*...*...* Tears 1 *...*...*
「── たまにはいいだろう、こういうのも」
「……け、けど。だけど……」

 夕方でも、どこかほの暗さが残る喫茶店。
 時折客が出入りするのか、ドアに付けてあるチャイムが心地よい音を立てる。
 小さないちごのような唇が固く結ばれると、香穂子は目の前にあるアイスティを引き寄せた。

「なに? お前、今度の週末は都合が悪いの?」
「いえ、特に何も……。あ、そういえば中間試験が近いかな。
 だから、えっと……、いっそのこと、夏休みはどうでしょう?」
「は? 3ヶ月も先延ばし していたら、時期的に間に合わないだろう?
 でもまあ、香穂子がそう言うなら、この週末と夏休み、両方行けばいい」
「うう。そう、きましたか……」
「当然」

 俺はそこで一旦話を切ると、この前香穂子に渡したピアノ譜について話し始めた。

 音楽系の大学に進学するためにはピアノの履修は欠かせない。
 卓越した香穂子のヴァイオリンの技術さえあれば、星奏の附属大学なら受かりそうなモノだが。
 やはり学院の途中から音楽の道を目指した香穂子は、他の音楽科の人間と比較するとどうしても音楽の基礎知識が不足している箇所も多い。

 俺はさっき途切れさせた会話を思い出していた。

『今度の週末、お前のピアノの練習に付き合ってやるよ』
『本当ですか? ありがとうございます! 嬉しい』
『── ただし、泊まりがけ、でね』
『…………。はい……?』
『ここからちょっと行ったところに、柚木の別荘がある。この前、グランドピアノの調律も済ませておいたから』

 桜の花びらが散る頃に、初めて香穂子を柚木の家に連れてきて。
 父親とは滞りなく話は済んだものの、香穂子は祖母の非難の言葉をまともに受けた。
 俺は小さく息をつくと、再びストローを含んだ香穂子の口元を見つめた。

 ── そう、あの日からだ。

 あの日から2度ほど香穂子を抱いた。
 けれど、2回とも、結果は同じだった。
 行為の途中で、香穂子は泣き出しそうな顔をする。
 以前も香穂子の身体を攻め立てて、攻め終わる瞬間にそういう表情を見せることはあったが、どうやらそれとは違うらしい。
 香穂子の中に入る瞬間、一瞬虚ろに視線を揺らして。まるで俺を感じることに罪悪感を抱いているような、そんな顔をする。

 それに、自分の勘違いではなければ。
 ── 香穂子は俺が触れようとする直前にぴくりと身体を揺らすようにもなった。

 別に俺を拒絶しているわけではない。
 しかし、最近の香穂子は、まるで初めて抱いたときのような、どこか堅さの残ったぎこちない雰囲気になったように感じていた。
 あの日以来、香穂子は祖母の話を口にしたことはない。

『私……っ。……ふしだらだ、って……。娼婦だ、って』

 熱い身体に俺を埋め込まれながら、泣いていた香穂子を思い出す。

 学院に残った香穂子と大学に進んだ俺とは、以前よりも会う時間が減るのは仕方ないのだろう。
 しかしどこか香穂子は、俺と会う時間が減るのをそれほど残念がっていないように思えた。
 むしろ、減ったことで、ほっと緊張を解いているようなフシさえ見えて。

(2日間、一緒の時間を過ごせば何か分かるかもしれない)

 俺はテーブルの上の伝票を手にすると立ち上がった。

「土曜日の午前中にお前の家まで迎えに行くから」



 その場では香穂子はなにも言わなかったが、やはりいろいろ考えるところがあったのだろう。
 旅行前日の金曜日の夜、無造作に机の上に置かれていた携帯が、遠慮がちに点滅し始めた。
 画面を見るとあいつの名前が出ている。
 俺はある類の予感を覚えながらボタンを押した。

「あ、あの、明日のレッスンの件なんですけど、
 明日と明後日ね、学院の練習室が取れたんです。
 だから、そこでもピアノ練習ができると思うんですが、どうでしょう?」
「どうでしょう? って、なに?」

 途端に電話越しの声は、煮え切らない言葉を響かせ始める。

「だから、えっと……。別荘に行かなくてもね、2日続けて学院に行けば……」
「非日常の空間に身を置くというのも、集中力が高まって良いものだよ」
「ん……」
「通いの練習ならいつでもできるだろう? 最初の予定通り出掛けよう。いいね?」

 俺は強引にそうたたみ込むと、早々に電話を切った。
*...*...*
 その日の当日。
 香穂子は約束した時間通りに家の前に立っていた。
 小さめの旅行鞄と楽譜帳、それにヴァイオリンを手にしている。
 その姿は1年前、音楽に携わっていなかったとは思えないほど、どこかしっかりとした雰囲気があった。

 俺は車を降りると香穂子の持っていた鞄を手に取る。

「ありがとうございます、柚木先輩。今日はよろしくお願いします」
「ああ。俺の貴重な時間を費やすんだ。少しは成果があるといいな」
「あはは! はーい。頑張ります」

 香穂子の様子は屈託がない。
 ── そうか。なるほどね。
 運転手の田中は、車内では黒子の役目を果たしているとはいえ、一応、一人の人間で。
 ……そうすると、なにか。
 香穂子は俺と二人きりになったとき、ぎこちない態度を取るのだろうか……。

「柚木先輩? どうかしましたか?」
「いや。別に。まあ、受験といってもお前の場合、内部進学だし、
 過去の傾向と対策をしっかりしておけば、よほどのことがない限り大丈夫だろ。
 お前、ピアノは?」

 香穂子は恥ずかしそうに目を逸らすと小声で呟いた。

「中2の時までやってました。それからは受験で中断して、そのまま……、ですね。
 けど、ほんの趣味程度なんです。だから、クラスのみんなには内緒で。
 ピアノやってた、なんて、とても告白できるようなレベルじゃないもの」
「ふうん。でもまあ、譜読みの素養があるのはラッキーだったよ。
 リリも魔法のヴァイオリンを弾かせるとはいえ、ある程度の人選をしていたのかもな。
 じゃ、ソナチネくらいから さらってみようか」
「はい」


 途中で軽く昼食を済ませ柚木の別荘に着くと、田中は軽く一礼をして、ウィンカーを出すと元来た道へと車を走らせていく。
 俺は早速 香穂子の手を引き、ピアノ室へと向かった。
 香穂子は俺に引かれるままに後をついてくる。
 うつむき加減に歩く香穂子の頬はまた少しだけ削げたように細くなり、その分、目が一回り大きくなったように思えた。

 香穂子は俺の視線に気づくと、小さく笑顔になって明るい声をあげた。

「あ、この前先輩からお借りしたピアノ譜、ありがとうございました。
 あの、すごく丁寧に書き込みがしてあって、助かりました。
 小学校4年生であの曲弾きこなしてたなんて……。すごいです」
「まあ、ピアノは好きだったからね。── 大事に昔の楽譜を取っておくくらいには、ね?」
「ん……。私が以前通ってたピアノ教室ではね、1曲練習曲が完成するたびに、MDに録音してくれて。
 それを自分の誕生日にプレゼントしてくれたんですね……。
 今、聴き直すと懐かしいです。柚木先輩の音も何かに残ってますか?」
「ああ、まあね。以前、ピアノコンクールで入賞したことがあったから、そのときのビデオに残ってるかもな」
「え? そうなんですか?」
「大抵の楽器は、ある程度の体つきにならないと始められないものが多い。
 ヴァイオリンには分数ヴァイオリンというものが存在するし。
 フルートもフルートより小さいピッコロやオーボエから入る人間も多い。
 だから、音楽の基本はピアノから始まると言ってもいいくらいだね」

 俺も小学生までとはいえ、ピアノの知識がなかったら、ここまでフルートを極められたかは疑問だ。
 香穂子は深く頷くと、クラスメイトの話を始める。

「ん……。そう言えば、月森くんも自分用のピアノが部屋にあるって聞いたことがあります。
 私は聴いたことがないんだけど、森さんが月森くんのピアノも相当な腕前だって言ってたことがありました」
「ピアノもヴァイオリンも、どちらにしても幼い頃の環境というのが、音楽家の大きな因子になっていることがほとんどだ。
 その点で月森は家庭環境に恵まれていると言ってもいいだろうね」

 俺は部屋に入ると、静かに出番を待っているグランドピアノの上蓋を持ち上げた。
 部屋の奥、突き当たりの窓を開ける。
 木立から流れ込む風は普段感じる風より心持ち涼しく感じられた。

「さて。お前のレベルを聴かせてもらおうか」
「はい」

 香穂子は手にしていた楽譜を楽譜台に並べると、椅子に座り、大きく息をついた。
 木立の深い森の中を、香穂子の ややたどたどしいピアノの音が広がっていく。
*...*...*
「違う」

 俺は香穂子の手を止めると、もう一度楽譜をポインターで指し示した。
 どれだけの時間、練習していたのか。
 気がつくと、あれほど明るい日差しが溢れていた窓は、墨を塗ったように黒くなっている。

「譜面通り弾けばいいというのは真であり偽でもあるんだ。
 ここは、どういう風にピアノを歌わせるかにかかってる。
 ヴァイオリンと同じだよ。── もう一度やってごらん?」
「……はい」

 香穂子は赤くなった目をこすると、再び鍵盤に指を落とした。
 俺は懐中時計を取り出した。長針と短針は、俺たちの知らない間に大きく移動していた。
 午後9時。軽く水分は取ったものの約7時間、香穂子はピアノに向かっていることになる。

 星奏の附属大学の音楽学部は、それほど難しい実技は出題されない。
 けれど、競争相手は、それこそ幼い頃からピアノと共に生きてきた人間ばかりで。
 香穂子のように、著しく表現力がつく中高生時代に3年間もブランクがあるというのは、相当なハンデであることは確実だ。

「あ、あれ……?」

 香穂子も疲れが出てきているのか、左の薬指を鍵盤から滑らせると申し訳なさそうに俺を見上げた。
 俺はネルの布で鍵盤の汗を拭き清めると、香穂子の背に覆い被さるようにして模範演奏をする。

「このスラーを優美に続けないと、表現評価の得点にカウントされない。
 それぞれの曲に見せ場があるんだから、自分で考えて盛り上げていかないと」
「はい」

 鼻先で香穂子の髪が揺れる。
 香穂子は俺の腕が身体に当たるのを避けるように身体を小さくさせている。
 小さな両手は膝の上、頑なに握られていた。

 俺は心の中で問いかける。



(── なぜ、身体を強張らせる。どうして、俺を、遠ざける……?)
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