*...*...* Sakura 2 *...*...*
「うわぁ……。すごいお庭」

 私は若草色の芝生の上をゆっくりと歩き出した。
 何もかも、あるべき位置にあるべきモノがぴっちりと配置されている庭。
 お椀型に刈り込まれたツツジの葉には、桃色のつぼみが見え隠れしている。

 池の脇に立っている桜は、1年分の力を振り絞るように、さわさわと花吹雪を降らせて。
 水面に散って吹き寄せられた花びらは、一箇所に集まって淡い桜の浮き橋を作っている。

(良かった……)

 柚木先輩のお母さんに会えないのは残念だったけど、お父さんに会うことができて。
 優しそうな温かい目を思い出す。
 ── 私、やっと、柚木先輩の近くにいてもいい人になれたのかな?

 春と秋。どちらも似た温度の季節なのに、感じさせる色は違う。
 今、私が立っているこの庭は、春爛漫の薄紅色に包まれていた。

 風の吹くままに、水面の桜は景色を変える。
 私はその面白さを、飽きることなく見つめていた。
 淡いピンク色の桜は、今の私の気持ち、そのままの優しい色をしている。

「ん……?」

 突然、さわり、と地面を踏む音がする、と思ったら、私の足元に黒い影が差した。
 影はだんだん大きくなる。そして完全に私を飲み込むと止まった。
 誰、なんだろう……? 柚木先輩、かな?

「香穂子さんかしら? 初めまして、ですわね」
「は、はい!」

 慌てて振り返ると、そこには逆光で真っ黒な女性の影だけが見える。
 誰……?

 光に慣れた目に映ったのは、銀色の髪。私よりも少し低い位置にある視線だった。
 なのにこの威圧感はなんだろう。私よりずっと上の高い場所から見下ろされている気がする。
 お母さんは京都に行っている、というお話だったから……。
 もしかして。……柚木先輩のお祖母さん……?

「わたくし、柚木梓馬の祖母でございます。日野香穂子、さん、ですわね」
「は、はい。あの、初めまして」

 私はしっかり顔を見つめることなく、ぺこりと頭を下げた。
 あれ、確かさっき柚木先輩、お祖母さんは体調を崩して寝込んでる、って……。

 でも目の前の人は病んでいる様子もなく、綺麗に髪を結い上げ 冴え冴えとした額を見せている。
 薄墨色の着物と腰高い濃紫の帯はきりりとしていて。
 柚木先輩のお母さま、といっても通りそうなくらいの若さと気迫に満ちていた。

 彼女の後ろには緋色の芝桜が広がっている。
 その奥にあるもう1本の桜も早くも散り始めているのか、風が揺らぐたびに ひらひらと白い花びらを降らせた。

 柚木先輩のお祖母さまは、私の上から下までさらりと目を移すと、我が意を得たような笑みを浮かべた。

「本当にお可愛らしい方。── あの人に会わせなくて良かった」
「はい? ……あの人……?」
「梓馬さんの母親に、です。あの人は気の弱い人ですからね。
 あなたを見たら情が移ってしまうかもしれませんでしょう?」

 そういえば、と私はさっきの席での会話を思い出した。
 今日のお話を最初に聞いたとき、確か柚木先輩は『両親に会わせたいから』って言ってたっけ……。
 それが今朝になってから突然、都合が悪くなったって。

『今朝になって急に茶会の会合ができたとかでね。京都に行ったんだよ』

 えっと、それは……。
 もしかして、このお祖母さまが、柚木先輩のお母さんに指示をして……?
 そして、柚木先輩のお母さんと私が会わないように、って、考えた、ってこと……?

 柚木先輩のお祖母さまは、軽くため息をついた。

「まったく。お若いから仕方ないとはいえ、殿方は分かっていないのですよ。
 妻の実家の力がどれだけ大きいか、という事実を……。
 特に梓馬さんは、両親の後ろ盾がない三男。
 大切に育てている一人娘さんなどをいただいて、そちらのご両親に梓馬さん自身を盛り立てていただく……。
 その方が得策だと、わたくしは考えますのよ」

 ひらりと風を含んで飛んだ花びらが、銀色の髪に留まった。
 鋭い眼差しが銀髪と一緒に光を放つ。
 柚木先輩に似た端正な顔立ちは、私を正面から凝視した。

「わかりますでしょう? ごく普通であるあなたのご実家と、柚木の家とでは、かなりの不釣り合いだということを」
「え? ど、どうして……?」

 ごく普通、という言い方にひどく冷たさを感じて私は顔を上げる。

 確かに、うちのお父さんは普通のサラリーマンで。
 普通の家。普通の兄姉。お母さんも普通の専業主婦。もちろん私も普通の人間だと思う。
 それが、……どうして? 『普通』って、そんなに非難されることなの?

 私の呟きを違う意味に取ったのか、初老の美しい人は、銀髪に手を当てて笑った。
 ひどく美しい手さばきが、威圧的に見えてくる。笑い声が聞こえるのに、顔は全く笑っていない、違和感。
 ── 怖い。

「どうしてわかったのか、というご質問かしら? まあ、あなたのことは洗いざらい調べさせていただきましたからね」

 またひらりと桜が舞う。暖かい陽気。風に取られたひとひらは、一旦落ちて、また舞い上がる。

「ヴァイオリンをなさる、素直な可愛らしいお嬢さん……。
 そんな方なら、これから釣り合いの取れた男性が何人も現れるでしょう?
 別に何も、柚木の人間に固執していただく必要もないか、と」
「はい……」

 掠れた声が自分のものじゃないように、小さく響く。

 不釣り合い。釣り合わない。……釣り合わない。私は柚木先輩と釣り合わない。
 そっか。今まで、親衛隊さんたちに散々言われてきたことだけど。
 そのたびに、柚木先輩が私を元気づけてくれたから、ずっと気づかないふりをすることができた。
 言葉のナイフは私の表面を少し引っ掻くだけで、心の奥までは入らなかった。

 けど。


 ── 涙が溢れてくる。


 いつも笑顔で家の中を明るくしてくれるお母さんが目に浮かぶ。
 今日柚木先輩の家に行くから、って言ったら、一緒に手土産のお菓子を作ってくれたお姉ちゃん。
 帰省するたびになにかしらお土産を買ってきてくれるお兄ちゃん。
 お父さんだって。普通の、ごく普通のサラリーマンだけど、一生懸命、私のこと、育ててくれたもの。
 ヴァイオリンを始めたことにも、協力してくれて。
『香穂。父さん、何も分かってやれなくてごめんな』
 そう言いながら、この前は照れくさそうにモーツァルトのCDを差し出してくれたっけ。

 どうして、私の家族を、そんな風に非難するの? ごく普通だ、ってひとくくりにして、非難するの?

 鴇色の芝桜。上に、白すぎる光を放つ桜の花びらが降ってくる。
 涙で霞んだその色は、鴇色がまさって真っ赤な血の色になった。

 私の返事を了解の意味に取ったのか、お祖母さまは口元を引き締めると、軽蔑するような声で告げる。

「それにもうあなたは、梓馬さんと ただならぬ仲、なのでしょう?
 そんな娼婦のような、ふしだらな方は柚木の家とは相容れませんのでね。
 お金なら、あなたがおっしゃるだけの額をご用意しましょう。
 わたくしの息子、梓馬さんの父親がどう申したかはわかりませんが、今日はこのまま、すぐ、お引き取りください」
「……はい」


 泣かないように、と固く噛み続けていた唇が痛い。血の味がする。

 毎年咲く桜を、こんな気持ちで見つめたのは初めてだった。

 桜と言えば、春。春と言えば、入学式。新学期。
 何もかもが新しい匂いがする空気の中、そんな季節に咲く桜は、人の幸せを象徴しているように私には思えた。

 緋色の桜。

 桜の花弁は、淡い優しい色のはずなのに、こんなに濃く猛々しい色に見えるのはどうしてかな。
 桜の木の下には死体が埋まっている。そう評した文学者もいたっけ。
 もしそれが本当なら。

 ── 死体から血を得た桜は、緋色の花びらを降らすに違いない。
*...*...*
「どうだった? 庭、綺麗だっただろう?」
「あ、はい! とても素敵でした。芝桜が満開ですね」

 すっと襖の開く音がして柚木先輩が戻ってきた。
 私は手にしていた鏡を慌てて鞄にしまい込むと、目の回りを指で押さえる。
 ちゃんと涙は拭いたし、大丈夫なはず。

 柚木先輩の手には小さな花器と、その上には、可愛らしいピンクのラナンキュラスのアレンジメントが広がっていた。
 ところどころに盛られてる小さな青い花が、八重の花を優しく引き立てている。
 柚木先輩のお父さんが選んでくれたという優しい色の盛り花は、いかにも甘い、私の大好きな色ばかりだった。

「可愛い……」
「たまには洋花も手がけるんだよ。和花より気楽にできていい」
「そうなんですか?」
「ああ。誰がやってもそこそこの出来映えになる。初心者には向いてるかもな。……ん?」
「は、はい……?」

 ふいに頬の辺りに視線を感じて息を潜める。
 うう、ウソをつき慣れてないから、かな……。この声からして、自分でもおかしいと思う。ちょっと裏返ってる。
 で、でも、ちゃんと鏡を見て顔、確認したんだもの。さっきと変わらない私がいるよね。

 柚木先輩はすっと手を伸ばすと、私の唇を撫でた。

「どうしたの、ここ」
「え?」
「血が出てる」
「あ……」

 柚木先輩の指の動きにどきりとする。
 ……どうしよう……。
 そっか、涙は自分で止めることができるけど、血って、自分では止められない。
 ちゃんと確認したつもりだったのに。

 私は柚木先輩の手を取ると、そのままゆっくり下に降ろした。

「えーーっと、あ。ぼんやり歩いていたら、ほら、大きな木にぶつかっちゃって。
 すごいですね。お庭に木が何十本も生えてるって……。私のうちはイロハ紅葉とハナミズキの2本でいっぱいです」
「へぇ……」
「私も、4月から高3ですし。もうちょっとおっちょこちょいなの、直したいなあ、って……」

 私は手の甲で唇を押さえた。
 目に見える血はいい。こうやって押さえればいいもん。
 身体も心得たモノで、そのうち自然に止まるように働いてくれる。

 けれど。
 ── 胸の痛みは止まらない。

 柚木先輩のお祖母さまから受けた心の傷からは、いつになったら血は止まるんだろう。

 ……どうしよう……。思い出してきちゃった。
 自分がふしだらだ、と言われたことも悲しかったけど。
 それよりも、大好きな家族を非難されたことの方が辛いかもしれない。

 柚木先輩は手にしていた花を脇のテーブルに置くと私の顔を見据えた。

「やれやれ。言ってごらん? 何があったの」
「だから、あの、木にぶつかって……」
「ふぅん。どんな木だったの?」
「え? えーっと、それは……っ」

 どんな木だった、って……。
 あ、あれ……。えっと、どんな木があったっけ。
 桜の木があったことは覚えてるけど、あの子は庭園用の桜だったのかな。私よりも背が低かったような気がする。
 ぶつかった、っていうのにはムリがあるかも。
 えっと、じゃあ……。

 わたわたと口を開こうとする前に、柚木先輩は再び私の傷口に指を宛てた。

「……まったく、な。ウソをつくなら、その先まで考えておけよ」
「……ごめんなさい……」

 柚木先輩のお祖母さまから言われたことを、洗いざらい全部柚木先輩に告げることは簡単だと思う。

 けれど、どうかな……。
 それを聞いた柚木先輩はどう思うかな?
 やっぱり家族なんだもの。
 私が家族のことを言われて傷ついたように、柚木先輩だって、お祖母さまの悪口は聞きたくない、はず。

 聞かせたくない。どうしても。
 ── 柚木先輩に、今の私のような悲しい気持ちは、持って欲しくないから。

「柚木先輩……」

 私は先輩の心臓の音を確かめるように身体を預ける。
 メトロノームのように正確に刻み続ける音は、少しの間、私を安心させた。
 柚木先輩はゆったりとしたリズムで私の背を撫で続ける。

 ね……。信じたいよ。
 ずっと一緒にいてくれる。そう思っていたい。

 春は別れと出会いの季節。
 私は高校に残って、柚木先輩は新しい人間関係に飛び込んでいく。
 私にとっては別れの、柚木先輩にとっては出会いの春が始まる。

 周囲の反対。対峙する気持ち。泣き出しそうになる心。
 ……今の私はどうしたらいいのかな。

 柚木先輩は私の顔を持ち上げると、ゆっくりと傷口を舐める。そして労るように徐々に私の中に入り込んできた。
 意地悪な舌の動きは、私の身体の表面を粟立たせていく。いつもの安心する手順に身体の中が熱く湿り始める。

『そんなふしだらな方は、柚木の家とは相容れませんのでね』

 侮蔑に満ちた視線が浮かんでくる。
 性の捌け口。不潔、汚い、娼婦。そう言って笑ってた瞳を。

「── や……っ!」

 私は柚木先輩の胸を思い切り押しのけた。
 息が苦しくて、肩が大きく上下する。
 柚木先輩は驚いたように目を見開いている。

 ……帰りたい。ううん、帰らなきゃいけない。
 泣き出してしまう前に。泣いてる理由を聞かれる前に。


「……香穂子?」
「ごめんなさい。……今日はもう、帰らせて?」
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