*...*...* Blessing 3 *...*...*
 週末。俺は在学中と変わらないスケジュールで、星奏の正門を車でくぐった。
 卒業してからも、こうして香穂子と音楽を中心に会う日がある。それは毎週金曜日の放課後だった。
 香穂子は高3になってから本格的にヴァイオリンの先生についたが、それも週に1度のことで。
 あいつの家には防音設備がない。そのため、ほとんどの時間を学院のどこかで練習をして過ごしている。

(疲れた、な)

 俺は車を降りるとまっすぐに練習室へ向かう。
 学院を出て、少しはまともな輩に出会えるかと思っていたが。
 やはり、大学に行っても、人の入れ物に惑わされて群がってくる連中はいる。

 俺の、音楽科を出て、経済の道を選択するという進路は珍しいのだろう。
 今日も同じゼミを取っている女が根掘り葉掘りと俺のことを聞いてきた。
 適当にあしらっておいたが、自分に自信がある人間ほど、しつこく食らいついてくる。
 ── 全く、やりきれないね。

 練習室の扉をノックしようとして、俺は中の様子がいつもと違うのに気づいた。
 人の話し声がする。
 なんだ……? 香穂子1人ではない、ってことか。

「よーっしと。隣りの練習室から椅子、2脚借りて来ちゃった。主役用と私用。置く場所、ここでいいかな」
「天羽さん、さすが気が利くねえ」
「王崎先輩。私、もう1度、音合わせしたくなってきました。もう、時間的に無理かな……?」
「ダメだよ。ここで柚木が来たら聞こえちゃうじゃん。サプライズにしたいんでしょ?」
「でも、4日で1曲、トリオで仕上げるのって初めてで。不安です。大丈夫かな」
「大丈夫だよ。香穂ちゃん。おれが太鼓判押してあげるって」

 この声は、火原、か?
 元気そうなのはいいが、相変わらず、声が大きい。サプライズ? 俺の、か?
 もう一人は天羽さんと、あと一人は誰だ?

 俺は少しだけノックする手を止めたまま、思案に暮れる。

「大丈夫だよ。日野さん。短い時間だったけど集中して練習したから。
 ── きみはまた上手になったね。やっぱり聴かせたい相手がいると違う、ってところかな?」
「……ありがとうございます。自分では良くわからないんですけど……」

 この声は王崎先輩、か。なるほど、ね。王崎先輩もこの部屋にいるってことか。
 香穂子、火原、王崎先輩に天羽さん。練習室にいるのはこの4人、か。

 俺の、サプライズ。
 香穂子の、聴かせたい相手。
 ふぅん。なるほどね。そういうことか。
 ── けれど、ここは、何も気づいてない主役を演じておいた方がいいのかもしれないね。

 俺は、笑みが浮かびそうになる頬を引き締めると、そっとドアを開けた。

「こんにちは。みんなそろってどうしたの?」
「やあ、柚木くん、こんにちは。小さな演奏会にようこそ」
「王崎先輩、これは?」
「ああ。今日は君の誕生日、なんだってね。よかったら、おれたちも一緒にお祝いをさせて欲しくてね」

 王崎先輩は、いつもの柔和な笑顔で俺に微笑みかけてた。
 その背後にいる火原は自慢げにピアノペダルを踏んでいる。

「へへっ。見て見て、柚木。じゃーん」
「火原? 君がピアノをやるの?」
「そうなんだよ! ピアノは入試だけでおしまいって思ってたのに、
 大学入ってからもピアノの授業はあるんだよ。おかげで少しは上手になったよ」

 王崎先輩は、スコアを譜面台に載せると、紙面を安定させるかのように撫で上げた。
 ああ、この人はこういう人だったな。
 いつも、誰に対しても優しい。いや、どんなモノに対しても。

「おれは、今日はヴィオラにしたんだ。日野さんのヴァイオリンを引き立ててあげたくてね。
 原曲編成はヴァイオリンが3本なんだけど、こぢんまりとした雰囲気を大切にしたくて」

 見ると香穂子は王崎先輩と火原の背中に隠れている。
 すらりとした脚とスカートだけがちらちらと見える。
 ヴァイオリンを持つ指は頑なに握られているのだろう、爪の先が白く色を失っている。

 天羽さんは今が頃合いと感じたのか、香穂子の手を引っ張ってくると、全員の顔が見えるような小さな円を作って周囲を見回した。

「えーっと、では。僭越ながら私、天羽菜美が音頭を取らせてもらいます。
 柚木先輩、誕生日、── せーっの」
「おめでとうございまーす!」
「おめでとうございます」
「おめでとう、柚木くん」
「おめでと、柚木」

 4人の手が作る拍手が練習室中に広がる。
 こぢんまりとして、ささやかで。
 けれど、4人が作る拍手は、演奏の後のホールを揺るがす喝采と同じくらいの、沸き上がる感情を俺に抱かせた。

「ありがとう。みんな。ありがとうございます、王崎先輩」

 今日が誕生日だとは知っていた。
 けれど、平日ということもあって、だったら、週末香穂子を連れ出せばいいかと思っていたが。
 俺は順番にみんなと目を合わせながら、最後に香穂子を見つめた。
 優しい目で見つめ返される。
 潤んだ瞳がもう少しで溢れそうになるのを見て、俺は首を横に振った。

 泣くんじゃないよ。── まだ、演奏前だろう?

 天羽さんは香穂子の肩を抱いて、茶化すように言った。

「全く、香穂、いじけてたんですよ。プレゼントなかなかいいのが見つからない、って。
 買おうにも今、ヴァイオリンばっかりしててバイトしてないから買えない、って」
「わわ、天羽ちゃん! それは内緒だよーー」
「ふふ、そうだったの? 香穂子」
「えっと……。はい。そうですね」

 香穂子はよほど恥ずかしかったのだろう。口を尖らせて、天羽さんになにかしら目で訴えている。

「で、私が企画したんです。題して、『柚木先輩 誕生日おめでとう』会」
「それに追加して、『音楽で柚木を元気にしよう』会もね」
「火原?」

 1ヶ月ぶりに見る火原は、暖かそうな微笑を浮かべて俺のことを見つめた。

「元気そうでよかったよ。ホントに」
「どうしたの、一体」
「柚木が元気なら、いいんだ。── うん、それだけ! よし、じゃあ、っと。柚木はここに座って」

 王崎先輩は真剣な面持ちになるとヴィオラを肩に乗せた。

「じゃあ、始めようか。曲はね、日野さんの好みでね、パッヘルベルのカノンにしたよ」
「はい」

 パッヘルベルのカノン。
 同じメロディが一定の時間をおいて、どんどん追いかけてくる、もっともシンプルなカノン形式の小品か。
 調弦に必要な音階がまんべんなく入っていることもあって、香穂子が何度も繰り返し奏でていた曲だ。
 以前、フルートとも合わせたことがあった。── あれはもうずいぶん昔のことのように感じる。

 俺が、音楽から、離れていったから。

「……頑張ってましたよ。香穂」

 隣りに座った天羽さんが小声で俺に耳打ちした。
 柑橘系の匂いがする。。
 それは はきはきとした口調の彼女にとてもしっくりしていた。

「そう?」
「どうしたら柚木先輩に喜んでもらえるかな、なんて言ってるの聞いて、
 私がこのメンバー、勝手にセッティングしちゃったんですけどね」

 香穂子は自分と王崎先輩の譜面台を準備すると、心持ち脚を開いた。
 そして、王崎先輩と目を合わせると、振り返って、火原のピアノを仰ぐ。
 なるほどね。ピアノがBassの役目をするのか。

 俺は目を閉じて、3人が生み出す音を聴く構えを作った。
*...*...*
「あ、そうだ、みんな。まだカフェテリアってやってるかな。
 今日の演奏のお礼に、みんなに飲み物でもご馳走するよ。さ、行こう?」
「え? 本当ですか? やった〜。じゃあ、急いで行かないと、っと〜。
 火原先輩、デザートの新作もう食べました?」
「え? なに? 天羽ちゃん。おれ知らないよ。まだ残ってるかな?」

 王崎先輩は俺たちに軽く目配せをすると、火原と天羽さんの背を押して音楽室を後にする。

「日野さんたちもあとからおいで。待ってるから」

 さっきまで広がっていた優しい音色と、その後に続いていた喧噪はもうない。
 窓の外に広がる夕焼けはオレンジ色の影を長く作って、グランドを走っている人の存在を大きく見せている。

 いつもは2人で使っている練習室も、さっきまでいた3人が急にいなくなったからだろう。
 妙に閑散としている。
 2人の距離を詰めようと、俺は1歩脚を前に踏み出す。
 そんな俺を香穂子は手で止めると、かしこまって俺の前に立った。

「柚木先輩」
「なに?」
「あの……。私からもう一度、改めて。── 誕生日、おめでとうございます。
 それと、ありがとうございます。たくさん」
「たくさんって?」
「今まで私にしてくれたこと、全部です」
「どうしたの? いきなり」

 後輩で。音楽的に未熟で。女で、弱くて。
 いつも、俺が、守って、導いていく存在。
 ずっとそう思って見てきた。
 なのに今日の香穂子は違う。
 もう、俺の支えなど必要ない。自分自身の脚で立っている。

 香穂子は嬉しそうに話し続けた。

「違うんですね。私が見てる柚木先輩と、火原先輩が思う、柚木先輩。王崎先輩から見た柚木先輩も。
 みんなに大事に思われてる柚木先輩を知って、すごく嬉しかったし、その……」
「香穂子?」
「私も柚木先輩のいろんな気持ちに気づくようになりたい、って、そう思いました」

 火原が弾き終えたグランドピアノは、時間の止まった廃墟のように広げられたままになっている。
 香穂子はそれに気づくと、丁寧に鍵盤を拭いて、カバーをかけていった。

「私たちもそろそろカフェテリアに行きましょうか? みんな、待ってますよ」

 音楽に携われない不安、不満。
 行きたい進路に迷うことなく進む、周囲の人間。
 それを見ている自分に浮かぶ葛藤。

 でも、香穂子を感じて。香穂子を通してなら。
 ── 俺はこれからもずっと音楽と繋がって生きていくこともできるだろう。

 守っているように見えて、実は守られてる。
 お前の存在に、助けられてる。
 俺は、背後から白い肩に手をかける。
 そして振り返る間も与えずそのまま腕に力を込めた。



「どうしてお前はそうやって、俺を俺じゃなくしていくんだろうね」
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