*...*...* Ten 1 *...*...*
"Thank you for today. I wish to express my gratitude for goodwill."
"Not at all ! It is glad to do such dealings with you."

 軽く手を握り合って、目を合わす。
 自分自身が日本人の中でそれほど大きい身体つきではないと思っていた。
 しかしこうして縦横にボリュームがある米国人の中に囲まれると、まるで子どものように扱われているような気もしてくる。

 10年近く使い続けてきた英語も、やはり英国特有のアクセントがあるのだろう。
 一言口に乗せると、大抵欧米人は、ほぅ、と言いたげに顔を見合わす。
 イントネーション。方言。訛り。
 そういうところから相対する人のバックボーンを理解しようと努めることは、世界中どこでもあまり変わらないらしい。

 俺は、言い慣れて久しい説明を始めた。

「この発音、ですか? 僕は大学時代に英国に留学していたことがあるのです。だからでしょうね」
「そうでしたか。いや、それにしても美しいイントネーションだね。私はてっきり君がイギリスネイティブかと」
「それほどでは」
「いや、本当に聞き惚れたよ。── では、この件はよろしく頼みます」
「もちろん。お任せください」

 俺は笑顔で彼らをドアの向こうまで見送ると、ネクタイを緩めた。

(やれやれ、か)

 これで、一区切り、ついたか。
 机の上に散らかっている書類に目をやる。
 俺は記憶が乾かないうちにPCに向かうと、今の商談の議事録を書き始めた。

 非母国語である言語は、口に乗せると喉が渇く。
 精通するのには、自分が日本語で生きてきた分と同じくらいの時間をかける必要があるのかもしれない。

「梓馬さま、お疲れさまでございます」

 来客が帰ったのを察したのだろう。別部屋にいた田中は笑顔でミネラルウォーターを運んできた。

「田中。今日の仕事はこれでおしまい?」
「はい。そうでございますね。すべて滞りなく完了しております」
「そう」
「きっとお兄さまも今回の梓馬さまのご商談成立、さぞお喜びのことでしょう」
「ああ。結果だけ、先にメールで報告しておくよ。田中は今日はこれでお帰り」
「は。ありがとうございます」

 大学、大学院と進み、社会に出て、4年目。

 俺は、幼い頃から予想していたとおりの道を歩き始めている。
 引退した祖父の跡を継いだ父を盛り立て、2人の兄のサポート。
 柚木家の事業の一端を担って、今は造園の資材の買い付けにNYに来ている。
 高校の時から柚木の家の運転手だった田中は、俺の性格を一番良く把握していると言うことで、今は俺の秘書になって俺の周囲を取り仕切っている。

「梓馬さま」

 田中は机の上の書類をまとめ、来客の汚れたカップを下げると、柔和な笑顔を見せた。

「今夜は、火原さまがこちらにいらっしゃるとか。どうぞ楽しんできてくださいませ」
「ああ。彼も出張でこっちに用があるとかでね」
「お珍しいですね。1年ぶり、でしょうか?」
「ああ。就職すると会うのが難しい、っていうのは本当だね」

 火原は星奏学院の附属大を卒業後、レコードレーベル会社に就職して、6年目になる。
 最近は有名な海外のミュージシャンの世話をすることも多くて、海外の出張も頻繁らしい。

 俺はPCから目を離すと、夕暮れが濃くなっている窓の外を眺めた。

 ── いいものだ。学生時代の仲間というのは。

 ともすれば狭窄的になりそうな仕事の視野も、広げてくれる。
 何しろ益不益を考えることなく付き合うことができる。

 進む道は違っていたが、俺にとって火原は、10年来変わることない、気の良い親友だった。

 お互いがお互いをそう、思えること。
 こんなに多くの人間が行き交う世の中で、心の底から、大切だと思える人間に出会うこと。
 それがどれだけ希有なことかをわかっているだけに、俺は今日火原に会うのが楽しみだった。

 楽しそうにトランペットを鳴らしていた高校時代の火原を思い出す。

 さまざまな楽器が作る音色。
 ── トランペット。フルート。……ヴァイオリン。

 火原、と。そして、── 香穂子。

 そして、春のコンクール参加者の真剣なまなざしを。
*...*...*
「やっほ! 柚木!!」
「火原。久しぶりだね。1年ぶり、かな」
「えーっと、そうだっけ? もうそんなになっちゃうかなー。
 そっか、こんなとき、『What's up !? 』って使うんだね。柚木は元気でやってる??」

 待ち合わせのショットバーで。
 火原はスツールに掛けている俺を見つけると、駆け出すような大きなストライドで近づいてきた。
 手には携帯。少し派手目のチェックのジャケットがいかにも、レコードレーベルの会社に就職したんだ、という雰囲気を醸し出している。

『いつ会社から電話があるかわかんないんだよ、こんなに大変な会社とは思わなかったんだ』

 と、メールで愚痴っているわりには、今就職している会社が気に入ってるらしく、生き生きとした様子で日本とNYを行き来している。

「格好良くなったね。火原。いかにも今の仕事が合っているようだよ」
「柚木だって、どこからどう見たって、やり手の若社長って感じじゃん? カッコいいよ!
 って、柚木は高校の時から普通のヤツと違ってたからなー」
「そんなことないよ」

 俺は火原をスツールに招き寄せると、バーテンダーに目をやった。
 この店は、1度カウンターに来た客を忘れない。最初のワンショットはいつも俺の好みのアルコールを出してくる。
 火原は出されたグラスを勢いよく傾けて、大きな身振りで話し始めた。

「って、ところで、柚木って英語、困らない? 俺、ヒアリングは何とかなっても、スピーキングがボロボロでさー」
「慣れもあるからね。場数を経て行けば大丈夫だよ」
「そんなもんなの? あ、そっか。柚木は大学時代、留学してたもんね」
「まあ、1年だけだけどね」
「1年頑張るだけで柚木レベルになれるんだったら、誰も苦労しないよ〜。あーー。おれだったら、何年かかるんだろ?」
「いや、音楽をやってる人間は耳も確かだから。語学の習得はそれほど難しくないはずだよ」
「うーん。そっかなあ」

 ── そう。音楽をやっていた人間は。

 2人の兄を越えてはならない。それが柚木家の暗黙のルール。
 だから、俺はピアノを続けることができなかった。
 だけど、俺がピアノを辞めたからといって、兄たちのピアノが上達するというわけではなかった。

 結果的に、兄たちはピアノを辞め、俺はフルートを辞め。

 けれど一番最後まで音楽に触れていた俺が、一番語学を極めて。
 会社に益になることに関しては祖母も、俺が兄たちよりも抜きん出ることを見逃したのだろう。
 俺が語学に秀でたことには何一つ文句を聞いたことがなかった。

 仕事の話、高校時代の旧友の話が一段落済んだあと、火原は言いにくそうに口ごもった。

「柚木。……そう言えば、さ」
「なに? 火原」

 見ると、火原は手にしたカットグラスの表面に付いている水滴を弄んでいる。

「えーっと。なんて言うの? もし別れてたら、って思うと聞き出しにくいんだけど」
「ああ。……香穂子のこと?」
「うん! そう。ははっ。柚木から切り出してくれるとラクだよね。……えっと、どうしてる? まだ、続いてるの?」
「……ああ。まあね」
「そう! そっか。なーんだ。そっか〜。あ、お兄さん、もう1杯ね」

 こういうときの客が何を言っているかというのは、身振りを見ていれば大体察しがつくのだろう。
 バーデンダーは日本語で言われた注文に頷くと、鮮やかな手つきでシェーカーを振り始めた。
 俺は微苦笑を浮かべる。── なにも、質問する火原が顔を赤らめることはないのに。

「それを聞くためにわざわざ?」
「うん。なんて言うのかなー。ああ、でも日本語で話すって、すっごい楽だね。頭の中で変換しなくていいから。
 えーっと、なんかさ。なんか、嬉しくない? 自分の親友が自分の好きな子とずっと続いてるっていうの。
 って、あ、『好き』に深い意味はないんだよ。今はね」
「ふふ、今は、なの?」
「そうだよ。10年前ってもう時効だから、はっきり言うけど。
 おれも香穂ちゃん、いい子だな、って思ってたときがあったから。
 今、香穂ちゃんってどうしてるの?」
「香穂子? ああ、今あいつは、地元のPオケに入ってる。たまにお姉さんのお店を手伝ったり、ね」

 結局香穂子はあれから、星奏学院附属大の音楽学部に進んで。
 プロになってリサイタル、コンクール、という華やかな道を選ぶという選択肢もあったにも関わらず、それらの誘いを全て断ると、地元が主体の小さなオーケストラの団員になった。

『たくさんの人に身近に感じてもらいたいって思って。── 音楽のことを』
『そう』
『私も高2のコンクールに出るまで知らなかったんです。
 クラッシックって言えば、眠くなるような曲ばっかりだって思ってたし……。
 昔、王崎先輩が話してくれたように、少しでも音楽が楽しいなって思える人が増えたらいいなあ、って』

 元々複数の人間と音を合わせるということが大好きだった香穂子は、他の団員にも可愛がられているらしい。
 会うときはいつも満面の笑みでいろいろ話してくれる。

 そして時折、時間の空いたときには、香穂子のお姉さんが開いたという小さな和食屋の手伝いをしているらしい。
 昔、俺に手料理を持ってきて、言ってたことがあった。

『お姉ちゃんと小さな和食屋さんを開きたい、って思ってたんです。── ヴァイオリンを始める前は』

 ヴァイオリンと小さなお店。
 その2つを両脇に抱えている香穂子は、一応、夢が少しずつ叶い出している、ということになるのかもしれない。
 火原は新たに置かれたグラスを手にして笑った。

「そっか。なんか嬉しいよね! 良かったよ。本当に」
「ありがとう」
「って、あ、ちょっと待ってて。メールかな」

 火原は、胸ポケットにある携帯が揺れ出したのか、軽くジャケットの上を押さえると小さく指先で弾いて、俺の方に向き直った。

「それにしてもさ、柚木ってすごくない? 香穂ちゃんと付き合い出して、ずっと香穂ちゃんオンリーなんでしょ?
 柚木にしろ香穂ちゃんにしろ、どっちにしたって、新しい恋人には困らなそうに見えるのに」
「そんなことないよ」
「またまた。おれ、知ってるよ。高校時代の親衛隊メンバーも、それと、……あ」
「なんだい、火原」

 火原は俺の向こうにある大きな窓の外に目を遣ると、また俺の方に視線を合わせた。

「えっと、あれ、おれ、言ったことあったっけ? 星奏の附属大に行った香穂ちゃんもすごい人気だったってこと」
「へぇ。それは聞いたことなかったな」
「どんなときもさ、断るセリフは『大切な人がいるんです。ごめんなさい』だったって。
 おれの悪友が詳しく教えてくれてたよ。
 おれ、高校からの知り合いってことでいろいろ聞かれて困ったもんね。ウソつくの、苦手だし。
 いつも逃げてばっかりだったよ」
「そう」

 ふぅん。……その手の話は香穂子から聞いたことがなかったけど。
 今度帰国したら聞いてみるか。── あいつウソつくの下手だからな。
 隠してるつもりでも、一瞬焦ったように固まって。すぐ左に視線を逸らすからすぐ分かるしね。

 火原は酔いが回ってきたのだろう。ご機嫌な調子で話し続ける。

「よっし。せっかくだから後学のためにいろいろ聞いちゃお。
 今柚木ってこうやって月の半分くらい出張に来てるじゃん。ねね、香穂ちゃんと離れてても、平気なの?」
「気持ちは繋がってる。── そう思いたいね。そうじゃないと救いがない」
「ってかさ、そんなに会わなくても不安にならないの?」
「そうだね。気持ちは不思議なことに安定しているね。── 身体が彼女を欲しがることはあるけど」
「へえーー! そういうものなの!?」

 火原は目を丸くして、口を尖らせてる。
 そのあどけない表情を見て俺は微笑んだ。重なり合った笑い声は、あっという間に俺たちの間の時間を逆流させる。

 火原、と、香穂子。
 この2人に会わなかったら、確実に俺の人生は今とはまるで違う無味乾燥なものになっていたに違いない。

「まあ、僕たちの場合は、ってことだろう? 火原はどうなの?」
「って、あ、ちょっと待ってて! またメールだ。……少し面倒かも。こういうの。
 柚木たちって、メールは? 良くする方?」
「いや。別に。メールって、出した瞬間に待ち人になるだろう? あまり好きじゃないんだよ」
「あっ! 分かる気がする! 自分は出すのおっくうなクセに、返事がないとやたら気になるよね?」
「ああ、そうだね」

 香穂子は、わりと律儀にメールを返してくるタイプだが、やはり待つ時間は長い。
 待つのに疲れて、電話にすれば良かったと思うことがしょっちゅうで。

 声だけ聞いていると、声だけじゃ足りなくなる。会って、話したくなる。触れたくなる。
 そうなると現実的に離れているこの距離が気になったり、する。

 俺が香穂子と一番会えなかった時期は、やはり俺が留学していた1年だろう。
 この時の話をすると今も香穂子は涙ぐむ。

 10年。── 香穂子との10年。

 何が辛かったかと問われれば、香穂子を柚木家に連れてきた春と、留学のために日本を離れた春だろうと思う。

 香穂子とつきあい出して。
 俺は自分の生まれた鬱陶しい季節を好きになれた代わりに、今度は、たくさんの花が咲き誇る春を憎むようになった。

 ── 香穂子を傷つけた、春。

「ってかさー。おれ、今、会社の同じセクションのコにアクション起こされてて」

 火原は、しょうがないなあ、もう、と一人グチると、手際良くメールを打ち込んだ。
 そして、そそくさとケータイを胸ポケットへと片づけて、口から息を吐く。

「それは良かった……、ってわけにはいかないの?」
「うーん。けど、なんかなー。こういうものなのかなあ。追いかける恋と、追いかけられる恋ってこんなにも違うんだね」
「まあ、そういうものかもしれないね」
「香穂ちゃんのときとはまた違う。……ははっ。香穂ちゃんって、おれの初恋だったし。
 柚木の口を借りて言えば、まあ、そういうものかもしれないね」

 火原は俺の口調を真似て笑った。
 そして、また携帯が揺れたらしい。顔をしかめて携帯を見ると、今度は返事をすることなくカウンターの上に置く。

「あーーもうっ! 正直、追っかけられすぎると、参るよね」
「二人の気持ちのバランス、ってあるかもしれないね。テンポ、と言い換えることもできるかな」

 ── バランス。

 形のないものを『愛』と最初に名付けた人は誰だったのか。
 香穂子が俺との関係をどう思っているか、直接聞いたこともないけど。
 俺は、この10年、ずっと香穂子を追いかけてきたように思う。
 追いかけて。泣かせて。手放そうとして手放しきれなくて。

 いっそ、あいつのイヤなところを見つけ出せたらいいと思った。そうしたらそれを言い訳に諦められるのに、と。

 火原は、ラフに固めた髪に指を通すと、頭をかいている。

「それにしてもいいなー。柚木、まだ香穂ちゃんと続いてるのか」

 氷が溶けたのだろう。
 俺の目の前のグラスの中には、琥珀色と透明な水が2層揺れている。
 それが寸分違わず同量になっていることを、俺は不思議な気持ちで見つめた。

 ── お互いがお互いの唯一であること。愛しいと思う気持ちが続くこと。

 グラスを回す。2色の色は、柔らかく混ざり合うと、とろりと丸い色になった。

「そっか。香穂ちゃんとか……」

 自分の中で自分の気持ちに一つの説明がついたことに、すっかり気持ちが楽になったのだろう。
 同じ言葉を繰り返す火原に俺は笑って言い返した。


「……そうだね。でも、火原にはあげないよ?」
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