*...*...* Ten 2 *...*...*
「冬海ちゃん。どう? 調子は……?」
「ありがとうございます。一時のことを思うとだいぶん良いんですよ?」
「そうなの? わあ……。未知な世界だから、いろいろ教えてね。冬海先輩!」
「は、恥ずかしいです。その……」

 気持ちいい、3月の昼下がり。私は今、冬海ちゃんの実家に来ている。
 冬海ちゃんにそっくりな雰囲気を持ったお母さんは、温かい笑顔を浮かべながら、私が持ってきたお手製のシフォンケーキと紅茶を淹れてきてくれた。

「まあまあ。香穂さん。お久しぶりね。またずいぶん綺麗になって」
「そんな……。あ、あの、笙子さん、おめでとうございます。今度の夏が楽しみですね」
「いえいえ。もう子どもが子どもを産むような状態で……。ちゃんとこの子にできるのかしら。ねえ? 笙子」
「もう、お母さん……」
「いえ。笙子さん、すごく頑張り屋さんだから、きっと大丈夫だと思います」
「だといいんですけどね。わたくしも子どもが子どもを産むようなものだ、って言われながら、笙子を育てたから……。
 じゃあ、香穂さんごゆっくりなさってね」

 冬海ちゃんのお母さんはそう挨拶を終えると、どこか嬉しそうに弾みながらドアの影に消えていった。
 冬海ちゃんは、ますます白くなった頬を膨らますと、私に頭を下げている。

「もう、ごめんなさい……。お母さん、おしゃべりなんです。それにこの頃ずっと、そわそわしてて」
「ん……。嬉しいんじゃないかな。冬海ちゃんがお母さんになるってことはお母さんはお祖母ちゃんになるってことだもの」
「そうなんでしょうか」
「うん。うちもね、この前お姉ちゃんに子どもが産まれたの。お母さん、大騒ぎだったんだよ?」

 お里帰り出産、っていうのかな。
 はち切れそうな大きなおなかを恥ずかしそうにダンナさんのコートで隠してお姉ちゃんが帰ってきたのが、ほんの2ヶ月前。
 こんなに小さな存在の赤ん坊が一人加わるだけで、これほどに家の空気が変わるのかと思うほど、我が家の雰囲気は一変した。

 泣いた、笑った、あくびした、と、お母さんは、お姉ちゃん以上にお母さんぶりを発揮して赤ん坊の面倒を見ている。
 私が今まで見たこともないような幸せそうな顔をしてるから、そうからかうと、お母さんは思い出すような懐かしい目をして私を見た。

『香穂子もこんな感じだったのよ。久しぶりの赤ちゃんだったから、本当に可愛くて!』
『そうなの?』
『小さな、いとけない子が顔いっぱい口にして、ミルク欲しがってるのを見ると、ねえ。
 なんだか、この子の幸せのためなら、精一杯のことしてあげたい、って気持ちになるのよ。
 理屈じゃなくて本能なのかしらね』
『本能……?』

 うーん。そうなのかな……。
 日に日に育っていく赤ちゃんは確かに可愛いとは思う。
 けど、赤ちゃんの顔が丸くなる分だけ、すっかり寝不足になって毎日赤い目をしてるお姉ちゃんを見ていると、私は、大変だなっていう気持ちの方が強くなる。

 ── そっか。産むだけじゃお母さんになれないんだ。
 もしかしたら、産むことよりも、育てることで、人は親という存在になっていくのかもしれないなあ、って。

「頑張ってね。冬海ちゃん」
「……あ、ありがとうございます」

 すごいなあ。あんなに可愛い後輩ちゃんだった冬海ちゃんが、夏にはお母さんになる。
 あ、お祝い、何がいいかな。赤ちゃんの性別が分かってからまたリクエストを聞いてみよう。

 冬海ちゃんは少し出てきたおなかを優しく撫でながら、紅茶のカップを持ち上げた。

「あ、あの、今日は、香穂先輩にいろいろ聞きたい、って思ってたんです。
 香穂先輩は、その後、どうですか……? あの、その、柚木先輩、と……」
「あ、うん。相変わらず……かな?」

 ……冬海ちゃんの口から、『柚木先輩』と言われて、恥ずかしさに耳朶が熱くなるのを感じる。
 恋バナ、って聞いて聞いて、って自分からカミングアウト出来る人と、出来ない人っていると思う。
 私は、どう考えても後者、で。
 どうしても、恥ずかしい。── 言えない。言葉を選んでしまう。
 この状態を天羽ちゃんから言わせると、『もったいぶってる』ってことになるんだろうけど、恥ずかしいものは恥ずかしいんだもの。……困ったなあ。

「良かった……」

 けれど、冬海ちゃんはそれ以上私に尋ねるわけでもなく、私の表情を見て。
 ふわりと安心したように優しく微笑んだ。

「そう、ですか……。良かった。素敵ですね。一人の人を10年も思い続けることができるなんて。── 羨ましい」
「あはは、羨ましい、ってそんな……。幸せなママになる人のセリフじゃないよー」
「いいえ……。あの、私の家は、両親がすごく仲が良くて。
 今のダンナさんを私、知らないうちに、父に似た人を選んでしまっていたみたいです。
 父の勧める人なら、大丈夫かな、って。出会って、半年で結婚してしまったので、毎日びっくりすることが多くて。
 10年後ってどんな感じだろう、って想像がつかないんです」
「そうなの?」
「香穂先輩はどうですか? ずっと一人の人が好きな気持ちって、変わったり、薄くなったり、濃くなったりするんですか?」
「んー。どうなんだろう……」

 10年。
 口に出して言うと、決して短い時間ではないと思う。
 けれどこうして振り返ってみると、昨日見た夢くらい、瞬く時間にも思えてくる。

 高2の春のコンクールで、あの人に出会って。離れがたくなって。
 ずっと一緒にいたいと初めて願った人。
 願うほどに大きくなった不安が弾けそうになったとき、いつも意地悪で包んだ優しさで守ってくれた。
 それがいつしか信頼へと変わるのにそんなに時間はかからなかった。
 離れていても、どこか安心している自分がいる。

 柚木先輩の家の事情も。
 そして、あまり考えたくないことだけど、もし、彼にとって私よりもっと必要な人が現れたときにも。
 どんなときも、私には、ちゃんと誠実に話してくれるんじゃないかな、って思える。

 好き、よりも、もっと、突き抜けた、気持ち。
 ── 人はそれを、『信頼』って言葉で表すんじゃないかな……。

 私はソーサーを手の平に置くと、冬海ちゃんを見つめた。

「なんかね。上手く言えないんだけど、私、柚木先輩といると元気になれるの。安心、するの」
「そうなんですか?」
「うん……。離れていても、私のこと分かってくれてる、って思えるの」

 なんだろう。柚木先輩を好き、という気持ちは変わりないんだけど。
 高校や大学の頃と比べたら、今は、その想いが少しだけ変化している、と思う。
 『好き』という黄身の周りを、弾力のある白身が守ってる。
 白身は、『強さ』だったり、『優しさ』だったりして、その時々で違う。

 冬海ちゃんは、優しい空気の中、私の顔を覗き込んだ。

「素敵ですね。考えてみれば、私とダンナさんのお付き合いより、ずっと前からお二人はお付き合いしてるんですものね」
「あはは。なーんてちょっと、カッコいいこと言ってみたりして。……長い時間会えないと結構泣いちゃう日もあるよ〜」

 テーブルには、こんもりとした形のクロッカスと、桜が一枝、小さな花器に活けてある。

 3月。大学生だった柚木先輩が留学したのも春だったっけ。
 私が大学に入学して。もう、私との関係がとうに 途絶えていると思っていた柚木先輩のお祖母さまは、まだ続いていることにすごく腹を立てて、柚木先輩は1年間の留学を指示された。

 1年って、長いようで短い。短いようで長いと思う。
 会おうと思っても会えない距離に、私は泣くことも出来ずにぼんやりとしていた。

 高3になる春。柚木先輩の家で見た桜の色の記憶が消えないままに、また重なった桜の思い出。
 春を愛でるための素敵な花なのに、勝手な理由で私から疎まれている桜って可哀想な存在なのかもしれない。

 冬海ちゃんは、カップを置くと懐かしそうな目をして言った。

「なんだか私……。高校3年間の思い出、っていうと、あの高1の時に出場した学内コンクールを思い出すんです」
「あ、冬海ちゃんもなの? 私もなの」
「あの時の私……。とにかく緊張の連続で。入学したばかりのとき、コンクールメンバーに選ばれて。
 その……。こわかったんです。男の人が。全員」

 私は頷くと、すっかり冷め切った紅茶を口に含んだ。
 セカンドフラッシュが出回るこの時期は、冷めた紅茶も渋みがなくすっきりとしていて美味しい。

「ん。それで??」
「そんなとき、香穂先輩がメンバーに入ってくれて。
 香穂先輩はいつも輝いていて、素敵で……。私はそんな先輩に憧れて、少しでも追いつきたいって思ったんです」
「冬海ちゃん……」
「『音楽は、いつも自分の近くにある』……これ志水くんの口癖だったんですけど、分かるような気がするんです。
 私、今も、たまにクラリネット、吹きます。面白いんですよ。私が吹くと、おなかの子、ぽこぽこ私を蹴るんです」
「本当に?」
「はい」

 そう言って笑う冬海ちゃんは、今まで私が見たこともないような柔らかい笑みに溢れていて。
 私も釣られるようにして微笑んだ。── 嬉しい。自分の好きな人が幸せになってるのを見るのは。

 ああ、お母さんになるってこういうことなのかもしれない。
 自分の血や肉、生命さえも分け合う行為。慈母そのものの、行為。

 私は、懐かしい名前に声を上げた。

「あれ、志水くんって、今は……?」
「志水くん、ですか? 彼は、院に残ってますよ。チェロ弦について勉強し続けたい、って言って。
 なんだか似合ってますよね。志水くんと院生」
「うん、そうかも」

 奏でてて、気付いたら朝になってた。
 そう言って笑う志水くんには、就職、という道よりも学者さんの方が向いているかもしれない。
*...*...*
 その日の夜、土浦くんがお姉ちゃんのお店に来てくれた。

 土浦くんは、高2の春のコンクール以来、複数の人から音楽科転科の話を受けていたけれど、

『音楽は、ずっと身近にあるってことさ。── 入れ物は関係ない』

 そう言って、普通科に残ったまま、地元の難関校に数えられる大学に入学。
 今は、銀行マンとして外資系融資の担当をしている。
 予約席は、二人分、ということで頼まれてたから、女の人と一緒かも、ということを考えに入れて、 私はテーブルの花にピンク色を混ぜたりしていたけど、土浦くんが連れてきたのは私が今まで一度も会ったことのない中年の男の人だった。

「よぉ。今日はよろしくな」
「ご利用ありがとうございます。土浦くん」
「って香穂子にそんな風にかしこまって言われると困るな。ま、ちゃっちゃと頼むぜ」
「はい」

 土浦くんの隣りにいた男の人は如才のない人らしく、タイミング良く話題を振る。

「わ、土浦さん、親しげですねえ。あ、もしかして土浦さんの大切な方、とか? ああ、婚約者とか?」
「違いますよ。そんなんじゃない」

 土浦くんはコートを脱ぐと私に手渡して笑った。
 身体にぴったりフィットしたスーツに、真っ白いワイシャツ。
 その中には銀行マンらしい、落ち着いた色のネクタイが見える。

「こいつは俺の高校の同級生なんですよ」
「あ、そうでしたか。けれど、かなり親しげに感じますよ?」
「それは、まあ、いろいろ、と、な。 まあいい。香穂子、すぐ始めてくれ」
「はい。分かりました」

 お姉ちゃんがやっているお店は、完全予約制で、それぞれが独立した部屋のスタイルを取っているからか、
 人に聞かれたくない話をするのにちょうど良いらしい。それに、自分の家から近いところも良いのかな。
 このところ、土浦くんはいろいろな顧客さんを連れてお店にやってくる、ってお姉ちゃんが言ってたっけ……。

 話は1時間程度で終わる、ということだった。
 その間に、準備しておいた料理を全て出し切る、というのはなかなか難しい。
 もう少ししたらお姉ちゃんもまた一緒にやってくれるから、それまでは頑張らなきゃ。
 お姉ちゃんがいない間に、せっかくお姉ちゃんが作ってきた評判を崩すのは申し訳ないもんね。

 頃合いを見て、口直しのお茶を、と思っていると、もう用件は済んだのか、部屋から土浦くんが出てきた。
 一緒にいた男性は、土浦くんに深々とお辞儀をしている。

「じゃ、土浦さん。ぜひ我が社での発売を期待しておりますので」
「ああ。でも確約はできないぜ? ちょっと考えさせてくれ」
「はい。それはもう」
「ああ、香穂子、ご馳走さん。またよろしく頼むな」

 土浦くんはふと私に目を移して微笑んだ。

「……って、そうか。この一件、香穂子に聞くのもいいかもしれないな」
「どうもありがとうございました。 って、……はい? 聞くって、何を……?」

 ……えっと、なんの話、なんだろう。
 土浦くんの銀行のお話を聞いて、私、何か、言えるのかな……?

 土浦くんは私を目で指し示すと、男の人に向かって誇らしげに口を開いた。

「こいつ、これでも音大出てて、ちょっとしたところじゃ名の知れたヴァイオリニストなんですよ」
「え? そうなんですか? じゃあ、ぜひピアノとヴァイオリンの合奏曲なども取り入れてもよろしいかと……」
「いや、こいつもいろいろ忙しいですからね」

 取り入れる……。えっと、取り入れる??

 二人の顔を見合わせて聞き役に回っていると、土浦くんが説明を始めた。

「CDを出したいんだとよ、俺の」
「え?」
「ほら、この間のあれを聴いてから、らしいぜ」
「そうなの?」

 毎年開かれる楽器会社のピアノコンクール。
 今年、土浦くんは社会人の部で優勝を飾った。
 音楽関係者ではない人、しかも有職者の入賞というのは、そのコンクールでも10年ぶりの快挙、ということで、新聞にも大きく写真入りで出ていたっけ。

『日付が変わるころに帰っても、平日は必ず3時間は弾きますね。週末は、7、8時間ってとこでしょうか。
 好きならできますね。── 俺はピアノ、……いや、音楽が好きだから』

 という土浦くんのインタビューも載っていた。

 ってことは、土浦くんは……?

 CDデビューがどれだけ難しいか、は良く知ってる。
 星奏の附属大学の音楽学部を出た同期の子だってCDデビューした子って、まだ1人しかいない。
 それを土浦くんは、銀行の仕事もしながらピアノも続けて、それで、それで……っ。

「……すごい、すごいよ〜、土浦くん! おめでとう!!」
「香穂子」
「私、土浦くんのピアノ、大好きだよ。CDが発売されて、いろんな人が土浦くんのピアノを知る……。
 すごく素敵なことだと思う」

 私は自分でも気づかないうちに土浦くんの手をぶんぶんと握っていた。
 ── 友達のような、全く、情緒がない握り方で。

 きっと、こういうの、柚木先輩が見たら、からかうんだろうなあ。

『全く……。香穂子には参るね』

 とか言って。

 囚われる、って思うのはこんな時だったりする。
 そばにいないときに、そばにいるように感じるとき。── そばにいて欲しい、って願うときだ。

 土浦くんは私の頭をぽんぽんと撫でて、隣りにいる男に人に笑いかけた。


「ま、俺を懐柔したかったら、こいつを攻略するのも手かもしれませんね」
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