*...*...* Tears 2 *...*...*
 ピアノの練習が終わって。

 自分用に与えられた部屋に戻ると、私は思わず大きく息をついた。

 約8時間の練習。
 お昼過ぎにこの別荘に着いてから、すぐレッスン。
 7時に飲み物を口に含んで、またレッスン。
 その間の時間は、恋人同士という甘い雰囲気は微塵もなくて。
 学院の先生と生徒、という感じのまま、……ううん。それよりも厳しい空気の中、レッスンは淡々と進んでいった。

 夕食は食べなかったけど、気分が高揚してるからかあまり空腹は感じない、かな……。

 私は部屋の真ん中に置いてあるベッドにいったん腰掛けて、身体の弾む感触を楽しむ。
 家族旅行の時、客室に入ると真っ先にこんなことをしてよく子どもっぽいってお姉ちゃんに笑われる。
 けど、なんだろう。クセなのかな、すぐやっちゃうんだよね。

「あ、そうだ。先に、シャワー、浴びてこよう」

 私はベッドの隣りに置いてあった自分のカバンを引き寄せた。

 ここは別荘と言っても、ゲストハウスのような造りになっていて、部屋ごとに小さいけれどシャワー室が備え付けられていた。
 私はカバンの中からパジャマを取り出すと、髪の毛を一つにまとめて、浴室へ入った。

「あ、あれ……?」

 ふわりと自分の髪から柚木先輩の香りがする。
 ── 安心するような、……泣きたくなるような。

 娼婦。── 柚木先輩のお祖母さまが放ったあの言葉が消えない。

 バカバカ。いつまで、私、気にしてるつもりなんだろう……。

 私が ぎこちない態度を取ってしまうことを柚木先輩は感づいている。
 感じていながら、何も言わないで、ただ、今まで通りの優しさで包み込んでいることを知ってる。

 そこまで認めてて。
 頭では分かりすぎるほど分かってるのに、それでも、私の身体は言うことを聞いてくれない。

 さっきのレッスンのことを思い出す。
 背後から柚木先輩の身体が覆い被さるたびに、息を潜める自分がいて。
 指が触れるたびに、びくりと身体を強ばらせる自分がいる。

 そんな私の様子を柚木先輩は咎めるわけでもなく、じっと見つめていたっけ。

(嫌われちゃった、かな……)

 知らないうちに手はボディシャンプーを取り上げ、手の平いっぱいの泡を立てていた。
 耳の後ろ、首、肩、と順に載せていく。
 勢い良く流れるシャワーは、胸の隆起を伝ってあっけなく白い塊を押し流していった。

 どうしたら、いいんだろう……。
 感じる自分が娼婦みたいだと思うことで、今までのように柚木先輩のことを感じられなくなってる。
 2人きりになると、どこか身体が強ばる。

(── 抱かれることが、こわい、なんて)

 ね、……好きだけじゃ、ダメなのかな?
 気持ちはこんなに好きなままなのに、身体が共鳴しなくなると、ダメになっちゃうのかな……?
 ぼんやりと水音を響かせて私はシャワーを浴び続けた。

 シャワーの刺激は私の肩を朱く色づかせていく。
 最後にはのぼせたように身体が熱くなって、仕方なくシャワー室を出た。

 部屋のドアをノックする気配は、ない。
 寂しいような、でも、それが私に対する柚木先輩の当然の仕打ちのような気がして、私は髪の毛を乾かすことも忘れてベッドに座り込んでいた。
*...*...*
 ── いつの間に眠ってたんだろう。

 ふと目が覚めると、明るかったはずの部屋の照明は消えて、その代わり、ベッドのコーナーの小さな灯りがともされていた。
 すぐ横では、柚木先輩が静かに本を読んでいる。

「柚木先輩……」
「ああ、起きたの?」
「ごめんなさい。おやすみなさいも言いに行かないで眠ってしまったみたい……」

 眠っている間に前髪が頬を覆ったのか、それに気付いた柚木先輩はふと私に手を伸ばした。
 そして途端に固く縮こまった私の身体に気付くと、射るような眼差しで私を見据えた。

「── どうしたいの? お前は」

 パタンと本が閉じられる。

「え?」
「俺と、これから、どうしたいの?」
「先輩……」
「俺は、お前を解放してあげた方がいい?」

 私は起き上がると、柚木先輩の顔を覗き込んだ。

「先輩、どうして……?」
「俺が何も気づいてないと思ってる?」

 私は必死にかぶりを振る。── こわい。続けざまに重なる問いかけに息を呑む。

 柚木先輩の顔半分は、灯りに照らされて。すっきりとした鼻梁の半分は、暗い影に覆われている。
 とても良く見慣れた顔なのに、辺りを振り払うような神々しさを湛えている。
 周囲には重い空気が立ちこめてる。

 知ってるって分かってた。
 人一倍繊細なこの人が、私のこれほどまでのぎこちない態度を気づかないハズがないって分かってた。

 私はおそるおそる先輩の指を握りしめる。
 思えば、こうして自分から柚木先輩の身体に触れるのは桜の散る日以来かもしれない。
 柚木先輩は驚いたように眉を上げた。

「あの……。お話、させて?」

 声が震えてる。それは、ひっそりとした木立の中へ消えていった。
 私は唇を引き締めると、必死に自分の言葉を探す。

 何が何でも伝えなきゃいけないことってある。
 自分の考えた思いを。自分らしく、誠実に。
 今が、そのときなんだと思う。

 ── たとえ、これが別れの引き金になるとしても。

「私、……柚木先輩が好きです。誰よりも大切です」
「……いいよ、続けて?」
「けど、こわいんです。……柚木先輩に抱かれることが。……ううん、触れられることが」

 柚木先輩は、ずっと止めていた息を吐くかのように、長いため息をついた。

「気持ちいいって感じるたびに、思い出すの。柚木先輩のお祖母さまの言葉を。
 ── 娼婦みたいだ、って。ふしだらだ、って……。考えちゃダメだって、思っても、考えちゃうんです」

 好きな2人ならいつかは行き着く、抱きしめ合うという行為。
 それができない、って思う私は、もう柚木先輩と、ううん、男の人と付き合う資格がないような気がする。
 柚木先輩も、こんな、触れるたびに身体を硬くする女の子なんてイヤだよね。

 ── ごめんなさい。

 心の中にくっきりとこの6文字が浮かんでくる。
 思えば、謝るための言葉を、私は数多くは知らないことに気付く。

 ごめん。ごめんね。ごめんなさい。

 けれど、この言葉じゃ足りないほどの『謝罪』の気持ちを伝えるにはどうしたらいいのかな……?
 目には見えない音楽と同じで、謝るための言葉を探しに、私はこれから1人で歩き出すのかな。

 私は握っていた指をゆっくりと解いた。

「ごめんなさい。── それと、ありがとう……」

 嗚咽をこらえて、頭を下げる。
 もっと私、強い人間になりたかった。
 相手の言葉を逆手に取るくらい。笑い飛ばせるくらい。

 涙で視界が大きく揺れた。
 目の前にいるはずの柚木先輩の面輪も斜めに傾いで見えなくなる。
 もう、柚木先輩の顔をこんなに近くで見ることはないのかもしれない。

 私は、涙を振り払うと、先輩の顔を網膜に焼き付ける思いで、もう一度見つめた。
 苦々しく寄せられた愁眉が目に入る。

 そうだよね。
 自分に抱かれることがこわい。イヤだ、って告げる女の子を、好きになる男の人なんていないもん。
 みぞおちが熱い鉄の液体を入れられたみたいに痛い。
 私は柚木先輩の横をすり抜け、ベッドから降りた。

 ……顔、洗ってこよう。
 そしてテーブルを隔てて、座って。
 ── 明け方までは笑顔で楽しい話をするんだ。

 ちょうど1年前に柚木先輩に出会って。
 春のコンクール。夏休み。たくさん笑った秋。本当に音楽が好きになった冬のコンサート。
 楽しい思い出は、今も私の中にある。

 それで、……それで。朝までいっぱい柚木先輩に笑ってもらおう。
 できるかな、私に。
 ううん、しなきゃいけない。
 最後ぐらいは笑って、昨日のピアノレッスンのこともいつか振り返ったら楽しい思い出になるように。

「……!? や……っ」

 不意に後ろ手を引かれる。背後から大きな胸が私を囲う。
 びくりと固まった私の身体。大きな手が頭を包みこんだ。

「── 悪かった」
「はい……?」
「あの日、お前を一人にして悪かった」
「柚木先輩……」
「解放してあげた方が……、なんて言葉、自分でも呆れるぜ。
 ── お前を解放できないのは俺の方だ」

 さらりと豊かな髪が落ちてくる。
 無意識のうちに震え出す私の肩をも抱きかかえる強い腕に、また私は泣きたくなった。


「悪いけど、俺がお前を離さないよ。── お前がどれだけイヤだと言っても、ね?」
↑Top
←Back
Next→(次は裏ですv)