文机に、ピアノ。本棚。
 すっきりと片づいた部屋を眺め回す。
 1年も空けるとなると、掃除なども人の手に任せなくてはいけない。
 漆器など特別な扱いが必要になるものは、予め箱に入れ、蔵の奥に押し込んだ。

 愛用したものが視界に入らなくなる。
 ただそれだけのことが、これほど手持ちぶさたなものを。

 ── 香穂子と離れる1年は、俺にとってどんな1年になるのだろう。
*...*...* Corda 03 *...*...*
 約1年の留学。
 この事実をいつ言うのか。
 着々と準備を進めながらも、1番最初に伝えなくてはいけない相手に、俺はなかなか言い出せないでいた。

 週末、いつものように食事をし、お互いの近況を話し合う。
 香穂子は大学4年。
 すでに、地元のオーケストラの団員になることが内定しているが、
 香穂子のヴァイオリンのファンはあちこちにいるらしく、断ってもなお、新たな誘いが舞い込んでいるようだった。

 頭の中でカレンダーをめくる。
 今日を逃したとしても、まだ会える日は、ある。
 だけど、心と体、両方を慰めてやれる日は、もう、ないだろう。

 行き慣れたホテルの一室に入ると、俺は香穂子の背中に声をかけた。

「ああ。香穂子に伝えておかなくてはね。
 とりあえず来月から約1年の期限で、俺はロンドンに留学することになったから」
「ロンドン?」
「ねえ、香穂子。MBAって知ってる? 経営学の資格の1つなんだけど」

 俺は週末の過ごし方について告げるかのように軽い調子で口に乗せる。
 コーヒーでも、と、カップを用意していた香穂子は、俺の顔を見上げ微笑むと、再びカップに目を落とした。

「この俺のことだぜ? MBAくらいさっさと取って、なるべく早く帰る。多分1年もかからない」

 祖母の暴言には一切触れないで、俺は淡々と説明を続ける。

 柚木の家で、俺が1番力を注がなくてはいけないのは、華道ではない。芸術でもない。
 それらの土台となる経済力なのだと知ったのは、大学に入ってからすぐのことだった。

 面倒なこと、些末なことは、それこそ柚木の家の力を使って、税理士を雇えば済む。
 大切なのは、雇った税理士の不正を見抜くことを、経営を司る立場の人間が認識できるかということだ。

 香穂子は微笑を浮かべたまま、俺にコーヒーカップを手渡した。

「柚木の家を出ることも考えたんだが……。将来、お前に経済的な面で苦労はさせたくないしね。
 今は大変でも、柚木の家を利用した方がいいだろうと考えたわけ」

『将来』

 さりげなく出た言葉に自分自身が戸惑う。
 将来……。
 お祖母さまがおっしゃっていた、『身辺整理』とは真逆の言葉が口に出る。

 何度、否定されても。俺がどれだけ非難されたとしても。
 俺は、香穂子への執着を止められないでいる。

「あれ? 柚木先輩、どうかしましたか?」

 香穂子はいつもののんびりさで聞き流してしまっているのか、屈託のない表情は変わることがなかった。
 だが、持ち上げられたカップは、唇に届かないまま、またソーサーの上へと戻される。

「あの……。ごめんなさい。この前ね、雅ちゃんに会ったんです」
「は?」
「だいたいのことは教えてもらいました」

 香穂子の口から飛び出した名前に耳を疑う。
 雅が……?

 あれ以来、留学の準備という理由にかこつけて、俺は家族と夕食を取らなくなった。
 母に頼まれたのか、それとも自分の意志なのかはわからないが、そんな俺の様子を雅が見に来ることはあったが……。
 雅は香穂子に何を告げたのだろう。
 とはいえ、お祖母さまの暴言を直接浴びせられるより、香穂子は傷つかなかっただろう、という確信もあったりする。

「……もう、先輩ったら、ちっとも教えてくれないんだもの」

 香穂子は笑いながらちょっとふくれっ面をして見せる。

「雅と会った、っていつのこと?」
「ん……。4日前、かな?」
「どうしてすぐ俺に言わなかったの?」

 すっきりと晴れやかな顔からは、涙のあとなど想像できない。
 だが……。
 俺は容易に雅と会ったあとの香穂子の様子が目に浮かんだ。

 泣き場所を求めて、あちこちと歩き回っている、細い影。
 無理して、泣き止んで。その日の夕食はどうしたのだろう。
 柚木の家でなら、人1人の様子など、それほど気にも止められないで、時間は流れていくだろう。
 だが、にぎやかな香穂子の家では。
 ── 涙目さえも、簡単にわかってしまうに違いない。

 俺は香穂子の手を掴み上げると、ゆっくりと指をさすった。
 春が始まる直前の香穂子は、1年の間で1番綺麗な肌を持っていると思う。
 白く、溶けそうに柔らかい指は、俺のそれと絡み合い徐々に赤味を増していった。

「メールもする。電話も……。だから、お前は、いい子で待っていて?」

 香穂子はそんな俺を励ますかのように、明るい声を上げた。

「う、ううん? 平気。1年なんて短いもの!
 だから、身体は大事にして、気をつけて行ってきてください。……ね?」
*...*...*
 冷たい、と思っていた指先が、火のように熱くなる。
 締め切った部屋が吐息でいっぱいになる頃、香穂子は叫び声のような鳴き声を上げた。

「柚木、先輩……。もう、私……っ」
「まだ、だよ。……何度しても足りない」

 幾度、こうして香穂子を抱いただろう。いや、何年、こうして一緒にいるのだろう。
 そして今後、俺はどれだけ一緒の時間を過ごしたら、香穂子への想いは乾くのだろう。

「── 1年も、いないんですね」

 乱れたベッドの上、荒い呼吸を繰り返していた香穂子が、ぽつりと呟いた。
 抱き合うことで、香穂子は心の殻を取り外したのか、弱気な声が響いてくる。

「頭は分かってるんです。たった1年だ、って。
 今よりずっと綺麗になって、柚木先輩が帰ってきたとき、驚かせてやるんだ、とか……。
 結構、明るいこと、考えていたりするんですよ?」

 香穂子は俺の腕の中で身じろぎすると、ため息をついた。

「だけど……」
「なに?」
「……そ、その」
「いいよ。言ってごらん?」

 夜目にもわかるほど、香穂子の頬は赤らんでいる。

「── 身体が先輩を欲しい、って思ったら、どうしたらいいの?」

 出会った頃のままの、ややもすれば幼いとも取れる口調でつぶやくと、香穂子は、途方に暮れたように肩を落とした。

「へぇ……。お前にそんなことが言えるようになったとはね」
「せ、先輩が悪いんです。私をこんな風にしちゃうから」

 寂しさを紛らわせるためなのだろう。からかう俺を香穂子はうらめしそうに睨んだ。
 瞼の縁が朱い。やや強気な視線に、俺はまだ俺が知らなかった香穂子の愛らしさを感じる。

「教えてやるよ」
「……はい? あの、なにを……?」
「慰め方。ほら、こっちへおいで」

 俺は香穂子の身体を引き寄せると、自分の脚の間に香穂子を座らせた。

「なんですか……? あっ」

 お互いの脚を絡め、大きく広げさせる。咲き乱れた赤い花からは、甘い香りがしたたっている。

「手を貸して」
「や、あの……。止めて……っ! 恥ずかしい」
「ゆっくり指を挿れてごらん。こうやって」

 香穂子の手に手を重ねて、香穂子をいざなう。
 もう1つの俺の手は、香穂子の上半身を支えながらも、尖り始めた朱い頂きを摘む。
 自分の指でという刺激が香穂子を混乱させているのだろう。
 香穂子は不安げに俺の顔を顧みた。

「こ、こんなの、いや……。止めて、お願い」
「ここもちゃんと触ってあげるんだよ。寂しがるから」

 溢れる蜜を、飛び出してきた突起にすり込んで丸く愛撫する。
 そのまま最奥に押し込んだ指を揺らすと、香穂子は背中を大きくしならせた。

「あ……っ」
「また、イクの? ……いいよ。素直になって」

 快楽が優しい波になって、香穂子の身体を揺らしていく。
 香穂子からはいつも意地悪だと非難されるけれど。
 俺は達した後、甘えたようにすり寄ってくる香穂子の柔らかい身体が好きだった。

「お前が懐に入るぐらいの大きさになればいいのにな」
「先輩……?」
「そうしたら、懐に忍ばせて、ロンドンだろうがどこだろうが連れていってやれるのに」

 苦しそうに肩で息をする香穂子の口を覆う。
 香穂子は首を左右に振って逃げるような仕草をしていたが、やがてあきらめたのだろう。
 俺のなすがままに任せて、受け入れている。

 俺が今までのように、今以上に。
 ── お前を想い続けることを、お前は許してくれるだろうか。

 俺はぐったりとした香穂子の正面に滑り込むと、達したばかりの部位に顔を近づけた。

「もう、本当にやめて。壊れちゃう……。あっ……」

 わざと卑猥な音を立て、咀嚼するように、溢れる蜜を体内に取り込む。
 露わな仕草に、香穂子の顔はこれ以上なく赤らんだ。

 こんなにも香穂子が好きだ。
 誰かに取られるくらいならこんなにも愛したりしない。
 こいつの目の前にこれから先もしも、俺以上に愛しく思う相手が現れたら
 今の俺は黙って背を押してやることなど、できはしない。

 香穂子は俺の口の中で壊れると、弱々しい声でつぶやいた。

「……言って? もう、今度会うときまでの分をしちゃったから、もう、欲しくなくなるって」
「香穂子」
「今度会えるとき、今の私たちのまま、また会えるから、って」

 人の気持ちが、距離や時間で、遠ざかること。
 そんな例は今までいやというほど見知ってきた。
 だけど、そんな関係は、俺たちの間には当てはまらないだろう?

 俺は香穂子の肩を抱き寄せると、言い聞かせるようにゆっくりと言葉を繋いだ。


「夏にお前がロンドンに来られるように手配する。3ヶ月、待っていて。いいね?」
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