柚木先輩の妹の雅ちゃんから突然メールが入ったのは、もうすぐ私が大学4年に進級しようとしている春だった。

 いつ、私は、雅ちゃんとアドレスを交換したかは思い出せない。
 ほとんど連絡を取り合ったことはないのに、機種を替えてもずっとずっと残っていたアドレス。
 雅ちゃんも、そんな風に律儀に私のメールアドレスを残してくれていたのかな。

 メールが届いたことを知らせる、いつも見慣れた点滅が、どうしてだか不安に駆られて、私は急いでメールを読んだ。

『こんにちは。雅です。あのね、どうしてもお話したいことがあるから、時間が取れないかしら。
 時間や場所は香穂子さんに合わせます』

 内容はとてもシンプル。だけど、その言葉を補うかのように、文章のあちこちにハートマークが散らばっている。

 雅ちゃんは、柚木先輩の4つ下。ということは、私とは3つ下。ってことは、今年、大学に進学するってことかな。
 確か、大学までエスカレーター式に行ける中学に通っていたはず……。
 でも、無事進学が決まるって、嬉しいことに違いないもの。なにか、可愛いもの、プレゼントしよう。
 私はすぐ返信メールを打った。ケータイの画面はふわふわと白い便せんを飛ばした。
*...*...* Corda 02 *...*...*
「香穂子さん、ここよ!」
「雅ちゃん……。久しぶりだね」

 待ち合わせの喫茶店で、数年ぶりに雅ちゃんに会った。
 この時期の女の子の数年、って、女の子を別人のように美しく磨き立てる。
 元々、柚木先輩に似て綺麗なお顔立ちの雅ちゃんは、オーダーを取りに来たウェイターさんがうっとりと見とれるほど美しい。

 伏し目がちにメニューを覗き込むと、びっしりと生えている長いまつげが、風を送るようにゆっくりと動いているのがわかった。
 うわ……。
 柚木先輩も綺麗な人だと思っていたけど、そこは男の人と女の人の違いがあるのかな。
 匂い立つような桃色の頬は、柚木先輩には見つけられない部位だった。

 雅ちゃんは、ぶしつけともいえるウェイターさんの視線をさらりと受け止めて微笑むと、ホットミルクティを頼んでいる。
 私もつられるように同じものを頼むと、改めて雅ちゃんを見つめた。

「雅ちゃん、やっぱり柚木先輩に似てる」
「お兄さまと?」
「うん。……だって2人ともすごく綺麗なんだもの」
「キレイ、って。香穂子さん、お兄さまは男の人よ?」

 私の率直な意見に、雅ちゃんはころころと明るい笑い声を立てている。

「あ、雅ちゃん、この4月から大学に進学だね。おめでとう。これ、本当に気持ちだけだけど……」

 私はカバンの中から小さな包みを取り出した。
 何もかも恵まれたこの女の子なら、どんなモノだって持ってるかも、と思わないでもなかったけど。
 自分の好きなものを贈るのもいいよね、とあれこれ悩んで見繕ったもの。
 好きな人に贈るプレゼントを考えるのって、すごく楽しい。
 それはきっと、贈った瞬間のその人の反応を想像して、こちらまで幸せな気持ちをもらってるから。
 贈る前に、嬉しくて。贈った瞬間も嬉しくて。何度も嬉しくなる行為だと思っちゃう。

 差し出した小さなブルーの小箱を見て、雅ちゃんは、ぱっと顔をほころばせた。

「まあ、ありがとうございます。なにかしら?」
「えっと、香水、なの。雅ちゃんの好みが分からなかったから、私の好みなんだけど。良かったら……」
「見せていただいてもいい? ……あ、プレジャーズ! あたしも大好きよ」

 雅ちゃんは嬉しそうに包みを元に戻すと、今度は真面目な表情になって、私を見つめた。
 私も、久しぶりに旧友に会えた気分でいたけれど。
 よくよく考えれば、久しぶりに会おう、というからには、なにか深い理由がある……んだよね?

 だけど、会えなかった時間をあっという間に縮めるもの。
 それは、柚木先輩に生き写しとも言える、雅ちゃんの容姿だった。

 数年ぶりに会った、って感じがしない、優しそうな目の形がこちらを見つめている。
 ── 不思議。安心する。

「それで……。雅ちゃん、なにか、お話があったのかな……? 私に」

 私の思いが、雅ちゃんにも伝わったのだろう。
 雅ちゃんはきっぱりとした口調で口を開いた。

「ええ。そうね。お兄さまのことで」
「え? 柚木先輩の?」

 そうだよね。
 歳も違う、学校も違う。私と雅ちゃんを繋げている人は柚木先輩ただ1人だもの。
 やっぱり柚木先輩のことで話があるんだ、よね。

 なんだろう……。雅ちゃんとは、数年ぶり、ううん。もしかして初めてのメールのやりとり。
 そして2人で会うのも初めて、となると。とても大切なお話なのかな。

「あのね、香穂子さん」
「お待たせしました」

 息を呑んで雅ちゃんの唇を見つめていると、さっき注文したお茶が届いた。
 ウェイターさんは、綺麗な縁取りのティーカップをうやうやしく置くと、すぐその場を去ることなく、小さく咳払いをしている。
 私が不思議に思って見上げると、トレーの上に可愛らしいケーキが2個、載っていた。

「新発売のケーキでございます。よろしければお口合わせしてくださいませ」
「あら。あたし、ケーキは頼んでないわよ?」
「いいえ。ご試食、ということで、お口に合わなければそのままにしていただければ十分でございます」
「ありがとう。じゃあ、いただくわ」

 雅ちゃんはにっこりと微笑むと、もういいわよ、という含蓄を込めて、ウェイターさんから、さっと視線を私に移した。
 わ、こういうときの人の捌き方、というのは、柚木先輩に似ている。……迫力、ある……。

 眉間の間にぴたりと定められた視線に、動けなくなる。── 一体、雅ちゃんのお話って、なんなんだろう。

「ねえ。香穂子さん。来月からお兄さまがイギリスに留学することはご存じ?」
「え?」
「……やっぱり。お兄さま、香穂子さんに何もおっしゃってなかったのね」
「え……?」

 指に引っかけていたティーカップが鈍い音を立てて、ソーサーの上に落ちた。
 今、なんて……?

「あたしも、お母さまからちょっと聞いただけだから、詳しいことは言えないの。
 だけど、はっきりわかるのは、留学を命じたのは、あのお祖母さまってことだわ。
 お兄さまに1年の留学をさせて、香穂子さんと縁を切らせて、帰国後すぐ家柄の良い女の人と結婚させようとしているのよ」
「そんな……」

 チリ、と、胸の中が焼けるような感覚に囚われる。
 そして、その痛みを冷静に受け止めているもう1人の私がいるのに気づく。
 この痛みは、初めてじゃない。
 だから、身体は覚えてて、激しく傷つく前に、着地するためのクッションを用意してる。……そんな感じ。

 それって、……やっぱり。
 ── やっぱり、柚木先輩のご家族は、ずっとずっと、私が柚木先輩とお付き合いしているのが、イヤだったんだ。
 私の存在がイヤで仕方なくて。
 どうしても遠ざけたい、って考えてる、ってことだよね。

 高3に上がる春以来、1度も足を向けたことのない、柚木先輩の家を思い出す。
 ところどころは記憶が抜け落ちているけれど、1番に思い出すのは、緋色の桜の花だった。
 今も、まだ、あの場所で、赤い花びらを降らせてるのかな。

「あたしは、反対。絶対反対なの」
「雅ちゃん……。あの、どうして、私に話してくれるの?」
「え?」
「どうして? あの……。どうして? 私に、味方してくれるの」

 涙がぽつりと、音を立てて落ちていく。それはティーカップの中、きれいな輪を描いた。

 わからない。
 私と雅ちゃんは、柚木先輩を通してずっと付き合ってきた、と言えば言えなくもないけれど。
 それでも、高校時代から仲良くしてきた美咲ちゃんや、真奈美ちゃんと比べたら。
 私はそんなに雅ちゃんを知っている、ってわけじゃない。
 それは雅ちゃんにとっても一緒だろう。

 なのに……。── どうして?

「香穂子さん、泣かないで。あたし、香穂子さんの味方だから」
「雅ちゃん」
「あのね、お父さまもよ? 香穂子さん、1人じゃないから」
「ご、ごめんね。泣いたりして。まだ、お話の途中なのに……」

 カバンから慌ててハンカチを取り出す。
 ぴしっと角が揃っているのは、アイロン掛けが得意なお姉ちゃんがプレスしたものかな。

 雅ちゃんは、伝えなきゃ、と思っていたことを話せて ほっとしたのだろう。
 懐かしさを声に滲ませて話し始めた。

「ねえ、知ってる? あたしとお兄さまって、5人兄弟の中で、少し離れてできた子どもなの。
 お父さまもお母さまも、あまりあたしたちのことには構ってくれなかったわ。
 宗家の行事が立て続けにあるっていうのもあったし、お父さま、お母さまにとっても、何人目かの子どもってことで、
 子どもの存在自体、それほど珍しいってこともなかったみたい」

 私は雅ちゃんの言葉に頷くと続きを待った。
 以前、何気ない昔話の折りに、柚木先輩から同じ話を聞いたことがあるような気がする。

「そんな中、ずっとお兄さまは、あたしと良く遊んでくれたの。
 おままごとに付き合ってくれたり、本を読んでくれたり。
 1番嬉しかった遊びは、あたしの歌に、お兄さまがピアノで即興の伴奏を付けてくれることだったわ」

 雅ちゃんは、一瞬遠くに目をやった。
 視線の行き先を追って後ろを振り向くと、そこにはほこりの積もったグランドピアノが置かれている。

「……お兄さま、ね。その日以来、夕食も召し上がってないみたい」
「え?」
「表向きは、出国までにレポートを片付けるため……、ってなってるけど、本当はそうじゃないの、わかってる」
「雅ちゃん」
「だって、こっそりお部屋を覗いたら、お兄さまの机の上には、ノートも本も何1つ載ってなかったわ。
 あたしだったら、なんでもいいから1冊放り出しておくと思うけど」

 ぺろりと舌を出す雅ちゃんが愛らしい。
 こんな妹がいたら、いいだろうなあ……。部屋の中がぱっと華やぐ気がする。
 雅ちゃんは、私の手を取り上げて話し続けた。

「あたしね。香穂子さんと付き合いだしてからのお兄さまの方が好きなの。それだけなの。
 だから、頑張って欲しいの」

『頑張って』
 その言葉が、自分の中で熱い固まりになって忍び込んでくる。
 頑張る……。
 私は、何を一体頑張ればいいんだろう。何を頑張れば、あの人に追いつくの?

 雅ちゃんは、大人っぽい苦笑を浮かべて独り言を言った。

「家の恥になるから、あまり大きな声で言えないけど。
 あたしから見て、お祖母さまのいいなりの結婚をしたお兄さまたちは、どう見ても幸せそうに見えないの。
 無理してる。……別れたいって思っても、親の思惑とかがあって別れられないような感じを持ってるわ」

*...*...*

「あれ? 桜……?」

 あれから、何度も『家まで送らせて?』と言っていた雅ちゃんを説き伏せて、私はとぼとぼと家に向かって歩いていた。
 公園に植えられている早咲きの桜が、ぽつりと小さな花びらを散らしている。
 まだ、花吹雪の時期じゃないのに。
 不思議に思って、拾い上げると、それは、風にむりやり引きはがされた蕾だった。

「柚木、先輩……」

 自分が大好きな人の家族から否定されているという事実。
 ずっと忘れたふりをして、柚木先輩と一緒にいた。
 そばにいることができたら十分だもん。そう自分に言い聞かせてきた。
 だけど……。
 誰かに否定されるっていうことは、何度経験しても慣れない、痛い感情だ。

(柚木先輩……)

 リリという妖精に会って。一緒にコンクールに出場して。
 どんどんあの人に惹かれた。近づけば近づくほど、離れたくない、って思った。願った。
 だけど。

 お祖母さまからいろいろなことを告げられて以来。
 あの人は私と出会えて幸せだったのかな、と考え込むことがある。

 お互い、顔も名前も知らない先輩後輩の関係で卒業をしていたら。
 今頃、あの人は、とっくにお祖母さまの勧める似合いの人と、似合いの結婚をしていたかもしれない。
 そうしたら、お祖母さまと柚木先輩の間には何のトラブルもなく、穏やかな生活をしていたかもしれないのに。

 私……。
 視界が涙でぐにゃりと歪んだ。
 そんな中で見る四角いジャングルジムは、今まで見たこともないような丸い形になって宙に浮かんで見えてくる。

 中で遊んでいる子どもたちを守っているような優しい形に、胸が痛くなる。
 ── 今まで、私は、あの人に守られてきた分以上に、どれだけあの人を守ってきただろう。

「や、やだ……。なに泣いてるの、私……」

 右手につけた腕時計を眺める。夕方5時。
 この時間に帰ったら、夕飯の仕度をしているお母さんが、私の顔を見てビックリするに違いない。
 かといって、家にいるときは大抵夕食の準備を手伝っている私が、勢いよく階段を上がって自分の部屋には行けない。

 だけど、今から友達を呼び出してどこかに行こうにも、こんな私じゃ、友達に心配をかけちゃうに違いない。

 でも、……今1番会いたい人には、1番会えない。こんな私を見せられない。
 薄暗闇を味方に付けたって、限界がある。

 ── 今の私には、泣ける場所がない。

「ミユキちゃん、また明日ね!」
「うん、マサくんもね。また明日!」

 幼馴染みだろう。幼稚園くらいの男の子と女の子がブランコから飛び降りると、互いに手を振って、公園から去っていく。
 遠くから見守っていたお母さんたちは、にこにこと笑顔を交わすと、子どもたちの手を握った。
 さっきより暗闇は広がって、公園全体を包んでいる。

 小さなブランコの揺れと、濃くなる暗闇。
 ── この中でなら、誰にも迷惑はかけないですむ、かな。

 私は、主を失ってもなお動き続けるブランコに腰掛けて、濡れた顔を覆った。
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