*...*...* Ten 3 *...*...*
薄雲色の障子に、どんよりとした光が差している。一時、春が近づいてきたような陽気のあと、今年はどうやら花冷えの時期が長いのだろう。
ここのところずっと、冬に戻ったような気候が続いている。
「……お祖母さま。ただいま帰りました」
「梓馬さん? ……お入りなさい」
薄暗い廊下。
時間が止まったような古いしつらえの襖の前で跪いていると、奥からか細い声がする。
この秋は急に冷え込んだから、そのせいだろう。
この冬は寒さが続いているから、そのせいだろう。
そう言いながら祖母の風邪の症状は思いもかけず長引き、気がついた頃には3月になっていた。
そしていつしか家族は、祖母が病んでいることに慣れ、それが当たり前の日常になっている。
俺は襖を細めに押し広げると、ゆっくりと敷布ににじり寄った。
祖母は薄い身体を白い敷布の上、横たわらせている。
「梓馬さん……。いつNYからお戻りでしたか?」
「昨晩です。兄たちには連絡済みです」
「無事、商談が整った、と」
「そうですね」
祖母は布団から半身を起こすと、脇にあった梅色の羽織を背にかけた。
幼い頃、あれだけ威厳のあった祖母。
祖母の背を越えた身体を持つようになってからも、その思いは変わらなかったのに。
今、目の前にいる祖母は、頼りないまでの細い身体をしている。
「お加減はいかがですか?」
「あなたのお母さまがうるさく心配するものですから こうしてますけど、別に大したことはないのです」
手の甲は、点滴の跡らしい。どす黒い肌の上に新たな鬱血が重なって、痛々しく腫れ上がっている。
どこに入れても点滴が漏れてしまうの、とつぶやいていた母を思い出して、俺は祖母の手を取った。
「梓馬さん?」
ヒノキは、自分の根本にひこばえの若木が育つと、ひそかに水を吸うのを止め、音もなく倒れるという。
祖母がその手のタイプの人間だとは考えたことはなかったが、案外どんな人間も営みは同じ、で。
── 今の祖母は、自ら水を吸うのを止めたのかもしれない。
俺は祖母の声には応えずに、そっと鬱血の部位をさすり続けた。
「幼かったあなたが……。こんなことをするようになるとは」
一番小さかった雅も去年結婚し、子どもが産まれて。
柚木家で独りの人間は俺だけだったりする。
つまり、祖母は、俺以外の兄弟のひこばえを見届けたことになるのか。
祖母は機嫌良く話し始める。
「あなたは利発なお子でしたのよ。利発で、素直で。わたくしが花を活けるのをそばでじっと見つめて。
次の日には、全く違う枝振りの花を、わたくしそっくりに活けて。
……そんなある時、わたくしは花ばさみで指を傷つけてしまったことがありました。覚えておいでですか?」
「いえ」
「上3人のお子はあなたより大きいのに、出血に驚いて部屋を飛び出していきました。
でも、梓馬さんだけは、違ってましたの」
「覚えていませんね。どう違っていたのですか?」
「泣きそうな顔をしながら自分のハンカチを取り出すと、傷口に巻き付けて。懸命に握っておいででしたよ。
『こうすれば血は止まるんだよ、お祖母さま、大丈夫だよ』って。
ほほほ、そう言っているご当人の方が青い顔をしていて、わたくしは痛みを忘れて笑ってしまいました」
「……可愛いものですね」
── そうなのか。
記憶の糸を辿っても思い出せない。
ピアノの音色に惹かれて、自分を取り巻く空気に色が付き始めて。
ピアノを取り上げられたとき、俺の回りは無色になった。
再び色が付いた、と思ったのは高3の春。香穂子に出会ったからだ。
── 無色の時の時間の流れは、俺自身があまり記憶に残したくないと感じているのかもしれない。
祖母は話し疲れたのか、早々に布団に横たわった。
「思えばあの時期がわたくしの一番幸せだった時期かもしれません。
……殊の外、可愛がって、そして躾けてしまった。── 親でもないのに」
「お祖母さま?」
「いやなこと。昔話をする年寄りをあれほど軽蔑していたというのに。自分がその立場になるとは」
祖母は忌々しそうにそう言い捨てると、俺に背を向ける。
俺は息をつくと、肩が寒くないようにと掛け布団を掛けた。
軽い掛け布団ってNYにあるのかしら、と母が呟いていたのを思い出す。
これほど軽い布団でも、祖母にとっては重いのか……。
「では失礼します」
静かに腰を上げる。上から見下ろした祖母は布団の中、俺の想像よりもさらに縮んだような気がする。
祖母の視線の向こうには、寂びた雰囲気の梅一輪の掛け軸があった。
祖母は花がほころびる瞬間を見極めるかのように一点を見つめて。
そして、耳を澄まさなければ聞こえないような掠れた声で尋ねた。
「……梓馬さん。ときに、日野さんは、どうしてます?」
「はい? 香穂子、ですか?」
祖母の肩に問いかけても、返事はなかった。
*...*...*
「日本に帰ってくると落ち着くな」「そう、ですか?」
「ああ、どれだけ語学に精通したとしても、細かな機微まで伝えるのはネイティブでない限り難しいから」
その日の夜。
俺は香穂子のお姉さんがやっている店に行くと、香穂子と一緒に夕食を取った。
今日から、休み明けの仕事始めだという香穂子の姉さんは、久しぶりに日本に帰った俺の口に合うように、とあっさりした料理を出してくれる。
もっともこれは、香穂子が俺の好みを良く知っていて、事前にこまごまと準備しておいてくれだのだろう。
「火原先輩も、元気そうで良かったです。
このごろすっかり業界人になった、って同期のオケ部の子が言ってたの聞いてたの」
「まあね。今は英語に苦戦しているようだな」
「ん……。でも火原先輩なら、ジェスチャーだけで、頑張って意見を伝えてしまいそう」
香穂子は火原の大振りな仕草を思い出したのだろう、くすくすと笑うと箸を置く。
そして若草色のお茶を注ぐと、俺の前に差し出した。
NYにいて2週間もすると、一番飲みたくなるのが、緑茶だったりする。
田中が気を利かせて俺の好みの茶葉を持って行っても、やはり、硬水と軟水の違いがあるのか、日本ほど美味しくは感じない。
── いや、香穂子が淹れたものだから、なおさら美味しく感じるのかもしれない。
「そうだ、柚木先輩。明日ね、月森くんのN交響楽団のコンサートがあるんです。
珍しく、土浦くんも冬海ちゃんも揃うんです。志水くんは院のレポートの関係で絶対参加、って話で。
火原先輩はどうかな? お仕事、忙しいかな……? 火原先輩のチケットも取り置きしてあるんですよ?」
「ああ、俺から声をかけておくよ。多分大丈夫じゃないかな」
月森は、あれから彼の追い求めていたとおり、また周囲の予想通り、音楽家としての道を歩き出している。
滅多に枠の空かないN響のヴァイオリニストとしてあっさり試験に通って。
コンサートの合間を縫って、海外のコンサートを開いたり、あちこちの公演に出かけたりしている。
同窓ということもあって、また、香穂子経由からも月森の噂はよく入る。
この3月は、N響の小品をメインにしたコンサートがあったはずだ。
これは特に音響の良いホールで演奏されるともあって、人気が高く、例年チケットの入手が難しいといわれている。
先日の出張では音楽に造詣の深いドイツ人に尋ねられた。
『レン・ツキモリ、ミサ・ハマイ、この2人は親子だっていうのは本当かね?
楽器が違うせいか、ずいぶん曲の雰囲気に違いがあるようだが』
彼のあの歳で海外の人間の口の端に乗る、というのは、かなり将来を有望視されているということか。
── まあ、いい。
明日、久しぶりの彼の音楽に浸るのも悪くないだろう。
俺が音楽から離れて10年が経った。
自分の進みたい道へ何の迷いもなく、立ち向かうことのできる人間を羨ましく、また疎ましく思ったこともあった。
── けれど。
「柚木先輩、どうかしましたか?」
見つめ続ける俺の無遠慮な視線に気付いたのだろう。香穂子は優しく微笑み返すと、お茶を淹れ直す。
(香穂子を通して、音楽に触れ続けていられた)
そう思えば、10年の空白はなんの差し障りもなく、俺を音楽に引き戻す。
月森のコンサートの話も。香穂子のPオケの話も、優しく受け入れられる自分がいる。
「ご馳走さま。今日は帰るよ。お姉さんによろしく伝えておいて」
俺は香穂子の淹れたお茶を飲み終えると席を立った。
23時に次兄が柚木家に来る。
この前の取引の状況と今後の指針について、意見を言わなくてはいけない。
あの兄のことだ。
俺の言うがままに頷くだけだろうが、それでも今後の取引の展開について、筋は通しておいた方が無難だ。
香穂子は席を立つ俺を一瞬だけ寂しそうに見上げたが、すぐ笑顔になって俺の背にコートをかけた。
「そうだ、香穂子。明日、昼から時間、空けておいて」
「え? コンサート、夕方の6時からですよ? 昼から……?」
「そう。いろんな意味でお前を感じたいしね。どこか行きたいところがあれば考えておけよ?
1箇所くらいなら考えてやらなくもないから」
「あ、ありがとうございます。でも、お昼からなら、2、3箇所行けそうですよ?
そうだ。じゃあ、先輩が好きそうな古美術のお店も見つけたんです。そこ、と……。
あとは、先輩と一緒に行きたい、って思っていたレストランと……。あれ、昼からでも時間が足りないかも」
「は?」
「えっと、ごめんなさい。時間、逆算するから待っててください。
6時に開演で、その前に月森くんにみんなで何か差し入れしようって話があるから、5時前には行かなくちゃいけなくて。
3時、で……。2時、っと……。あれ? 時間、足りない……?」
白い制服を着ていた香穂子は俺の中で、たった半年の間。
けれど、こうして香穂子の笑い顔を見ていると、一番に浮かんでくるのは音楽科の白い制服姿だったりする。
── 時間が、戻る。
手を伸ばして、手に入れて。失うことを怖がっていた高校時代。
高校に残る香穂子と大学に進む俺と。二人の住む時間が隔たってからも、ずっとお互いを求め続けて。
お祖母さまは、家の格が違うの一点張りで、香穂子をどうしても認めようとしなかったから。
両親の許しを得ようとして連れてきた柚木家で、ひどく香穂子を傷つけてしまったこと。
約1年の留学。
この2つの話を香穂子にすると、いつも最後は涙ぐむ。
それでも待っていてくれたこと。
こうして就職した今も、変わらない気持ちを抱き続けていること。
お互いの気持ちを育て続けていることに、愛しさが溢れてくる。
── その、何でもない表情を見たかったんだ、と俺が告げたなら。
今のお前はなんて言うのだろう?
『すごいよね。柚木って香穂ちゃんオンリーなんでしょ?』
火原の声と共に、自分でも不思議な感情が浮かんでくる。
けれど、俺と香穂子の関係は、高いところから低いところへと水が流れ落ちるような、当然の理のようにも思えてくる。
『大切な人がいるんです、って、断ってた、って』
火原が教えてくれた香穂子の声も聞こえる。
やれやれ。
……まったく、ね。そんな可愛いセリフを、今まで俺は聞いたことがなかったけど?
香穂子は腕時計を睨みながらぶつぶつ言っていたが、ぱっと顔を上げた。
「ごめんなさい。古美術のお店、ここからちょっと遠いんですね。だから、レストランは諦めます。
柚木先輩も時差で疲れてるでしょう? だから……。えっと、待ち合わせ、昼の1時くらいでどうでしょう?」
香穂子はそう言うとふと俺の襟元に目を遣って。
ごめんなさいと小さくつぶやくと、俺の襟元を整えている。
ふっくらとした頬と、瑞々しい身体が腕の中に収まる。
今、香穂子の身体をタオルのようにぎゅっと絞ったなら、つま先からぽたぽたと水がこぼれてくるに違いない。
「まったく。しょうがないな。コンサートが終わるのは何時?」
「え? 多分、21時、かな……?」
「じゃあ、昼と夜、両方空けておいて」
「あ……。はい」
俺のネクタイと、スーツ。スーツとコートの襟の位置が、きっちりと決まったのだろう。
香穂子は俺の言葉に頷くと、満足げに俺の胸元を見つめている。
下がり気味の眉毛に、あどけない瞳。
きゅっと結んだ口元は、どれだけ綺麗に化粧を施しても、高校時代と全然変わらないままで。
それに、1つのことに夢中になると他のことがおざなりになるのも、全然変わらないままだ。
── 俺はため息をつきながら、念を押した。
「ねえ、香穂子。俺が言う『夜』って意味、分かってるよな?」
「はい? 夜?」
「そう。── 次の日もずっと、って意味だよ」
「はい?」
「家に帰すつもりないから。ちゃんと準備しておけ、って言ってるの」