後ろに指をくぐらせると、軽く抱きしめてから玄関に入った。
ふわりと重い荷物を降ろしたときのように、肩の力が抜ける。
「……失礼します」
私は外の明るさから室内の薄暗さに慣れない目を見開くと、お辞儀をした。
*...*...*
「じゃあ、父を呼んでくるよ。お前は落ち着いて座ってて」料亭のような和室に通されて、私はふかふかの座布団に座る。
えっと……。今日は、柚木先輩のお父さん、お母さんに会う、ってお話で。
だから、4人。雅ちゃんやお祖父さん、お祖母さんがいらっしゃっても、7人。
けど、通された部屋はゆうに20人くらいは入れるんじゃないか、と思うほど立派な和室で。
お部屋の端っこには品良くお茶の道具が飾られている。
床の間には、今朝お前のことを思って活けたよと柚木先輩が教えてくれた春の花が清々しい空間を作っている。
窓の外は、いろいろな樹木が植え込んであるのか、春らしい色が覗いてる。
けれど、柚木先輩のお父さん、お母さん、ってどんな人だろう ──。
そう思うとお庭どころではなくて、私は畳の縁をじっと見続けた。
うう、緊張する……。
「香穂子。連れてきたよ」
「は、はい!」
私は座布団からすべり降りると頭を下げた。
目の端に、柚木先輩の足元と、もう一人、男の人の足元が見える。
「初めまして。日野さん。いつも梓馬がお世話になっているようだね」
「いえ、あの……。私の方がいつも、柚木先輩にお世話になっています」
「可愛いお嬢さんだね。まあ、そんなに緊張しないで」
「はい……」
私はおそるおそる顔をあげる。
そこには品の良い、ベージュのセーターに豊かなグレーの髪が良く映える柚木先輩のお父さんがいた。
あれ? あまり柚木先輩には似ていない、かな。
けれど、優雅な物腰と、柔和な話し方は、どこか柚木先輩に通じた雰囲気があるような気がする。
お父さんは、優しそうな目で私を見つめてくれていた。
人と人との間の好意って、すぐ伝わるんだろう。
私は会って間もない柚木先輩のお父さんに、すごく暖かいモノを感じていた。
「悪いね。香穂子さん。私の父、梓馬の祖父は、今日はどうしても抜け出せない用事があってね。
香穂子さんによろしく伝えてくれと言われているよ」
「あ、ありがとうございます」
「私の父は、私よりずっと音楽に造詣があるのでね。私よりも話が弾んだかもしれないが……」
「いえ……。ありがとうございます」
柚木先輩のお父さん、というのは、どうやら普段あまりお話をしない無口な人のようだった。
最初の挨拶がすむと、次の話題がなくて私は少しだけ居心地の悪い思いをする。
初対面の、しかもお父さんほど年の違う人と、何を話せばいいのかわからないし、失礼になってもいけないし……。
そういえば私の家ってどうだったかな、と、私はこの前彼氏さんをつれてきたお姉ちゃんを思い出す。
やっぱりうちのお父さんもあまり饒舌ってタイプじゃないから、お母さんが朗らかに、お客さんとの場を持たせていたような気がする。
あ、そういえば……。
私は隣りにいた柚木先輩に尋ねた。
「あ、あの……。柚木先輩のお母さん、は?」
「ああ、母? 今朝になって急に茶会の会合ができたとかでね。京都に行ったんだよ」
「そうですか……。あ、じゃあ、あの、お祖母さ、ま、……は?」
お祖母さんというのもなんだか怖いし、お祖母さま、と相手をさま付けで呼ぶのにも慣れてなくて、私は少しつっかえながら言った。
「ああ。祖母はね、体調を崩して部屋で休んでいるんだ。この場はお父さまがいれば、問題ないだろう、ってね」
普段 淡々と話してくれる柚木先輩の家の話は、どんな話題にもお祖母さんのことが関わっている。
その言葉ぶりから、私の中でお会いする前から、一番苦手意識を持ってしまったのが、お祖母さんだった。
会ったら、なんて言おう。どうしたら……。
そう考えて、昨日は夜中ずっと、寝返りを打っていた、から。
体調を崩していると聞くと少し心配だけど、ほっと安心した気持ちが漂うのは事実だったかもしれない。
「失礼します」
雅ちゃんの小さな声がして、数センチ襖が細く開く。
艶やかなお盆の上には3人分のお茶が用意されていた。
*...*...*
「ああ、そういえば……。梓馬、ちょっと来なさい」柚木先輩のお父さんは柚木先輩に目配せして立ち上がった。
うちのお父さんとは違う、優雅な物腰。
ふふ、やっぱり親子なのかも。品の良いところは柚木先輩ととてもよく似ている気がする。
それにそう言って席を立つのも、緊張で身体ががちがちになっている私への思いやりのようにも思えた。
本当、優しいお父さんなんだ……。
「なんでしょう?」
「香穂子さんにお花を立ててあげたらどうだ? 私が何種類か取り寄せておいたものがあるから。
いつの時代も女の子は花が好きなものだ。きっと喜んでもらえるだろう」
「はい。お父さま」
「どれ、私が先に取りに行ってこよう。じゃあ、香穂子さん。今日はどうぞゆっくりしていきなさい」
「はい。ありがとうございます」
柚木先輩のお父さんは私にそう笑いかけると、部屋を出て行く。
柚木先輩は少しの間、首を傾けて、遠ざかる足音を聞き届けて。
やがて完全にその音が消えると、くすぐったそうな微笑を浮かべて笑った。
「ったくな。今日香穂子が来るっていうんで、一番そわそわしていたのは父だったんだぜ?」
「あはは、そうなんですか?」
「少し、待っていて」
「はい」
「って言っても、お前も手持ちぶさた、か?」
柚木先輩はあごに手をあてて考えるそぶりを見せて。
そして廊下の向こうに見える中庭を指さした。
「中庭に出て花でも見てたら? うちの庭の春は特に素敵だから」
「ん……」
庭の中央にある池には小さな渡り橋が付いている。
その奥には、桃色の花が咲いているのか、一面が一色に染まってる。
少しだけ緊張も解けたのかな。
この部屋に入ったときに目にしていた景色とまるで一緒の景色のはずなのに。
今 飛び込んでくる木々たちは私に笑いかけてくれてるように感じる。
私は春爛漫のこの空気を思い切り吸い込みたくなった。
「じゃあ、ちょっと行ってきますね」
私は座布団から身体をずらす。
うう、だいぶん慣れたような気がするのに、どこかやっぱりぎこちない。
柚木先輩や、柚木先輩のお父さんは、和風の生活が中心だからかな。
和室の中、どんな動きも、泳ぐように身体が動いているような滑らかさがあるんだもの。
「ほら」
「あ……。ありがとうございます」
差し伸べられた手につかまって、立ち上がる。
柚木先輩はつむじに口付けると私の背を押した。
「上出来だったよ。香穂子」