『明日の放課後、ヴァイオリン持って、音楽室に来てね。
 いい? 必ず予定を空けておくように!』

 日付が変わろうとする時間に、天羽ちゃんから1通のメールが届いた。
*...*...* Blessing 2 *...*...*
 放課後が始まるチャイムを背中に、急いで音楽室へ向かう。
 予定が入った日に限って、SHRは長くなるような気がする。
 この日、みんなに配布された資料は、夏休み中に開催されるコンクールの案内一覧だった。
 自分の演奏の価値を対外的に評価されるのって、自信にも繋がるし、逆に実力と結果とのギャップに落ち込んじゃうこともありそうな気がする。

 それにしても、なんだろう。ヴァイオリンを持って、って……。
 昨日の天羽ちゃんを思い出す。
 良いアイデアが浮かんだ、って言って。月曜日だから、って言って。── うーん、なんだろ。

「香穂、こっちこっち!」

 音楽室に入って声のする方を振り向くと、天羽ちゃんはステージの上で大きく手を振っていた。
 音楽室って天羽ちゃんの普通科の教室から、かなり遠い。
 天羽ちゃん、いったい いつ、教室を飛び出してきたんだろう。
 これでも私、1番に教室を飛び出してきたと思っていたのに。

「どうしたの? 天羽ちゃん、突然昨日メールくれるんだもの」
「ふふーん。この天羽菜美、親友のために一肌脱ぐことにしたんだ」
「ん……。ありがとう。でも、ごめんね、全然分からないかも。なあに?」
「あーー! お二人さん、こっちこっち〜〜」

 天羽ちゃんは知り合いでも見つけたのか、入り口の方を向くと大きく手を振っている。
 って、誰、だろう……?
 振り返ると、白い制服の中、鮮やかなオレンジ色のシャツが飛び込んできた。
 後ろに見え隠れしている柔らかい若草色のシャツも、音楽科の制服とは違う。……あれは。

「やあ、天羽ちゃん、今日はお誘いありがとね!」
「天羽さん。突然の話で驚いたけど、嬉しかったよ。楽しい音楽会にしようね」
「火原先輩、王崎先輩……?」

 2人は階段状になっているスロープをリズミカルに降りてくると、私を見て笑った。

「日野さん。良いアイデアだね。柚木くんの誕生日に小さなミニコンサートをプレゼント、って」
「しかもサプライズなんてさ。おれ、柚木の驚く顔ってあんまり見たことないんだよねー。すっごく楽しみ」
「え? ええ??」

 ワケが分からなくなって天羽ちゃんを見上げると、天羽ちゃんは私の肩を掴んで深く頷いた。

「いろいろ悩んでたみたいだけどさ。
 あんたにはあんたしかできないことってあるでしょ? それをプレゼントしたらどうかなって思ったんだ。
 正味あと4日しかないから、頑張って。
 あ、当日は私もこのイベントに1枚噛んだってことで、聴衆の1人に加えてね。
 じゃあ私の仕事はここまで。あとは、3人で頑張って下さいね!」
「うん! ありがとね、天羽ちゃん」

 あっという間に、あいだを取り持ってくれた天羽ちゃんは姿を消して。
 私はちょっとだけ久しぶりな人たちの中に残される。
 あ、でも、どうしてだろう。
 ── 火原先輩。王崎先輩。
 この2人と一緒にいると、気負い、とか緊張、とかが、いつの間にかなくなってしまう。
 音楽のことをとても好きなこの人たちとは、余計な言葉は要らないのかも知れない。

 王崎先輩は、いつもの優しい笑顔を浮かべると、手にしていた荷物を机の上に置いた。

「あまり時間がないからねえ。まずは日野さん。曲を早く決めようか。
 あ、おれは今回はヴィオラで参加するよ。その方が日野さんのヴァイオリンが引き立つでしょう?」
「って、待って下さい。あの……。どうして……?」

 私は王崎先輩の顔を見上げた。
 火原先輩は、柚木先輩の親友、だから、柚木先輩の誕生日のお祝いに乗ってくれるのは自分の中ですとんと納得がいく、として。
 どうして、王崎先輩も、協力してくれるんだろう。
 あまり柚木先輩の口から王崎先輩のお話って聞いたことがないのに。

 王崎先輩は私の疑問をふわりと包み込むように笑う。

「どんな人だって、音楽を楽しんでくれるはずだよね。
 ── 今、音楽の道を歩んでいる人も、そうでない人も」
「王崎先輩……」
「あれだけ素晴らしい演奏をする人なんだから、彼もきっと分かってくれるよ。
 俺たちの音色に含まれてる意味。── おめでとう、っていう言葉をね。
 おれはね。聴いてる人が喜んでくれる音楽を作りたい。ずっとそう思っているんだ」

 火原先輩も隣で大きく頷いている。

「いろいろ考えたんだけどさ、ヴァイオリンとヴィオラには、ピアノが欲しいかな、と思って。
 だから今回は、おれピアノで参加するよ。ほら大学行ってもピアノは必修だからね。
 おれ、土浦には敵わないけど、柚木のお祝い、ってことなら頑張るからさ」
*...*...*
 帰り道。
 昨日までの雨はすっかり止んで、空のてっぺんは夏の始まりのような濃い青が覗いている。
 それは西の空へ向かうにつれ、だんだんオレンジ色の夕焼けに飲み込まれていった。

「たくさん練習しましたね」
「そうだね! ちょっと疲れたけど、おれ、すっごく楽しかった」

 隣りにいる火原先輩は屈託のない表情で笑っている。
 人工の光じゃ作ることのできない 薄ぼんやりとした光の中、火原先輩の面輪は元気というパワーで輝いている。

「今日は遅くまでありがとうございました。
 火原先輩のピアノって初めて聞きました。すごく上手です。びっくりしました」

 いくらピアノ専科じゃない、とはいっても。
 音楽の素養はピアノにある、と言われるように、学院の入学試験にも、そして大学の入学試験にも、ピアノの実技が科せられる。
 だから、火原先輩がピアノを弾けない、とは思わなかったけど。
 初めてしっかりと聞いた火原先輩のピアノは、火原先輩のトランペット同様、すごく元気いっぱいの音色だった。

 思えば、月森くんや柚木先輩のように、ピアノの実力がすごいというウワサを聞いたことがなかったから、火原先輩とピアノ、っていう取り合わせ、今まで考えたこともなかったっけ……。

「いやー。おれ、ホント、ピアノ苦手なんだー。どうして受かったんだろ、って七不思議になってるほど。
 トランペット思い切り吹く方が、疲れないなー」
「ううん。とても素敵でした。火原先輩のトランペットがピアノになるとこうなるのかなあ、っていう感じの。
 元気いっぱいの音で、嬉しかったです」
「そう? ありがとう!」

 火原先輩は、私との距離が開いたのに気付くと、歩幅を狭くしてゆっくりと私の隣りを歩いてくれる。
 そして自分に言い聞かせるような口調で話し始めた。

「聞いてる人を元気にしたい。それがおれの音楽なんだ、って思うよ。
 大学に行った今も、その気持ちは変わらない」
「はい」
「香穂ちゃんもさ、柚木の音楽、いっぱい耳にしてきたと思うけど。
 おれは3年間、ずっと柚木の音楽 聴いてきたんだよね。
 練習室が取れないときは一緒に練習したりして、さ」

 火原先輩の影がシルエットになって、綺麗な横顔を見せている。
 大きく喉が動いた、と思ったら、そこからいつもより暗い声が紡がれた。

「それで思ったんだ。王崎先輩じゃないけど、音楽は演奏者そのものの性格が出るって。
 柚木の音は優しいよ。最初聴いたときは上手すぎて、上手いことしかわからなかったけど」

 火原先輩は悔しそうに頬をゆがめている。
 どうして? どうして、そんな顔をするんだろう……。

「おれね、柚木の技術の裏にね、柚木がどれだけ音楽を大事にしてきたかっていうの、感じてたんだ。
 ── だから、辛かったと思うよ。柚木が音楽を辞めたの」

 私は立ち止まって火原先輩を見上げた。
 夜7時を過ぎても、帰り道はどこか明るい。
 今日最後の夕焼けが彩った火原先輩の髪は、いつもにましてさらさらと明るさを増している。

「知ってたからね。あいつがどれだけ音楽を愛してきたか」

 鈍い痛みと共に、火原先輩の言葉が頭の中でリフレインする。
 ── 分からなかった。
 さも当然のように、第一志望の大学に合格して、当然のように進学して。
『柚木の家のレールから逃れるわけにはいかないよ』
 そう皮肉そうに笑ってた口元は今も思い出せる。
 なのに、その裏にある、柚木先輩の葛藤にはまるで気づくことがなかった。

 私が今、当たり前のように過ごしているヴァイオリンとの毎日。
 楽典、音楽史。音楽とともにある生活。
 会ったときには、音楽の話をして。足りないところは助言をくれて。

 けれど、自分は音楽とはもう隔てられた道に立っている。

 ── それでもなお、私を遠くで見守ってくれる人。

「私……」

 どうして、一瞬でも、好きでいることが辛いと思ったんだろう。
 続けていくことが怖いと感じたんだろう。
 柚木先輩がいてくれたから、私は音楽の道に進んで、今こうしてここにいるのに。

 滲んだ視界をごまかすように横を向く。
 火原先輩は私の屈託に気付くことなく、2、3歩先に進むと私を振り返ってガッツポーズを見せた。

「だからさ、金曜日は一緒に頑張ろうね。
 あー、おれ、柚木に言いたくて仕方ないや。楽しいことって黙ってるのってツラいよね」
「あ……。分かります。私もです。お話したくてそわそわしちゃいますよね?」
「そうそう、ってヤバイよ、おれ。ピアノ本当に苦手なのに。
 あー、家 帰ってから練習しよ。兄貴にうるさいって叱られても!」

 大げさにしかめっ面をしてる火原先輩は、まるで年下の男の子のようで、私は声を上げて笑った。
 なんだか久しぶりにこんな風に心の底から笑顔が生まれた気がする。
 吐いた息の分だけ、大きく息を吸い込む。
 雨降りじゃない6月の夕焼けは、どこまでも夏のように高い。

「私もお兄ちゃんいるからわかります。お兄ちゃんって横暴なところありますよね?」
「そうそう。たまたまちょっと年上に生まれただけなのにさ。
 弟や妹は、自分の言うことに絶対服従、って思ってるよね」
「あはは!」

 ヴァイオリンケースを持つ指に力が入る。
 19年前、柚木先輩の生まれた日、先輩の目にはどんな空色が映っていたのかな。

 深い紫がきれいなグラデーションを見せながら暗くなっていく空を見て思う。



 『ありがとう』と『おめでとう』と。
 柚木先輩の誕生日には、私が持っている全ての気持ちを伝えられますように。
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