私はオケ部の練習室横の薄暗い廊下の隅で、今、この時間が通り過ぎるのを待っていた。
*...*...* Corda 05 *...*...*
「……私、大切な人がいるんです。ごめんなさい」目の前の人の顔も見ないまま、何度も頭を下げる。
気まずい空気が、静まりかえった大学構内の奥に広がっていく。
すっきりと磨き上げられた黒い革靴が目に入る。
それは、この靴の持ち主は、この春卒業した社会人なのだと伝えてくる。
大学のオケ部で、とても火原先輩と仲の良かった、吉村先輩。
明るくて、面倒見のいい人で。先輩からも後輩からも慕われていた人。
彼のサクソフォーンが作る音は、大人っぽさと華やかさが共存してて、誰もが振り返りたくなる力があったと思う。
だけど……。
いろんな女の人との噂が絶えない人だったし。それにオケ部の中でも、デートに誘われていた人を何人も知っている。
みんなでわいわいお話しするのは、とても楽しいのに。2人きりになるのは、すごく怖い。そんな人。
吉村先輩は、首を傾げながら、親しみやすい笑顔を向けてくる。
「やっぱり、その……。僕じゃ、ダメかな?」
「吉村先輩。私、そのっ!」
「ずっと君のこと、可愛いな、って思ってたんだ。
だけど、断られて、オケ部の中で、気を遣っちゃうのも、みんなにも香穂子ちゃんにも悪いな、って思って。
卒業した今なら、また次に会うときまでに、状況を立て直せるかなと思ってね」
「本当にごめんなさい。私……」
「いいよいいよ。もう謝らないで? ……でもさ、香穂子ちゃん」
「はい?」
含みを持った沈黙に、はっと顔を上げると、吉村先輩の目には好色そうな影が覗いていた。
「火原から聞いたよ。君のカレシさん、今、日本にいないんでしょう?
── たまにはいいんじゃない? 他の男と遊ぶのも、気分が変わって」
「え……?」
「だってさ、バレなきゃ、浮気は浮気とは定義されないでしょう?」
浮気? この人は何が言いたいんだろう……?
私は吉村先輩の向こうにある長い廊下に目をやった。
ああ。誰でもいい。誰か、通ってくれないかな。
そうしたら私、『待ってたの!』と大きい声を上げて、駆け出していくのに。
吉村先輩は、私の考えを見透かしたかのような笑みを浮かべると、私の髪を一束 かき上げた。
「まあ。暇だな、って思ったら、いつでも声かけてよ。
僕、香穂子ちゃんからのお誘いだったら、どこでも飛び出していくから」
「ごめんなさい。もうすぐオケの練習が始まるので、失礼します」
返事のしようがなくて、私は、ぺこりと一礼すると、吉村先輩の前を走り抜けた。
練習室では、私の姿を見つけた弦の後輩が大声を上げる。
「香穂子先輩、遅いですよ。もうすぐ、パート練、入りますよ〜」
「ごめんなさい。遅くなりました!」
吉村先輩がこっちを見ていることはわかったけど。
私はそれに気づかないふりをして、椅子の上に置きっぱなしになっていたヴァイオリンを肩に載せた。
……火原から聞いた、って言ってたよね……。吉村先輩。
本当かな? もしかして、それは、吉村先輩のハッタリで、ぼんやりしてる私が、うっかり引っかかっちゃったのかな……。
「ほい! そこで第1 Vn が入る。ほら、日野。今だ」
「は、はい!」
指揮科の部長さんは、私が上の空で演奏していることを早速見抜くと、指揮棒の先で私を指し示した。
「よし。今日はみんな、気持ちが揃ってたのかな。なかなかいい音が出たなー」
部長さんは、自分の満足行く結果が出たのが嬉しかったんだろう。
額に浮かんだ汗を拭き取ると、タバコの入った胸ポケットをポンポンと叩いて、部屋を出て行った。
「ふぅ……」
ヴァイオリンに助けられたのかな。集中した時間を過ごした今では、吉村先輩の言ったことは少し遠くに感じる。
だけど、できるだけ、2人きりになるのは避けた方がいいかもしれない。
「お!」
「あーー! 久しぶりです。先輩!!」
と、そこへ、管の輪の中で大きな歓声が起こった。
もしかして……? と目をこらしていると、火原先輩のつんつんとした髪の毛が見える。
火原先輩は、私に気付くと、大きく手を振って応えている。
「あ、香穂ちゃん、頑張ってるねーー! 今日は天気がいいからかな? 音もきれいだね」
「火原先輩……」
口をとがらして、じぃ、っと怒ってるオーラを込めながら火原先輩を見つめる。
すると、火原先輩は、イタズラが見つかった男の子のようにあちゃーっとした表情で駆け寄ってきた。
「あ、あれ? 香穂ちゃん、な、なんか、プンプンに怒ってない? あれ、おれ、なにかヘマしたかな?」
「ちょっと、こっち、来てください!」
パタパタと床掃除を始める人。楽譜台を片付ける人たちの中、
私は火原先輩を部屋の端っこに引っ張ると、さっきの吉村先輩のことを話した。
「すごく、怖かったです。私……」
「ごめんごめん。そう言えば、この前の卒業コンパで、そんな話、したかも」
火原先輩の素敵なところ、って、誰に対しても、明るく、誠実に対応してくれるところだと思う。
先輩後輩だから、女だから、男だから、ってことで、邪険な態度を取る、ってこと、私は今まで1度も見たことがない。
あまりに素直に謝られて、私も不安だった気持ちが小さくなっていくのを感じる。
「いえ。……私も、よく考えれば、火原先輩に怒るのって、間違ってますよね。……ごめんなさい」
火原先輩は、頭のてっぺんをくるりと触ると、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「えーっと、どうだったかなあ……。おれの親友が留学してる、って話をしただけだったと思うけど。
香穂ちゃんの話はしてないのになあ」
「はい……」
そうだよね。きっと火原先輩だって、柚木先輩の名前を出したわけではないだろう。
多分、『おれの高校時代の友達がさ』って何の屈託もなく話したんだろう。
吉村先輩は、そんなに深い意味はなくて、なんとなく私を誘ってきたのかな。そうだよね。
火原先輩はまじまじと私の顔を見つめた。
「でもさ。なんて言うんだろう。香穂ちゃん、柚木がいなくなってからも、どんどん綺麗になっていくよね。
吉村の肩を持つわけじゃないけど、声を掛けたいな、って気持ちも分かる気がするよ」
「そんなこと、ないです! えーっと、ほら、火原先輩はきっと就職したてで、目がお疲れなんです」
「ははっ!」
真顔でそう反論すると、火原先輩はツボに入ったらしく大声で笑った。
そして、ふと、懐かしそうな優しげな表情で私を見つめている。
── どきり、と鼓動が早くなるのを感じる。
「あ、あの、なにか……?」
「なんていうか……。おれさ、そこまで人を好きになったことがなくて。そんなに、長い間、気持ちが続いたこともなくて。
だから、今からおれが言うことってさ、すごく的違いかもしれないけど……」
「はい……」
「がんばれ! おれさ、香穂ちゃんが元気になるなら、なんだってしちゃうよ。
だけど、おれのできることって、すごく限られてるからなー。
だから、出来る範囲でできる、精一杯のこと、したい」
「火原先輩」
「またさ、おれ、時間作って、オケ部に来るよ。トランペット持って。おれの演奏、聴いて? ね?」
「はい! 是非!」
お日さまの匂いがするような明るい笑顔に、つられるように私も笑顔になる。
柚木先輩の大切な親友の火原先輩。私も、大好きな人。
私はぺこりと頭を下げると笑い返した。
「ありがとうございます。楽しみにしていますね!」
*...*...*
柚木先輩がロンドンに旅立ってから、基本的に連絡はメールで取り合っている。時差はあるけれど、夜出したメールに、朝、返事が届いていると、その日はいいことがありそうな気がして、
ついその日着る服も、柚木先輩の好みに合うようなシックな色を選んでしまう。
そんなある日、柚木先輩から、いつもとは違うサブジェクトのメールが送られてきた。
今日の柚木先輩のメールは、どんなことを私に教えてくれるんだろう。
違う時の流れを生きている私たちだけど。
メールを書いているとき、読んでいるときだけは、すぐ隣りに、ううん、背後で抱きかかえてくれている気がする。
── 同じ空気を感じられることが嬉しい。
私は画面をスクロールさせると、一気にメールの本文を読み始めた。
『ここのURLにアクセスして。ログインIDとパスワードは以前教えただろ? 変わってないから』
「はい……。こう、かな?」
私は書いてある手順通りにキーボードを叩く。
ネットにアクセスするときのID。これは、フルートにちなんだ、名前。
そして、パスワードはいつも私の名前と、出会った頃の年齢。今度も多分、そうかな。
URLにアクセスし、そのサイトを見る。えっと、航空会社かな。……それで、っと。
認証に成功して、その先の画面を見る。
── そこで目に飛び込んできたのは、イギリス行きの片道切符だった。
「わ、本当に……。本当に送ってくれたんだ……」
日々送られてくるメールには、淡々と今日の勉強内容に始まって、
ロンドンの気候、風土、スクールの雰囲気などが書き留められていたけど。
かなりの勉強量を短時間でこなす柚木先輩でも、こんなにハードなんだ、って思うメールが何度もあった。
だから、もしかして、もしかしたら、夏にロンドンに行く、という約束は難しいかも。
って、自分で防波堤を作ってた、から……。
メールには、彼の意地悪な笑みが浮かんでくるような文面が並んでいる。
『ふふ。驚いた? 約束通りチケットを送るよ。
『万障お繰り合わせの上』、なんて面倒なことを言う気がないが、大学のレポート、落としたりするなよ。
じゃあ、また。』
「えへへ、やだなあ。落としたりなんかしないもん」
『じゃあ、また』って書いてあるし、柚木先輩からのメールの文面はこれで終わり、だよね。
そう思って、元いたページに戻ろうとして、私は、柚木先輩のメールを表示している縦スクロールバーに気付く。
あれ、……あ、もしかして、柚木先輩、テキストファイルの下の方の改行を消し忘れたの、かな……?
珍しいな。そういうことも、きっちりしている人だと思ってたのに……。
不思議に思いながら、5回スクロールを繰り返した時、私は思いもかけず、もう1つの文章を見つけた。
『ようこそ。ここまで読んでもらえるとは光栄だね』
「うう、やっぱり、理由があったんだ……」
食い入るようにじっと画面の中の文字を目に写す。
『霧の都ロンドン、って誰が言い出したのか、『言い得て妙』な街だと思うよ。
辛気くさくて、建物も、人々もどこか封建的で、色がない。
だけど、お前が来る予定の夏は日本でいう春にあたるらしい』
「へぇ……。そうなんだ」
柚木先輩が渡英してから買った、ロンドンの地図。
ロンドンは大都市なのに、公園が占める面積は、どの都市よりも大きいという。
花という花が一斉に咲き誇る街、ロンドン。
『── お前が来てくれたら、俺も もう少し、この街を好きになれる気がする。
だから早くこっちにおいで。待っているから。』
メールの最後は、こんな文面で締めくくられていた。