祖母が申し込んだスクールのカリキュラムは、学術的にも、また、語学的にも、かなり難易度の高いクラスだったらしい。

 一緒に入学した級友が、2人、3人といなくなり。
 そして、鈍色の、重苦しいとばかり思っていたロンドンの雲が切れ、鮮やかな群青色の空の方が多くなる頃、
 俺は、自分が渡英して約1ヶ月の時間が過ぎていったことを知った。

 ヨーロッパ圏とアメリカ。どちらの風土が俺に合っているかと聞かれたら、やはり俺は前者を選ぶと思う。
 栄光と衰退を学んだ、歴史ある国。
 この街はどこもかしこも、堅牢な、いかめしい雰囲気が漂っている。

 時差の関係もあり、香穂子との連絡方法はメールが主になっている。

 クラスメイトの数人と、雅、そして火原と香穂子。
 送り主はだいたいその数人。
 送り主が誰であっても嬉しいことには違いない。
 その中でも香穂子からのメールは、何度も読み返したくなる面白味に満ちていた。
 学校のこと。家のこと。綺麗だと感じた風景。
 日常の些細なことが書いてあるにも関わらず、文章の端々にどこか可愛げがある。
 ときどき綺麗だと感じた風景や花の写真を送ってくれることもあったが。
 香穂子自身の写真は、どれだけ言っても恥ずかしがって、送ってくれたことがなかった。

 俺は、勉強の間にPCに向かっては、香穂子へと思いを馳せる。

 離れていても、信じていられる。
 寂しい、と思う気持ちは同じでも、お互いがそう感じているのを知った今、その感情はやや自虐的な喜びに変わった。

 そんなある日、見慣れないIDのメールが飛び込んできた。
*...*...* Corda 04 *...*...*
「よぉ〜、柚木、久しぶりだな! お前さん、元気か?」
「お気遣いありがとうございます。まあ、なんとか」

 良く通る声で話される異なる言語というのは、良くも悪くも人の関心を引く。
 金澤先生の声は、一瞬周囲の注目を鋭く浴びながらも、1人の旅人として、その場に馴染んでいく。
 人類のるつぼと表されるロンドンでは、思いの外、いろいろな肌色を見かける。
 俺もそして金澤先生も、たくさんある肌色に紛れて やがて馴染み、人の視線はそれぞれの相手へと戻っていった。

 金澤先生は、長くなった髪を無造作に結び直すと、スーツケースから大きな紙袋を取り出した。

「ほらよ。柚木」
「金澤先生、これは?」
「よくぞ聞いてくれた! これ、お前の悪友、火原からの頼まれもんだよ。
 たまたま俺が研修でイギリスに行くってバレたら、あいつから言付かったんだよ。持ってけーってな」
「火原が?」
「今のご時世、ネットだ通販だ、ってあるのになー。
 高校のとき、大層お世話になった教師を使うってのも、おかしなヤツだよ」

 金澤先生は、大きく喉仏を揺らしながら、目の前のアイスティを飲み干した。

『火原、お前さんは、『いいヤツ』。柚木。お前さんは、『いい生徒』だ』
『……扱いが違うんですね』

 学生の頃、金澤先生は俺たちを端的にそう表現すると、気持ちよさそうに笑っていたことがあったが。
 やる気のなさそうなふりをしながら、それでも、たまに投げられる金澤先生の助言には、納得する箇所がたくさんあった気がする。

「お手数をおかけしました。ありがとうございます」
「まーったく、うるさい、っての。なあ。
 大体ハタチ過ぎた友達に、あれこれそう気遣うこともないのになー」
「いや。そこが火原のいいところか、と」
「まーな。ああいうのがいると、人生、飽きないぜ? ったく。お前さんも、いいヤツに会えたよなー」

 俺、火原、と思い出すことで、金澤先生は、感じることがあったのだろう。
 そのセレクションで香穂子が奏でたことがあるユーモレスクを鼻歌で歌うと、俺の方に向き直った。

「いやー。それにしてもあの年のコンクールメンバーはすごかったな。
 俺の短くない教師生活の中でも、まぶしいくらいだぜ」
「そうなんですか?」

 金澤先生が気になるのか、スパニッシュ系の店員がちらちらと興味深げにこちらに視線を流す。
 金澤先生は、苦笑しながらも受け止めて、新しい飲み物をその女の子に頼んだ。
 女の子は頬を染めて頷いている。

「ああ。なんつーか。どの生徒も、輝いてたな。
 ってか、その光りに包まれている当の本人たちは気づいていなかっただろうが」

 俺は記憶の糸を探る。
 コンクールメンバーの上に、時間という時の流れが、不透明な膜を作っている。

 俺は、大切なものを懐かしむように、その膜を丁寧に広げていく。
 すると、真っ先に飛び込んでくるのは、ヴァイオリンを抱えている香穂子と、満面の笑みの火原。
 その後に続く、2人の優しいフレーズ。
 それを追いかけるように、深い音色のピアノと、正確なピッチのチェロ。
 力強い、香穂子とは違う、男の強さを感じるヴァイオリンが聞こえる。……これは月森か。

 今の俺の生活は、音楽から遠いところにある。
 だけど、香穂子を思うとき、音楽から得たさまざまな知識は、今の俺の人生観の礎になっているのを感じる。

 ── あいつは、今、なにをしているだろう。
 この時間ならオケでみんなと音合わせをしている時間帯だろうか。

「で? お前さんは、いつまでロンドンにいるつもりなんだ?」
「そうですね。資格を取得次第……、と言ったところでしょうか?」
「お前さんのことだ。きっと最短コースで取得できると仮定して、だ。いつくらいになりそうだ?」
「来年の3月頃には」
「そっかそっかー。……そりゃ良かった。早いほうが彼女さんも喜ぶだろうよ」

 金澤先生は、香穂子の名前を曖昧にしたまま言葉を繋ぐと、軽やかな動作でスツールから滑り降りた。

「今日は、お手数をおかけしました」
「なになに。大したことないって。これくらいやらせてくれよ。教師なんだからさ」
「ありがとうございます」

 次に行く場所があるのか、金澤先生は店にかかっている時計に目をやっている。
 そして、俺の顔をちらりと横目で見つめると口元を緩めた。

「ときにお前さん……。なんて言うか、色っぽくなったよなー。
 恋煩い、ってところか? 男でもこんなにキレイにやつれるものかな」
「はい?」

 高校の時から、こういう嗅覚には鋭い人だと思っていたが。
 あまりにも唐突な質問に面食らっていると、金澤先生は前屈みになって俺の顔を覗き込んだ。

「気をつけろよ〜。お前さん、男にしちゃ小柄だし、かなりの優男だ。
 ヨーロッパの人間は、ゲイに対してもオープンだからな。うかうかしてると食われちまうぞ」
「そのようですね。実際、何回かアプローチは受けましたよ」

 日本にいたころから、普通、男が受ける種類の賞賛ではない言葉を何度か聞いたことはあった。
 しかし、こちらの人間は、もっとオープンに、そしてダイレクトに自分の気持ちを伝えてくることがある。

 気の合った級友とのディベートにも、いつしか、俺は、人目のある場所を選ぶようになっていた。
*...*...*
 開けたい、という衝動を抑えて、俺は急いで自宅のアパートメントまで戻ると、紙袋を開いた。
 自炊はしない、と告げてあったことが頭にあったのか、中には小さなお菓子が、この袋の中によく入ったと思うほど詰め込まれている。

『ね、柚木! だまされたと思って、1度だけでいいから食べてみて!
 これね、おれが子どもの頃から大好きなお菓子なんだ。柚木、食べたことないでしょ!?』

 高校の頃、そう言われて、初めて口に入れた味。
 特に美味しいとも不味いとも思わなかったラムネ菓子が、満面の笑みを浮かべる火原の前で食べているうちに、 だんだんと美味しく感じられたのを覚えている。

 紙袋の1番奥に2通の封筒が見える。
 薄いピンクの生真面目そうな封筒は、多分、香穂子。
 そして派手なチェック柄の、どこかひょうきんそうな封筒は、火原だろうか。

 俺は迷った挙げ句、火原の封筒から封を切った。

『柚木、どう? 留学生活、楽しんでる??
 おれは今年晴れて就職、社会人だよ。
 今、英語のリスニングに手を焼いてる。
 帰国する日が決まったらメールで教えて。待ってるからね!』

 顔文字こそないが、文面はいつもPCに届く火原そのものの明るい内容だ。

『あ、そうそう。じゃーん。柚木への差し入れは、お菓子それも駄菓子シリーズで決めてみた。
 新発売のお菓子があったから、入れておくね。絶対食べてよ!?』

『駄菓子』というくだりで俺はひとしきり声を上げて笑った。

「全く、あいつは……。だから、かなわない」

 息を深く吐くことで、再び深い息を吸う。
 そうすることで、俺はロンドンで初めて、胸いっぱいの呼吸ができたような気がした。

 そうして、俺は改めて香穂子からの封筒を持ち上げる。
 宛名には、『柚木先輩』、送り主は、『日野香穂子』となっていて、何年経っても律儀なあいつの様子が目に浮かぶようだった。

 火原と比べると、やや分厚めの封書……。なにか、言いたいことでもあるのだろうか。
 ……メールでは言えないような。
 ── もしかして、これは、もう、俺との関係に終わりを告げたい、という文面でも書かれているのだろうか?

 思い巡っていても、良い答えは出ないだろう。
 俺はペーパーナイフで勢いよく封筒の口を開ける。

 香穂子の手紙は、時候のあいさつから始まって、自分の簡単な近況。
 そして、俺の想像とは裏腹に、俺の身体を気遣う文面で溢れていた。

『身体は大丈夫ですか? ご無理されていませんか?
 せめて今、柚木先輩がいるところが国内だったら、私もなにかお手伝いできたかもしれないんですけど』

 高校生の頃、俺が貸したノートの字がすごく好きだ、と、香穂子も見よう見まねで、硬筆の勉強を始めた、と言っていたことがあった。
 なるほど、俺とは違う手蹟ではあるものの、女らしい、愛らしい字が続いている。
 いつもPCでやりとりするメールでは見えない一面を見たようで。
 俺は終わりまで読むのを引き延ばすかのようにゆっくりと字面を追い続けた。

『もうすぐ、6月。柚木先輩の誕生日ですね。
 会いたい、って気持ちを、この小包に託します。お誕生日おめでとう』

 文面にすれば、あっけないほどのさわやかな読後感。
 ぱっとこの手紙を読んだ人間なら、恋人からの手紙とは思えないようなシンプルな文面だろう。
 だが……。
 俺は香穂子の心情を思いやる。

 ……うぬぼれ、で、ないのなら……。多分。

 香穂子。

 付き合い出して、5年も経った。
 人1人が持っている引き出しなど、誰でもそれこそ有限で。
 普通だったら、飽きなり、別れなりが訪れるのか常だと思っていた。
 だけど……。

 あいつは、会うたびに、俺が心を揺さぶられる何かを持っている気がする。
 それは、俺が諦めた音楽に対する、慕情なのか、それとも少年時代の憧憬なのかはわからない。

 あいつの代わりなど、他の人間にはできやしない。



 その事実がわかっただけでも、俺はこの街に来た価値がある。
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