*...*...* Blessing 1 *...*...*
 音楽科に転科して8ヶ月。3年生になって2ヶ月が過ぎた、6月。
 音楽科の教室の窓から見える四角い空は、どんよりと重みを増している。
 最近の帰りのSHRはあっさりしたもので、先生は教室中に目を遣ると、最後はにっこり笑ってこう言う。

「みなさん? 自分の今すべき事は自分が一番良くわかっているでしょう?
 だからそれに向かって進んで下さいね。以上です」

 確かに、3年生になると、周囲の目の色も違う。
 外部進学。内部進学。ソリストを目指す人。教員を目指す人。迷ってる人。
 以前は、単純に気が合う、だとか、同じ楽器だから、ということでグループを組んでいた級友も、今は、それぞれの目的に合った仲間たちと情報交換をしていることも多いみたい。

 リリに会って、ヴァイオリンに会って。
 ヴァイオリンが大好きになって、音楽科へ転科して。
 毎日ヴァイオリンに触れられる。
 ヴァイオリンを練習することで、少しでも好きな人に近づける。
 思えばそればっかりで、学院を卒業したらどうしよう、とか、進路、ということについて私はあまり考えていなかったと思う。

 ── 私は、この先、ヴァイオリンと一緒に、どうしたいんだろ。

「雨、降るかなあ?」

 ため息をつきながらそう呟くと、同じヴァイオリン専攻の美咲ちゃんが振り返って声をかけてくれた。

「香穂、ちゃんと置き傘用意してる? まあ、ヴァイオリンケースに防水カバーかければヴァイオリンには影響ないけど」
「うん。ありがと。2つともばっちり用意してあるよ?」
「そう? 今日は香穂、練習室予約してあったんだっけ? 実技試験も近いし、頑張ろうね」
「うん。あれ? 美咲ちゃんは?」
「今日は個人レッスンの日。あの先生時間にうるさいからもう行かなきゃ。じゃあね、香穂」
「あ、うん。じゃあまた明日ね!」

 私は一旦立ち上がって美咲ちゃんを教室のドアまで見送ると、再び席に戻った。
 教室は閑散としていて、私の他には2、3人の男子生徒が楽器の手入れをしたり、楽典を広げていたりする。
 この天気だもの。特に予定のない人は早目に帰ったのかもしれない。

 私は楽譜を広げると、また息をついた。

 最近の柚木先輩は心なしか元気がないように見える。
 大学という新しい環境で自分を馴染ませていくのに、あの器用な人もやっぱり大変なのかもしれない。
 それに── 。

(余計な心配をかけちゃった、よね)

 春に柚木先輩の自宅に行ってから。
 ううん。それは単なるきっかけに過ぎないのかもしれないけど。
 春の日からの私の変化に、柚木先輩はどこか心配げな表情をして私を見ていることがある。

 私の中には、かなり大きな比重で、自分を責める気持ちも浮かんでくる。

(抱かれるのが怖い)

 そう告げたときの柚木先輩の傷ついたような顔は今でも私の中に浮かんでくる。
 ── こんなに心配をかけるなら。
 事実を柚木先輩に告げるより、時間がいつか、どんな傷も癒してくれるって、自分でそっと包んでおいた方が良かったのかもしれない。

 どんなに譜面を追っていても、メロディは頭に入ってきてくれない。
 半分投げやりな気持ちで、譜面の上に頭を預けてる私に、クラスメイトは声をかけていく。

「じゃあ、日野。俺、もう帰るわ。お先!」
「あ、内田くんもお疲れさま。また明日ね」
「日野もあんまり無理するなよ〜」
「うん。ありがとうね」

 内田くんの背中は、彼の声同様、いつもに増して力がみなぎってるみたい。
 そうだよね。もう、受験まであと少し、だもの。
 ── うう、今は音楽に集中しなくちゃいけないのに!

 と、そのとき、内田くんが出て行ったドアから、ひょっこりと見覚えのある顔が覗き込んだ。

「あれ? 香穂、まだいたの?」
「天羽ちゃん?」
「私は取材帰りだけどさ。もしかして香穂いるかなーって覗き込んだら、予想通り机に突っ伏してたってわけ。
 どうよ? 最近」
「うん……。相変わらず、ヴァイオリン三昧。あ、あとね、ピアノのレッスンも始めたの」
「頑張ってるじゃない。さすが音楽科に転科しただけのことあるね」
「ん。あのね、大学も音楽学部に行きたいと思ったらね、ピアノの練習も必須なの」

 そうだ。あのピアノレッスンがあった週末も。
 ── 何度もいたわるように抱きしめてくれたことを覚えてる。
 優しかった、な……。
 私、ちゃんと、柚木先輩にしてもらった分を柚木先輩にお返し、できてるのかな。

「うーん……」
「なに香穂。ため息ばかりついて」

 天羽ちゃんは私の様子に何か思うところがあったのだろう。
 素早く私の席の隣りに座ると、首にかけていたカメラを大事そうに机に置いた。

「ん、あのね。もうすぐ柚木先輩の誕生日なの。なのに、いい考えが浮かばなくて……。
 どうしたら柚木先輩、喜んでくれるかなあ、と思って。
 ── その。あのね、ちょっとこの頃、疲れてるような気がして」

 おめでとう、と、ありがとう、と。
 同じ時代に生まれたことに、ありがとう。
 出会えるほどに近くにいてくれたことに、ありがとう。
 日頃、言おうと思えば難なく言えそうな言葉。
 照れくささを押しのけて、堂々と言える、特別な日。── 誕生日。

 柚木先輩は自分の通っている大学の様子を教えてくれたことはない。
 細やかな人だから、きっと私の今の状態を見て、余計な心配をかけまいとしてくれてるんだろうと思う。

 そうなら、なおさら、ちゃんとお礼を言いたいな、と思う。
 なにか記念になるモノも一緒に添えて。

 天羽ちゃんは私の隣りの席に腰を降ろすと、明るい口調で切り出した。

「ま、ベタに言えば、何か欲しがっているモノを贈る、とか、
 一緒の時間を過ごす、とか? 大体、恋人ってそういうイベントのためにいるんだからさ」
「だって、悔しいんだもの、それだけじゃ」
「って? 香穂……」
「いつもしてもらうばっかりだから、私」

 そう……。
 ずっと思っていた。
 なにかプレゼントしようと思っても、高3に進級してからの私は、ヴァイオリンヴァイオリンの毎日で、バイトもできないから。
 それに、彼の審美眼に適うもの、って到底私には手が出ないモノばかりな気がする。
 きっと一緒に過ごしたとしても、どっちが誕生日を祝ってもらってるかわからない状態になりそう、で。

 天羽ちゃんは大きな目を優しく細めて私を見ている。
 な、なんだろう、私、なにか恥ずかしいこと、言ったかな?

「まあ、ごちそうさま、というかなんというか。幸せそうで何よりだよ。
 経済格差、っていうの? 普通学生同士のカップリングの場合、そんなに差はないはずなのにね。
 香穂のところは特別なのかも」
「経済格差?」
「そう。まあ、香穂の場合、柚木先輩の方がリッチ、であんたが普通、ってことでちょうど良かったじゃない。
 逆だと悲惨だよ〜。アネキ見てて、思うもんね」
「悲惨、なの?」

 逆、ってなんのことだろう。
 逆、だから……。天羽ちゃんのお姉さんと彼氏さんは、お姉さんの方がリッチ、ってこと?

「そう、アネキのところ、カレシさんが売れない俳優さん志望、とかでね。
 どんな支払いもアネキ持ち、となるといろいろ考えるところ、あるみたいよ?」
「そうなんだ……」

 並はずれた審美眼を持っている彼には何を贈っても、しっくりこない。
 一応、柚木先輩の大好きなファーストフラッシュの紅茶はもう準備してある。
 けれど……。んー、なにか、なにか、足りないような気がするんだよね。

「どうしたらいいのかなあ……」

 顔をしかめてため息ばかりついている私に、天羽ちゃんは指を鳴らした。

「そりゃ、柚木先輩が喜ぶっていったら、香穂がリボンをつけていくことじゃないの?」
「はい? リボン?」
「あ、それは、もうデフォ、ってことか。ごめんごめん」
「???」

 プレゼントのイメージ、って私の中では白い小箱に真っ赤なリボンがついているそれだったりする。
 しゅるりとリボンの端を引っ張る。すると殆ど力を入れてなくても結び目は砂糖菓子みたいに解けていく。
 そして、中身が少しずつ顔を出して……。驚きと期待に満ちた視線の中、愛おしさを持って抱き上げる。
 ……それって……。

「あ……」

 天羽ちゃんの言っている『リボン』の意味を理解するのと同時に、頬が赤くなってきたのがわかる。

「ふふーん。ようやく分かった? 『リボン』の意味」
「え、えーっと、あの、天羽ちゃんはどうなの?そういえばあまり男の人のウワサって聞いたことないかも」

 朱い頬を隠すためにわざとらしく手をひらひらさせて私は聞き返す。
 うん、いいもん。言われた分はお返しだもんね。

「んー。まあね。私の場合は耳年増、っていうの?
 文化祭のワルツみたいにさ、いろんな人の取材ばっかりしてて、なかなか自分のことに手が回ってないんだ」
「ううん? そんな」
「それに男の人も、もし自分が私の彼氏になったら、いろんなこと書かれちゃう、って思うんじゃない?
 立候補者は皆無、だね」
「── それって、冬海ちゃんと一緒で、天羽ちゃんが気付いてないだけ、なんじゃないのかな?」

 さばさばした性格で統率力もある天羽ちゃんには、いつも報道部の後輩くんたちがまとわりついている。
 好きな人に好かれたい。そんな気持ちって誰にでもあると思う。
 そういう気持ちっていうのは周囲の人間まで優しく巻き込んでいくんだろう。
 最近、報道部の後輩くんは、私の顔を見ると照れくさそうな笑いを浮かべて会釈をしてくれるようになっていた。

 付き合うとか、付き合わないとかいう問題じゃなくて、天羽ちゃんがいい人に囲まれてるんだ。
 そう思うと、見てる私の方まで嬉しくなってくるもん。

 天羽ちゃんは、口先を尖らせてカメラのレンズを弄っている。

「ん? どうしたの? 天羽ちゃん」
「プレゼント……。プレゼント、ねぇ」

 あ、この顔、よく見かけたことがある。
 なんだろう。考え込むときの彼女のクセ、なのかな。
 数分こうしてた後、ひらめくように顔を挙げてペンを走らせる横顔が、私、大好きだったから。

「ごめんね。私、プレゼントのこと、もう少し考えてみる。先輩の好きそうなお菓子作ってもいいし」
「そうだ。私にいいアイデアがあるよ。そうだ。私って賢い! あんたはもっとおおらかに構えていなよ」
「はい?」
「くぅ、私ってばなんでこんなことに気付かなかったんだろ。
 あ、今日、月曜だよね。音楽室かな? ちょっと私、行ってくる!」
「音楽室? う、うん。行ってらっしゃい」
「あんたも練習室、もう時間じゃないの? さあ、行った行った。練習、頑張っておいで」


 天羽ちゃんは愛用のカメラを首に下げると、勢いよく教室を飛び出していった。
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