*...*...* Ten 5 *...*...*
 急にまぶしくなった客席。

 私は柚木先輩に背を押されて、出口へと向かった。
 わ……。足元がふらつくのは、さっきの月森くんのヴァイオリンの音が胸の中に残っているからかもしれない。

「じゃあ、僕はここで失礼します。みなさんありがとうございました」

 志水くんは、今浮かんでいる感動が残っている間にレポートを書き上げたいとそそくさと席を立つ。

 冬海ちゃんは、すごく優しそうな雰囲気を持ったダンナさんが迎えに来ていた。
 当たり前のようにダンナさんの腕を取ってゆっくりと歩き出す冬海ちゃんの頬には、幸せな色が浮かんでいて。
 あ、あれ? 月森くんの作った音を聴いたせいかな。
 どこにでもある見慣れた光景のはずなのに、私は泣きそうになるのを抑えるのに必死だった。

 土浦くんは、ロビーに出るやいなや、火原先輩に肩を抱かれて次の行き先を決めている。

「さーってと、土浦。どこ行ってみる〜?」
「いや、俺、毎晩ピアノには向かいたいんで。1、2時間で勘弁してくださいよ」
「え? そんなお願い聞くワケないじゃん。今日はオール、ってことで」
「……だったら、このまま帰らせてもらいます」
「わー、ごめん。聞く。土浦の言うこと聞くから。ねね?」

 ふふ、こうやってじゃれあってると、どちらが先輩か後輩かわからない。
 高校の時、あんなに大きい、って思ってた1年という年の差。
 それは歳を重ねるにつれ、人生に占める割合は小さくなっていく。
 もっと、大切なこと。── その人の性格、とか人柄、とか。
 年の差なんて忘れちゃうほど、大切なものが増えていくからだと思う。

 けれど、……エラいな。
 土浦くんはどんなときだって、先輩たちに対する敬語を忘れない。
 だから、会社に入っても、上司に可愛がられて、部下から慕われてるのかもしれない。

 そんな喧噪の中、私は柚木先輩に連れられて車に乗り込んだ。
 柚木先輩は、運転手の田中さんに軽く耳寄せしている。
 田中さんは私を見て、口元をほころばせた後、軽く一礼をした。

 やがて車は滑らかに夜の道を走り出す。

「素敵でしたね。月森くん……。すごく優しい、暖かい音になってた。そう、思いませんか?」
「ああ。まあね。── 彼も聴かせたいと思う相手ができたのかもな」
「ん……」
「優しくて、暖かい……。俺も彼に感謝しなくてはいけないな」
「はい?」
「いや。なんでも」

 柚木先輩は答える気がないのか、そのまま口をつぐんだ。
 ブラックフォーマルのスーツ。窓の外を流れるネオンが一筋の光になって、先輩の背後を彩る。

 車は海沿いの道を大きく右折すると、さらに奥へと進んでいく。
 あ、あれ……。この道……?
 車は、私の思ってもみなかった方向へと走り続ける。

「えっと、柚木先輩? 私たち、どこに向かってるんでしょう?」
「── さあ。どこだと思う?」

 端整な顔立ちは高校時代と変わらないままなのに、就職してからのここ数年はそれに大人ぽさも縁取られて、頻繁に会っている私さえ、どきり、とするほど美しく見えた。

「さ、降りて。着いたよ」
「え、ここ……?」

 思いもかけないところで車は止まる。
 田中さんも、ドアを開けながら懐かしそうな視線を送っている。

「行こう?」
「は、はい!」

 ── 車が着いたそこは、春の星奏学院だった。

 正門前はところどころに小さな灯りが灯っている。
 そして人工で作った灯り以上に優しい花明かりを放っているのが、どっしりとした風格の桜だった。

「お前と桜を見たいと思ってね」
「先輩……」

 10年前の桜の日。
 柚木先輩のお祖母さまから受けた言葉から、私の心はひどい傷を受けた。
 私は、あの日以来、桜を見ることが怖くて。桜の季節が短いことに感謝しながら過ごしてきた。
 直接告げたことは一度もなかったけど、そのことは、細やかな気遣いをする柚木先輩も分かってくれていたのだろう。
 10年もの間、2人の間で桜を愛でたことはなかった。

「なあ。お前はこの季節が好き?」
「うーん。どうだろう……」

 さわさわと風が揺れる。
 そのたびに桜は自分の分身を降らせ始める。

「えーっと、先輩は?」
「は?」
「先輩はどうですか? 春っていう季節、好きですか?」
「俺、か。……俺は好きじゃないね。この季節は」

 薄暗闇の中、忌々しそうな声が降ってくる。

「先輩……?」
「お前を柚木の家に連れてきたことで、泣かせてしまった春は一生忘れることができない」
「……もうそのことは、言わないで? もう、大丈夫だから。だって柚木先輩、ずっとそばにいてくれたでしょう?」

 桜がひらりと舞い降りる。
 私たちが卒業してから新たに植えられた桜は、今はしっかりと根が付いたのか、弾けんばかりの白い花をたくさんつけている。

 柚木先輩は、ほっと ほどけるような笑顔を見せた。

「以前は、自分の生まれた季節が嫌いだったんだけどね」
「え? そうなんですか?」
「まあ、いろいろとね。けれど、お前がコンクールの間に言ってくれたことがあっただろ? 雨降りが好きだ、って」

 私は曖昧な顔で頷いた。たしかに雨上がりの青空は清々しくて大好きだけど。
 あれ、私、そんなことを先輩に言ったことがあったっけ?

 柚木先輩は、初めて桜を見つけた人のように枝振りを見て。
 視線が落ちてくる、と思ったら、それは私の顔で止まった。

「── 10年前の、祖母の非礼を許してやってくれないかな」
「いいえ。……どうしたんですか? 突然」
「桜を見ると思い出す。自分の不甲斐なさやお前の泣き顔を」
「いえ……。今になってみればお祖母さまがそうおっしゃるのもわかるような気がするんです。
 だって、私たち、まだ高校生だったんだもの。えへへ、ちょっと早熟だったかも」
「……そう」

 先輩の気持ちを引き立てるように明るく相槌を打つ。
 だって、それは……。
 柚木先輩が悪いんじゃない。そして、多分私も悪くない。
 どちらかが努力して何とかなる問題ではなくて。
 言えば言っただけ、2人とも傷ついてしまう。── だから。

 痛そうな表情を浮かべて、柚木先輩は目の前の桜の幹に手を宛てた。

「月森の生んだ音色を聴いて思ったよ。
 春という記憶を、俺も新しく塗り替える時期がきたんじゃないか、ってね」
「柚木先輩?」
「そして、香穂子にもそう願いたいね。── お前にも春という季節を好きになって欲しいと」

 もしかしたら、この人は傷ついた私以上に、10年の間、傷つき続けてきたのかもしれない。

「時間は人を変える。10年という時間はお祖母さまの気持ちも、どうやら溶かしたみたいだ。
 ── いや、俺が溶かさなくてはいけない時期に来ているのだと思う」
「先輩……」
「今までお前には余計な苦労をかけたね」

 夜。星奏学院の桜がひらひらと白い分身を落とす。

 10年前。柚木先輩の家の庭で。
 こんな切ない桜の姿をもう二度と見ることはないと思った。見たくないと願った。
 それ以来、桜の咲く春は私の苦手な季節になった。
 けれど今星奏学院に咲く見る桜は、以前感じていたような、血の色ではない。
 大きな枝振りの下、白くたおやかな姿で私を魅了する。

「香穂子。……これから先の人生も、お前を俺のそばにおいておきたくなったよ」
「……はい……」

 言葉より、涙が溢れてくる。
 目の先にある柚木先輩のタイピンが、涙で拡大されて桜の花びらのように輝き出した。
 大学を卒業してから5回目の春。

「こら。泣かないの」

 柚木先輩にはいつも私を惹きつける何かがあった。
 それは近づこうと思えば思った分だけ逃げていく理想の音のようでもあった。

 どれだけ同じ時間を二人で過ごしたかな。

 ずっと、刹那的だった。
 だから、いつも、ある覚悟を持って過ごしていた。
 もう、この人と会えるのは今日が最後なのかもしれない。
 だったら。
 会えるときはいつも、私の精一杯を見せよう。そう、思った。

 いつか別れることになっても、いいんだ、って。
 目の前のこの人を好きになったという記憶が残れば充分だ、って。

 私だけに向けられる意地悪も、甘い顔も、全部受け止めて行きたい、そう思ったから。
 泣きたくなったときには、近くにヴァイオリンがあった。

『俺は数あるヴァイオリンの中から、お前の音だけを聞き分けられるよ』

 自信たっぷりに言う柚木先輩を、もっと上手くなって からかいたかった。
 その後、笑って褒めてくれる柚木先輩が見たかったから。

 けれど。
 ── こんな風に笑いあえる日を、夢見なかったといったらウソになる。

 頬と髪の間に、ひんやりとした手の平が忍び込む。
 頬の上をすべっていく先輩の親指が気持ちいい。

「香穂子」
「はい?」
「一度だけ言うよ。……多分、俺の過去においても、未来においても一度だけ」

 すっと細められた目。
 柚木先輩の瞳の中に映っていた白い花びらも一緒に細められる。鋭さを増す。

「愛してる。── 俺のそばにいてくれ」

 きっと、何年経っても。
 今、浮かび続けて止まらない暖かい気持ちを、私は桜を見るたびに思い出すだろう。
 新しく塗り替えられた記憶と一緒に。

 言葉が出ない私に、目の前の人は意地悪く微笑む。

「可愛い顔して。返事はないの?」
「先輩……」
「いいの? こっちの都合の良いように解釈するよ?」
「……はい」

 今のこの瞬間の私の顔を、目の前の人は一生からかい続けるつもりなのだろう。
 いたずらっ子のような得意そうな笑顔で笑っている。

(一生……?)

 浮かんだ言葉に、涙が溢れて止まらない。

 柚木先輩のお祖母さまの言葉。約1年間の留学。確かに悲しいこともたくさんあった。

 けれど私が今10年前の高2の春に戻ってこの場所に立ったなら。
 高2の私は多分、今と同じ生き方を選ぶだろう。

 選んで、選ばれて。
 この人と一緒に歩いていきたい。そう思うだろう。

 先輩は何も言わないでただ私を黙って見つめている。

「あの……」
「なに?」
「あの、よろしくお願いします」



 10年前、この学院で1人の先輩に出会った。
 笑って。泣いて。たくさん音色を奏でた。



 そしてまた迎えた、10回目の春。
 私は大好きな人の胸の中、新しい気持ちで桜の花を見上げる。
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