*...*...* Ten 4 *...*...*
 月森の所属するN響コンサート当日。

 香穂子は以前俺が贈った落ち着いたピンクのドレスに着替えて、楽屋裏に現れた。
 手には、附属大の有志の差し入れの品なのだろう、大振りのブーケと、小さな紙の包みを持っている。
 どうやら、ここでみんなと集まって、一緒に月森の楽屋に行こうという話になっているらしい。

「あ、あのね。今回の公演は私がチケット係だったの。だから、結構たくさんの人に声、かけたんです」
「そう」
「毎年この時期にやるこのコンサート、音響が良い会場だってことと、小品がたくさん聴ける、ってことで、
 即日完売だったんです。
 それに、月森くん効果も大きいかも……。途中で彼、ドイツに留学しちゃいましたけど、一応星奏の同窓だし。
 星奏のみんなは月森くんの音、聴きたいんじゃないかなあ。あ、土浦くんだ。ここだよー?」

 香穂子が手を振った方向を見ると、他の人間より一つだけ頭が突き出た人間が歩いてくる。
 それが土浦だった。
 土浦は、軽く片手をあげると、大股で俺たちに近寄ってきた。
 その背後に隠れて、あれは、志水くんと、冬海さんか。ゆっくり後をついてくる。

「よぉ、香穂子! あ、柚木先輩、ご無沙汰しています」
「土浦くん、久しぶりだね。ああ、聞いたよ。社会人ピアノコンクール優勝おめでとう」
「いえ。まあ。運も実力のウチ、って言いますからね」
「ご謙遜を。頑張ったんでしょう? 土浦くんのことだから」
「いや。その……。柚木先輩はどうですか? その後は、やはり?」
「ああ。家の事業を継いだからね。音楽はこうやって聴き役専門、ってところかな」

 俺と土浦が話をしているのを、香穂子はにこにこと嬉しそうに見つめている。

 ── 思えば高校時代から、香穂子はいつもこんな態度だった。

 知らないうちに人の良いところを引き出してしまう力。
 それは才能と言えるのかどうかは分からない。
 けれど、香穂子との合奏が心地良いと感じるように、香穂子はいつも相対する人の良いところを引き出す力を持っているように思う。
 だから、俺も知らないうちに こいつの前では良い格好をしていたくなる。
 それは土浦も同じなのだろう。
 10年前の春のコンクールで、俺に対して本気になるだのならないだの、いろいろ突っかかってきたのがウソのように、穏やかな対応をしてくる。
 ── まあ、彼も多少は社会の水に揉まれたのかもしれない、か。

 香穂子は、後輩2人と話をしたり、行き交う人の中に見知った人間を見つけて挨拶をしていたりしたが、やがて時間が気になったのだろう。
 ひらりと手首を返すと、腕時計を見て提案した。

「んー。火原先輩、遅いですね。時間もないし、先に月森くんの楽屋に行きましょうか」
「ああ、それがいいだろうね。火原は仕事が済んでから来るって話だったし」
「そうですね。僕 は、N響の 楽屋裏 見たかったんです」

 志水は 10年経ったあとでも高校時代とまるで変わらない雰囲気のまま、ゆっくりしたペースで同意した。

「じゃあ、行きましょうか。あまり遅くなって月森くんも気が散るといけないから……」

 と、香穂子が歩き出したそのとき、背後から威勢の良い声が飛んできた。

「ゆっのきーー、香穂ちゃん。あ、土浦も! わわ、志水くん、冬海ちゃんまで! みんなーー! ひっさしぶり〜!!」

 その声に周囲の人間が振り返る。
 中にはくすくすと笑い声を立てているやつもいる。
 こう、底抜けに明るいのも、時と場所を選ばないと格好の話題の中心となる。
 周囲の視線に耐えられなかったのだろう、土浦が眉を顰めて、火原を招き寄せた。

「火原先輩。あんまり大きな声出さないでください。周囲の注目の的ですよ。全く」

火原は土浦のクレームを一向に介さず、とびきりの笑顔で俺たちを回し見た。

「ごめんごめんー。ちょっとバタバタしててさ。ねえ、おれは今、どこ行ってたと思う?」
「どこだろうね、冬海ちゃん」
「さあ……」

香穂子と冬海さんも顔を見合わせて首をかしげてる。

「じゃーん。なんと星奏学院に行ってたんだよ!
 ほら、最近クラッシックってブームじゃん。
 普通科の人間も含めて、今時の高校生はどんなクラッシックなら聴きたいか、ってさ。
 題してリスナー聞き取り調査。懐かしかったよ。金やん、全然変わってないしさ」
「火原先輩。それはまた、エラくこのメンバーに関係ある場所ですね」
「でしょでしょ? 正門前、桜が満開だったよ。ねえ、あれっておれたちが在学中の時にはなかったよね。
 卒業生がプレゼントでもしたのかな」
「はいはい。話は後でたっぷり聞きますから、先に月森んとこに行きましょう。時間が押してますよ」

 なおも話し続けようとする火原を途中で切り上げると、土浦は一歩前を歩き出した。

「あー。土浦! なんか、そのまとめ方、エリート銀行サラリーマン、まっしぐらー、って雰囲気じゃん。
 ねえ、おれの会社と土浦の銀行って取引あるでしょ? ウチの会社って、経営状況、どうなの?」
「はぁ? 社内情報には守秘義務がありますからね。答えられるわけないでしょう?」
「先輩後輩のよしみでさー。ダメなの?」
「ダメです」
「ケチだなー」
「火原先輩。それがどうしてケチになるんですか。あ、っと……。それと先に仁義 切っておきますね。
 俺、火原先輩のライバル会社からCD出すことになりそうですから」
「うっそ。土浦がCDデビュー? すごいじゃん。それ。ってどうしておれの会社でやってくれなかったの?」

「しーー。火原先輩も、土浦くんも静かにしてね。今から入りますよ?」

 香穂子はきちんと手入れされている指を口に立てると、かしこまってドアをノックした。
 弦のメンバーが1つの楽屋に集まっているのだろう、中は人の声と、調弦の音でざわついている。
 月森は部屋の隅、胸元を緩めて 何かを考え込むように額に指を添えていた。

「月森、くん……?」
「……ああ。香穂子か?」
「うん。今日はね懐かしいみんなを連れてきたの。頑張ってね。客席で応援してる」

 月森は香穂子を見て一瞬懐かしそうな表情を浮かべたものの、これほどの大人数が楽屋に来るとは思っていなかったのだろう。
 香穂子の後ろに視線を投げかけて、ふっとため息をついた。

「……来たのか」
「おいおい、愛想のない言い方だなー。せっかく差し入れまで持って来てやったのに」
「……月森先輩、風邪引きますよ。汗は拭かないと」

 早くも土浦くんと月森くんは やり合っている。
 志水くんは、ゲネプロ終了直後の熱気を身体で感じたいのだろう。
 月森の汗ばんだ額を見つめた後、それぞれの演奏者が持っている楽器の商標に目を遣っている。

「あの、月森くん、今、ゲネプロが終わったところ、だよね。出場、おめでとう。
 これ、星奏の同期のみんなから……。お花、ね。
 あと、これは、このメンバーのみんなから。Yシャツのお仕立て券なの。白いYシャツ、いっぱい必要でしょう? だから」
「専科の川井から聞いてる。今回のチケット、君が頑張って捌いてくれたと。── ありがとう」

 月森はそう香穂子に礼を言うと、俺を見て軽く頭を下げた。
 俺も笑顔を作って、軽く目配せをする。
 まあ、香穂子に対する態度はいろいろ思うところがあったけど。
 考えてみれば、月森の音に浸るのは数年ぶりのことかもしれない。

 一体、どれだけの音を響かせるようになったのか。
 N響はどれくらいのレベルなのか。
 ── 一つ、お手並み拝見といきたいね。

 俺は月森に笑いかけた。

「出演おめでとう。今日は君の音に向き合えるのを楽しみにしてるよ」
*...*...*
 開演5分前。
 重々しい始まりの鐘が鳴り出すと、ホールの中は一気に暗くなった。

「あーもう! 土浦! どうしてウチでCD出そうって思わなかったの? 一度でもおれのこと思い出してくれた?」
「火原先輩。決まったもんはしょうがないでしょう。ほら、もう静かにしないと」
「ダメ。コンサート、ハネたらたっぷり聞くからね。付き合ってよ?」
「はいはい。わかりました」

 火原はまだ言い足りないのか、口を尖らせて言い募っていたが、室内が暗くなったことで諦めたらしい。
 椅子に深く腰掛けると、これから生まれる音に耳を傾け出した。

 俺は隣りに香穂子を感じながら、ピンクの布の上に置いてあった手を引っ張る。
 香穂子は、一瞬ぴくりと指を揺らせた後、隣りにいる冬海さんの様子をうかがって低くため息をついた。

「それにしてもなかなか興味深い選曲だね。親しみやすい、というか。玄人にはやや物足りない、というか」
「はい。毎年このコンサートは、有名な小品のハイライトばかりやるんです。
 あ、そっか。ちょうど、私たちの高校の学内コンクールの時みたいですね」
「そうなの?」
「そうです。『最高の環境で、最高の芸術を、もっと身近に』がモットーだ、って。いい試みですよね。楽しみです」

 選曲はクラッシックだけに閉じない。
 最近の歌謡曲のアレンジ数曲と、本格的なクラッシックが1曲というショートプログラムだ。
 メインは最終に演奏されるベートーベンのヴァイオリンソナタ第5番だろう。

 確かに客層は大人だけではない。
 楽器をやっているのだろう、運び込まれている楽器を興味深そうに見つめる小学生もたくさんいる。
 何の迷いもないようなまっすぐな瞳が、胸を打つ。
 20年前、俺も確実に持っていただろう、音楽への思い。
『素直な、利発なお子でしたのよ』
 祖母の言葉も思い出す。

 音譜は言語の一つであり、俺にとっては母国語で。
 楽譜を通常目にする本のように読む。
 音階は、文脈。楽章は、文章そのものだ。
 楽譜から忠実に生み出される音。
 音からさまざまなストーリーを読み取るために、こうやって親しみやすい、耳に慣れた曲を聴くということは、これから音楽を志そうとする小さい人にとっては、有意義なことなのかもしれない。

 短い曲が終わるたびに、小さな手が作った拍手が広がっていく。
 香穂子は頬を昂揚させて手を叩いている。そのたびに、俺の手も揺れる。

 ── さて。最後の楽章の始まりだ。

 ヴァイオリンソナタ第5番ヘ長調Op.24。
 その、幸福感に満ちた明るい曲想から『春』という愛称で親しまれている、華やかな曲が始まった。
 いかつい中年のピアニストがゆっくりと指を落とす。
 容姿とはまるで相容れない、軽やかな音色が土浦の関心を誘ったのだろう。
 彼の靴のつま先が揺れ出す。

 その後に続く、月森のヴァイオリン。
 決して長いフレーズではなかったが、この歳で、これだけ注目されるフレーズをソロで奏でるというのは、N響での彼の立場を認識するには十分なものだった。

 ── 音色の断片全てに、春が、満ちあふれている曲。
 月森の技巧が、技巧以上の穏やかな感情に覆われている。

(なかなかだ)

 第一楽章の有名どころのフレーズの後、軽い調子の変調を転調を経て、舞台は最終楽章に入っていった。


 木漏れ日が、内なる自分に降り注ぐ、感覚。
 それは消える前に、また、ふわりと積み重なっていく。
 ── 満ちて、溢れてくる。


 知らないうちに香穂子の指を強く握り締めていたのだろう。
 香穂子は捕まえていた指を抜くと、いたわるように優しく包み返してきた。

『ときに、日野さんは、どうしてます?』

 祖母の言葉。あれは一体どういうことなのだろう。
 ようやく、俺と香穂子のことを許す気になった、ということだろうか?

 ── 許す?

 旋律は止むことなく続いてる。
 許す……。

 そうだ。俺は、決して短くない間、こうしてずっと待っていた。
 許されること、認められることを。

 けれど、待っていれば それで何もかも解決していくのだろうか?

 旋律が俺の背を後押しする。ほとばしるような感情が溢れるほど浮かんでくる。

 年を重ねた祖父母や両親を守り、兄たちを盛り立て。
 そして香穂子を幸せにする。

 いろいろ辛いことはあっただろうに、何も口にしないで、俺を信じてついてきたやつ。
 一番近しい人間を幸せにできないで、これからの人生をどうして生き抜いていけるだろう。

 そうしてこそ俺は俺であるための一歩を踏み出せるのではないか。

 人が人であることをぎりぎりのところで支えているものはなんなのだろう、と俺は考えることがある。
 今更、恋だの愛だの囁く気はない。
 けれど……。

 つまらないと思っていた人生。
 でも香穂子とふたりなら生き抜いていける。そんな気がする。


 美しい余韻を残して、ホール全体が静まり返る。
 スタンディングオベーションが生まれる。俺も知らないうちに立ち上がると大きな拍手を送っていた。
 香穂子も釣られるようにして立ち上がると、懸命に拍手している。

「月森くん、素敵だった……」

 泣き出さんばかりの赤い目をして香穂子は舞台に拍手を送り続けている。

 そうだ。今夜は……。
 火原の言葉が脳裏に浮かぶ。

 ── 今、俺は伝えるべき時期に来ているのかもしれない。
 音楽という芸術が生んだ思い、育ててきた気持ちをそのまま。全て、香穂子に。

「香穂子。── おいで」


 俺は、興奮の冷めやらない客席の中、香穂子の背を押すと車へと向かった。
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