「梓馬さん。明日、久しぶりに簡単なお点前をしようと思うのですよ。
 昼下がりの適当な時間は取れますか?」
「はい?」

 大学を卒業して、大学院への手続きも滞りなくすんだ、早春。
 お祖母さまから珍しく、茶事への誘いを受けた。
 顔を上げると、銀髪の下、涼しやかな双眼がこちらを向いている。

 歳を重ねられてもなお、宗家の重鎮として、日々多忙な時間を過ごしている祖母が、
 何かの気まぐれに茶を点てるなど、合点がいかない。
 ── なにか、思惑があるのだろうか。

 俺の態度に煮え切らないものを感じたのか、お祖母さまはやや早口になって、問いただしてくる。

「いかがですの? 明日は日曜。取り立ててご用もないと聞いていますが」
「よろしいですね。亭主はお祖母さま、ということでしょうか?」

 誘いを受けたからには、お祖母さまが『亭主』ということなのだろうか。
 いや、このざわめいた春の空気の中、俺が『亭主』をするのも、気分が変わっていいかもしれない。

 お祖母さまは、ふと考え込んだ後、きっぱりとした口調で言った。

「そうですね。わたくしがした方がよろしいでしょう。あなたは客人、ということで対処なさい」
「わかりました。客人は何人でしょうか?」

 客人の人数によって使う部屋も異なる。
 この季節なら梅が盛りの離れが適当か。でもあそこは、多くて客人は3人までだ。

「梅の離れはいかがです? 客人はあなたお1人ですから」

 お婆さまは俺の考えを察したように場所を指定すると、その場を後にした。
*...*...* Corda 01 *...*...*
 柔らかな日差しが、障子を経てさらに細かな粒子になる、3月の昼下がり。
 祖母の着衣を考えて、俺もごわりとした紬の丹前を着流して祖母の隣りに端座した。
 茶室はいつものことながら、静謐と一緒にかすかな隙間風を連れてくる。
 お祖母さまは、お気に入りの棗と茶入れを前に、満足そうな笑みを浮かべて、俺の前に茶器を寄越した。

「拝見します」

 指先を伸ばして、茶器を見る。
 濃い枯れ色の茶器は、陶器かと思えば、意外にも軽い。……漆器か。
 ということは、中身は薄茶なのか。
 ── 意外だな。普通、早春のこの時期には、陶器で濃茶を勧めることがほとんどなのに。

「結構なお点前でした。ありがとう存じます」

 俺は、作法通り、数回で飲み干し、お祖母さまに向かって一礼した。
 小さい頃から こういう和風の生活に慣れているせいか、落ち着いた和室というのは身が引き締まる。
 お祖母さまは俺の様子を目を細めて見ている。

「梓馬さん。いよいよ大学も卒業。あと2年は、大学院での総仕上げのお年になりましたね。
 修士論文のテーマは決まりましたの?」
「ええ。古典芸術の中に置ける経営学について、より深く掘り下げていこうと考えています。
 これなら、柚木の家の事業にも、そのまま使える題材になりますし」

 お祖母さまは満足そうに頷くと、口元を引き締めた。

「それは結構ですこと。なんと言っても、あなたは柚木家の三男なのです。
 長兄次兄を超える能力は必要ない、と申し上げても過言ではありません。
 先例を重んじ、年長者を重んじ、今できることをそつなくこなせば良いのです。……おわかりですね」
「はい」
「それで、です」

 お祖母さまはそこで一旦言葉を切った。

「見聞を広げるため、語学を習得するためにも、あなたに1度留学を勧めようと思っています」
「留学? なにを学べとおっしゃるのでしょう?」
「良い機会だからですよ。梓馬さん」

 さっき飲み込んだ、薄茶の香りが鼻につく。
 なるほど。配慮なのか、思いやりなのかわからないが。
 さっきの俺がもし濃茶を飲んでいたら、今頃、喉が渇いて声が出せなかったに違いない。

「あなたが1度この国から離れて、見聞を広げることは、柚木の家にとって価値のあること……。
 それと。── はっきり言いましょう。梓馬さんの身辺整理も兼ねて、と申し上げればわかりますでしょうか?」
「お祖母さま?」

 とげのある言葉に顔を上げると、そういう俺の態度を疾うに見通していたであろう鋭い視線に出くわした。

「まあ、よろしいのですよ。あなたもお年頃ですからね。そういう相手も必要でしょう。
 1人の方だけ、ということでしたら、それほどの醜聞も立ちませんし、ご縁を切るのも楽でしょう。
 病気をもらう心配もございませんし」
「お祖母さま。待ってください。香穂子は!」
「梓馬さん! あなたもおわかりでしょう? あの日野という方は、あなたの結婚相手には不向きです。
 どう考えてもこの柚木の家とは格が違いすぎますのでね」

 お祖母さまは、咎めるような瞳で俺を見上げた。

「不憫だとは思いませんか? あなたの2人の兄嫁とも比べられて、肩身の狭い思いをさせるのも。
 一時の愛情で家庭を持っても、持ってからの方が遥かに人生は長いのですよ。
 こういう類のことは、年長者であるわたくしに任せておけばいいのです。……よろしいですね」

 釜の湯が煮立って蒸気が篭もったのか、鈍い音を立てながら、部屋中に湯気が噴き出している。
 返事をしない俺を残したまま、祖母は姿勢良く立ち上がると、茶室を出て行った。
*...*...*
 あのあと俺は、廃墟のように置き去りになっていた茶器を片付け、釜の中の湯を庭の隅に捨てると、自室へと向かった。

 高校時代にも同じようなことがあったが……。

 あの時は、俺の婚約もまだ時期尚早だろうということで、お父さまがお祖母さまを説き伏せ、うやむやになったまま、話は流れた。
 その後、お祖母さまの意図を深く読み取ってなかった俺は、香穂子を自宅に呼び、父に会わせて。
 結果、祖母に会った香穂子をひどく傷つけたことがあった。

 今回1つだけ良かったと自分の胸をなで下ろすこと。
 それは、さっきのお祖母さまの言葉を香穂子に聞かせなくて済んだということだろう。

(── 俺、で、良かった)

 4年前、香穂子をこの家に連れてきた春。
 眠りながら泣き続ける香穂子を見て抱いたやりきれない感情は、何年経っても消えることなく、
 俺が普段使うことのない感情の引き出しにしまい込まれていた。

 ふと机の上を見ると、さっき茶室に行く前には置いてなかった薄紫色の封筒が見える。
 中には、留学のカリキュラムとともに、申し込み受領書も一緒に同封されていた。

「……なるほどね。俺の意志は最初から無かった、ということか」

 MBA。経営学修士、か。
 これは、今年から通う俺の大学でも授与してくれる資格だ。
 なにも、留学してまで取る価値のあるものではない。

『見聞を広げるため。語学を習得するために』

 お祖母さまの言葉を反芻する。
 ……なんてことはない、それらは後付の理論だ。
 主たる目的をお祖母さまははっきりとおっしゃっていたじゃないか。

『身辺整理』

 ……整理、か。香穂子は柚木の家からしてみたら、整理される人間に位置するのか。

 香穂子とつきあい出してからの5年の日々を考える。
 高校時代ほどの馬鹿騒ぎはないものの、大学で近づいてくる女は、誰から伝え聞いたか、
 俺の彼女という存在にひどく注目していた。

『柚木くん。5年も1人の彼女、って飽きたりしないの?』
『柚木の彼女って、よっぽどいい女なんだろう? 一度俺に拝ませてよ』
『あ、アタシ、柚木くんが女の子と歩いてるの見たことある!』
『へえ。ねえねえ、どんな感じの子?』
『……うーん……。普通の、そのへんにいる可愛い子、って感じ?』

 柚木の家にいる以上、ことに柚木家に関わる事業に関する話は、見合いよりも比重が大きい。
 断る、のなら、大学院の進学も諦め、家を出、仕事を探すことから始めなくてはいけなくなるだろう。

(香穂子……)

 俺は、ずっとあいつが近くにいるのが当たり前のように捉えてきて。
 そして、あいつも、俺が高校を卒業し、音楽から離れてもなお、何かと慕ってきてくれた。
 あいつといると、本当の自分でいることが心地良くて。
 素直で、明るくて。── 何年経っても、愛らしい女の子。
 無理矢理音楽の世界から離れてしまった今となっては、
 香穂子と過ごす時間だけが、音楽を感じられる大切な時間になっていた。

 このことを告げたなら、あいつは、なんて言うだろう。

 あいつのことだ。
 泣いていながら、泣いていることに、自分でも気が付かないまま、ヴァイオリンに思いの丈をぶつけるのだろうか。
 そこまで考えて、俺はかぶりを振る。

 ── 問題は、俺自身にある。
 1年もの間、香穂子を近くに感じられない時間を、俺がやり過ごしていけるのだろうか。

「……おや?」

 机の上の携帯が、ぼんやりとした暗闇の中、点滅を繰り返す。
 それを見て俺は、留学のことをお祖母さまに告げられてから かなりの時間が経ったことを知る。

『日野香穂子』という名前が点滅する携帯を俺は懐に入れると、暗闇の広がり始めた窓を見上げた。
 携帯は、なぜだか安心したかのように振動を止めた。
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