滑走路から飛び立つ飛行機の、つんざくような音が聞こえる。
 それさえも嬉しくて、私は窓の外で離陸を待っている飛行機たちを指折り数えた。
 ── やっと、会える。
 私、やっと、会いたいって思ってた人に会えるんだ。
*...*...* Corda 06 *...*...*
 その日私は、柚木先輩から送ってもらったチケットを手に、空港に来ていた。
 手にはいつも持ち歩いているカバン。それに、ヴァイオリン。
 大きな荷物はもう、柚木先輩の住所宛に送ってある。

『香穂子。あんたその格好で本当に10日間もイギリスに行ってくるの?』
『お姉ちゃん……』
『あっちの気候とか、ちゃんと自分でチェックした? そうじゃなかったら、柚木くんに聞いてみた?
 ロンドンって、1日のうちに四季があるって言われてる街でしょう?』
『えーっと。最低限のモノだけ用意したの。あとは、向こうで調達しようかな、って思って』

 日本からイギリスって、約12時間の行程。
 人間1人1人が、卵のパックのようにぎゅっと詰まった席を想像して、私は小さく息をついた。
 大学に行ってから、何度か気の合う友達と一緒に旅行をしたことはあるけれど。
 あの席の狭苦しさだけは何回行っても慣れない。

「日野さま、でございますね。どうぞこちらへ」

 チケットをかざし、ゲートを通り抜けようとしたとき、寸分の隙もないお化粧を施した乗務員さんが小走りに寄ってきた。

「こちら……?」
「はい。そうでございます」

 小首を傾げた肩の辺りから、柑橘系のすっきりとした香りがする。
 夜遅い出発だというのに、目の前の女の人からは、さわやかな朝の空気が満ちていた。

「日野さまがお持ちのチケットは、ファーストクラスでございますので、搭乗口がこちらになります。
 どうぞわたくしのお後をお歩きください」
「は、はい?」

 ファーストクラス……?
 どうして私が? なんて子どものような質問を、目の前のお姉さんにぶつけることはできそうにない。

 多分、この扱いと、飛行機の手続きは柚木先輩がしてくれたんだ、ってことを考えると。
 えっと、……。そうだ、ホテルでいうスイートルームみたいな感じなのかな。

 お姉さんは、私の困惑を優しく認め、受け入れるような微笑で、席の案内をしてくれた。

「こちらでございます。どうぞおかけください」
「は、はい! ありがとうございます!」

 こんな風に航空会社の人に対応してもらったことなんてない。……緊張する。
 誰かにじっと見つめられながら、行う動作、っていうのは、必要以上に肩に力が入る。

 いつも私が使う席の2倍くらいの座席。
 乗務員さんは、私が席に着くのを確認すると、そっとリクライニングのボタンを押した。
 動いてるのが分からないくらいのゆっくりした速度で、足元にクッションが出てくる。

「わ……っ」

 私はあわててヴァイオリンケースを握りしめた。

「どうぞ。ご用がおありのときは、こちらのボタンを押してくださいませ」
「はい!」

 私の返事に、お姉さんはにっこりと微笑みながら軽く会釈を返してくれる。
 ううう……。  こんな緊張していたら、お姉さんと私、どっちがお客さんかわからないかも。

 柚木先輩の心遣いは嬉しい。
 だけど私はリラックスすることなんて到底できずに、品の良い装飾が施されている機内の様子を目で追っていた。

 すぐ前の座席で、2つの頭が近づき合っては、小声でなにか囁いている。

「ねえ。あなた。こんないいお席じゃなくてもよかったのに」
「いいじゃないか。退職祝いのときくらい、贅沢したって」
「でもねえ。あなた。なんだかお金が消えてしまうようで、もったいないですわ」
「だからこそ、だよ。今の時間を楽しまないでどうする?
 ここでは、世界中のワインが飲めるよ。離陸して落ち着いたら聞いてみようか」

 優しそうな男の人の声。
 そのあとに、男の人に同意する、女の人の柔らかい声……。ご夫婦かな。

(いいなあ……。こういうの)

 見知らぬご夫婦の会話は、私まで優しい気持ちにさせてくれた。

 そうだ。私のお父さんも、あと数年で退職を迎える。
 その頃には、私も就職してて、今よりは経済的に融通が利くかもしれない。

『ねえ、お母さんたちに旅行、プレゼントしない?』

 帰国したら、お兄ちゃんとお姉ちゃんに相談してみようかな。
 うーん。だけど、1人暮らしを始めて、いつも貧乏だー、って豪語してるお兄ちゃんに告げたら、
 真っ先に海外旅行は、国内旅行になりそうな気もする。

 そうだ。
 お姉ちゃんから先に説得してみて、それから2人の意見、ってことでお兄ちゃんに話せば、お兄ちゃんもイヤとは言わない、かな……。

 うんうん策を練っていると、膝の上にあるヴァイオリンケースが目に付いたのか、さっきとは別の乗務員さんが私の目の前でひざまづいた。

「日野さまは、楽器をなさるのでしょうか?」
「あ。はい。どうしても荷物に入れてしまうのには抵抗があって……。
 ごめんなさい。手荷物として持ってきてしまったんです」

 あ、あれ? もしかして、機内持ち込み、不可、とか……?
 エコノミーのときは、足下にそっと置いておいても誰にも何も言われなかったのに。

 お姉さんは私の表情を読み取ったのか、安心させるかのような大きな笑みを口元に作ると説明を始めた。

「いえ。でしたら。ここのビジネスクラスのお席には、楽器専用の保管ルームがございます。
 よろしければそちらに預からせていただきますが」
「保管ルーム?」
「はい。湿度温度とも一定に保たれているので、ことに弦楽器には大変都合がいい、とも評判でございます。
 よろしければ、ぜひ」

 ファーストクラス、って、こ、こんな感じなんだ……。
 私っていう人間は、エコノミークラスのときの自分と何1つ変わってないのに。
 入れ物が違うだけで、上等な人間になったような気がする。
 ── でも、ちょっと、緊張する。

「じゃあ、お願いします」

 私は膝の上に乗せていたヴァイオリンをお姉さんに手渡すと、頭を下げた。
*...*...*
「長らくのご乗車、お疲れ様でございました。どうぞよい旅を」

 乗務員さんは、乗客1人1人に丁寧に挨拶すると、搭乗したときと同じ表情を見せている。
 私は、12時間もの間、うとうとと眠ったり、窓の外の真っ暗な海を見たりして、ぼんやりと過ごしていた。

 彼女たちの完璧な仕事ぶりに、私は就職する、ってどういうことなんだろう、と考える。
 毎日、朝早くから家を飛び出していくお父さんや、お兄ちゃん、お姉ちゃんのことを思う。

 大学に入って。オケ部に入って。
 みんなと足並みを揃えるのに、1番大事なのは、時間を守ることだ、って自分ではわかったつもりでいたけれど。
 目の前の女性は、それ以上の何か大切なモノを身に付けている気がする。

「ヒースロー、ですか?」
「はい。そうでございます。もうすぐ滑走路がご覧いただけるかと」

 夜明け前なのか、四角くくりぬいた窓の外には、朝もやの中、滑走路が一直線になってぼんやりと輝いている。

『その時間に迎えに行くから。安心して待ってろよ』

 昨日、家を出る直前に読んだメールを、頭の中でもう1度読み直す。

 大丈夫、だよね……。ちゃんと見つけ出してくれるよね。

 どうしよう……。気持ちが高ぶる。
 このタラップを降りたら、柚木先輩が待っている。それは分かってる。

 ── 会えなくなってから、4ヶ月。

 会えない時間を、メールで埋めて。寂しいときは電話からの声に耳を傾けた。
 だけど。
 どうにも自分の写真を送るのは恥ずかしくて、離れている間、写真は1度も送ったことがなかった。
 柚木先輩が送ってくれたこともない。

 高校の時は、それこそ毎日のように顔を合わせてた。
 お互い大学に進んでからも、週に1、2回は時間をやりくりして会う時間を作った。

 頻繁に会えていた頃は、2人で同じ足並みで同じ方向を歩いて行ってる、と素直に信じられた。
 ちょっとしたズレは、会ったときに知らないうちに調整できていたのかもしれない。
 でも……。

 4ヶ月の間に、柚木先輩の取り巻く世界は大きく変わった、から。
 ── 4月、別れたときそのままの私たちで、いられるのかな。

 どうなんだろう。
 会えなかった4ヶ月は、私の上に、柚木先輩の上に、どんな変化を作ったのだろう。

「あれ……? どこだろう? 柚木先輩、いない……?」

 4thターミナルに降り立って、周囲を見渡す。
 早朝の到着だからか出迎えの人もまばらで、朝の淡い太陽が降り立つすべての人たちに薄色の影を作っている。

 どうしよう……。
 柚木先輩と会えないかも、なんてこれっぽっちも考えてなかった、かも。
 空港内のいかめしい石造りの柱時計は、朝の5時を指している。
 柚木先輩がいないのは、早朝すぎて、ロンドンからまだ電車が出ていない時間だからかもしれない。

「落ち着いて! えっと、まず、地図出してみよう」

 自分の部屋の壁に地図を貼っていたから、柚木先輩のアパートメントがどこだかは、大体見当がつく。
 それに、ヒースローから、アパートメントの最寄りの駅、ピカデリーまでは電車で1本、だった、はず。

 ── やっと、柚木先輩に会える。

 私は、ガラス張りの空港の中から、朝もやの空を見た。
 白い煙の中、思いもかけず、コバルトブルーの空が見え隠れしている。

 この同じ空色の下、柚木先輩はいてくれるんだもの。

 えーっと……。よ、よし。まず、ポンドに換金してこよう。それからあとのことは、あとから考えよう。

 あちこち見渡すと、さっきまで一緒に飛行機に乗っていたご夫婦が、長い列の後ろに並んでいる。
 どうやらあそこが換金所、なのかな……? いいや、直接行って、聞いてみよう。

 気合いを入れて、一歩足を踏み出す。
 そのとき、ばさりと背後から暖かいものに包まれた。

「ひゃ……っ。な、なに??」

 手……? 腕? なに、これ……っ。

 背後の人は、英語でなにか話してる。
 えっと、ようこそ……? my sweetie ……? って、え?
 私、別の誰かと勘違いされちゃった、のかな? 絶対そうだよね。

「ご、ごめんなさい。人違いです!」
「馬鹿。俺だよ」

 くすくすという忍び笑いとともに、今度は聞き慣れた日本語が飛び込んでくる。
 私は暖かい腕の中、くるりと身体を反転させると、私を抱きかかえている人を覗き込んだ。

「あれこれと考えあぐねている姿が可愛かったからね。ちょっと驚かせてみたくなったんだよ」
「ゆ、柚木先輩……っ!?」

 のびやかな声に。
 あちこちに飛んでくる、慈しむような優しい眼差しに。
 ── 時間が戻っていく。

 あんなに長いと思っていた、4ヶ月なんて、本当は何かの間違いで。
 ほんの1、2週間、柚木先輩はちょっと遠くに行っていた。それだけのこと、みたい。

 柚木先輩は皮肉そうに口を歪めると、さっきの私の言葉を繰り返している。

「それにしても、『人違い』か。お前はいつも、俺の想定外の反応を示すよね」
「あ! あの、それは……っ。だ、だって英語が言ったんだもの、『ようこそ』って」
「あのね。言ったのは俺であって英語じゃないの」

 私の反論が面白かったのか、柚木先輩はひとしきり笑うと、ふと茶目っ気たっぷりの表情になって聞いてくる。

「それとも、なに? 日本語で言って欲しかったの? 『ようこそ、俺の香穂子』って?」
「お、俺の、ですか??」
「ちゃんと所有格が付いてるだろ? "sweeter" の前に、"my" って。直訳するとそうなるけど?」
「わ……っ。その、恥ずかしいから、もう、いいです……。ちゃんとこうして会えたんだもの」

 柚木先輩は、私の手からヴァイオリンケースを持ち上げると、ゆっくりと隣りに並んだ。

 手を伸ばせば届くところにある、肩先を見つめる。
 ── 本当に、本当だよね。本物の柚木先輩だよね。
 濃いグレーのスーツ。綺麗な身体の線が涙でぼやける。


 ようやく、目が、頭が、身体が、柚木先輩がいることを納得し始める。
 これから10日間は、会いたい、って思ったとき、会えるんだ。声も聞ける。
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