時差の関係で疲れが出たのだろう。
 香穂子は俺のアパートメントで少し仮眠を取った。
 それほど大きい部屋は必要ないだろうという判断で借りたこの家は、寝室が2つとリビングという小さな間取りだ。
 俺は、香穂子を起こさないようにと、ダイニングの机の上で本を読み、レポートを2本書いた。

 ── 1つ屋根の下に、香穂子がいる。

 何度か、寝室を覗き込もうかと思って立ち上がり。
 そして、部屋の隅に置いてあるあいつの持ち物を見て、これが現実であることを納得させる。

 たとえ眠っているだけであっても、確かに感じることのできる存在に、俺は胸が熱くなるのを感じた。
*...*...* Corda 07 *...*...*
「ごめんなさい。思ったよりも長く眠ってたみたい……」

 数時間後、香穂子は幾分すっきりとした表情で起き上がると、俺の対面に座り、興味深そうに部屋のあちこちを見つめている。

「なにか面白いものでもあるの?」
「えっと……。そうですね。柚木先輩、っていうと和風のお部屋の印象があったんですけど……。
 なんだろ、こういう、ヨーロッパ風のお部屋も しっくり くるのが不思議です」
「そう?」

 通学時間の短縮はすなわち勉強時間の増加につながる。
 そんな理由で選んだこの部屋は、17世紀に建てられた煉瓦造りの年代物だ。
 日本ほど地震の心配がないこの街では、中には13世紀の建物が上手く利用されていることもある。

 俺は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、香穂子の前のグラスに注いだ。

「今日、明日と、2日間、休みを取ったんだ。どこか連れて行ってやるよ」
「え? ……えっと、スクールは大丈夫なんですか?」
「ああ。お前は心配しなくてもいい。あらかじめスケジュールを空けておいたから」

 自分をそれほど要領の悪い人間だと考えたことはなかったが。
 ともすれば香穂子に出すメールの内容は、いつもスクールの大変さばかりを書き連ねてきたと思う。
 その事実が、あきらめへとつながっていたのだろう。
 香穂子は、喜びとも驚きともつかないような表情で俺を見つめている。

「お前、ロンドンは初めてだろう? 付き合うぜ。
 俺もスクールとアパートととの往復で、目ぼしいところには行ってないし」
「本当? 嬉しいです! 柚木先輩はずっと勉強だと思っていたから……」
「言ったろ? お前が来る前にやるべきことは済ませておいた、って」
「はい!」

 抑えても抑えても緩んでくる頬を持て余しているのか、香穂子は赤らめた頬に手を当てて はにかんでいる。

 男だからか、性格なのか、俺は香穂子ほど素直に自分を表現できないでいる。
 まあ、俺の分まで香穂子が喜んでいるようで、これはこれで悪くないと思えてくる。
 ── いや。むしろ、可愛らしい。

「……何考えてるか、丸わかりの顔だな。お前って」
「い、いいんです!」
「ま、いいけど。……じゃあ、行こう? お前、ロンドンで見たいところはあるの?」

 香穂子は嬉しそうに話し続ける。

「はい。あのね、飛行機の中でずっと、ガイドブックを見てきたの。
 1日は、ショッピングに付き合ってもらいたくて……。
 それでね、あとは、オックスフォードの通りにあるお店! スコーンが美味しいんですって」

 ロンドンに着いた4ヶ月前。必要に迫られて、ベッドとダイニングテーブルを買った。
 椅子は1脚でかまわないという俺に、気むずかしそうな店主は、どうしても2脚は必要だと譲らなかった。

『僕は1人暮らしですし。1脚で結構ですよ』
『まあ、そうは言わんと。わしは営利目的で言ってるんじゃない。
 いつか必要になる日が来ることがわかってるから言ってるんだよ』

 2脚のうちの1脚は、すでに俺の身体にしっくりと馴染んでいた。
 だが、もう1脚の方は、自分の主を持たないまま、4ヶ月が過ぎて。
 今日、ようやく主を得た椅子は、いつもより誇らしげに4つの脚を伸ばしている気がする。

 俺は香穂子が手にしていたガイドブックを覗き込んだ。

「ああ。その店なら、俺のスクールの近くだな」
「え……?」
「どうしたの?」
「あ、あの、大丈夫ですか? その、スクールが近くても……?」

 香穂子は周囲を気にするように、窓の外の雑踏に目をやる。

 古い街並みが迫ってくるような狭い街路。
 日本ほど気にしなくてはいい、と言っても、俺の今の生活拠点は、ここロンドンで。

 余計な気遣いをする香穂子に、なのか、余計な気遣いをさせている俺に、なのか。
 どちらにしても、やりきれない思いが押し寄せてくる。
 ── そんなにお前が、いろいろなことを気にしなくてもいいのに。

「香穂子は何も気にしなくていいの」
「はい……」

 日本では、周囲を気にして、暗闇の中でも、俺の腕に手を添えることは、ほんの少し。
 しかも、門限を気にしながらの逢瀬だった。
 だけど、ここでは、堂々と手を繋げる。門限も気にしなくていい。
 そして、同じ場所に帰ることができる。

「お前って、大切なこと、忘れてるんじゃないか?」
「え、っと……。なんでしょう?」

 気持ちの大きさを測る方法は、ない。
 だから、香穂子とこうして会えることを、俺がどれだけ待ち望んでいたか、なんて香穂子は知るすべもないだろう。

 自分の気持ちを押しつけようにも押しつけ方がわからなくて。
 俺は、あどけない様子で見上げてくる香穂子の手を取って言った。

「ま、楽しそうにあちこち見てるお前を見ることで、俺は楽しませてもらうよ」
*...*...*
「ほら、こっち」

 観光地のような喧噪の中よりも、ゆったりとした公園や、テムズ川の畔などで会えなかった時間を埋めるのもいいかと思い、
 俺は河川近郊にある大きな観覧車に乗ることにした。
 車両は1台で30人くらいは収容できるのではないかと思うほどの大きさで。
 周囲の人間はそれぞれ思い思いの場所に立っては、窓の外を見ている。
 世界で1、2を競うほどの大輪が、夜8時を過ぎてもなお、やんわりとした光の中で浮かんでいる。

 香穂子は、会えなかった時間を取り戻すかのように、ゆっくりと話し続けた。
 火原のこと。大学のこと。就職のこと。
 それらは、柔らかな音楽のように心地よく、どれだけ聞いていても飽きることがなかった。

「柚木先輩は? スクールの講義って、全部英語なんですよね?
 私だったら、ヒアリングからしてつまづきそう……」
「慣れだね」

 俺は簡潔に告げると、説明を始めた。

「専門用語は聞き慣れないから、あらかじめ覚えていくとわかりやすい」
「専門用語、ですか?」
「どこの世界だって一緒だ。コンピュータにはコンピュータの。音楽には音楽の。
 経営学には経営学に特化した言語がある。それらは日常会話では出てこないだろう?
 俺はそれらの予備知識を仕入れておくことは、段取り部分の大半を占めると思っているけど」
「はい……。そうかもしれません」

 香穂子は生真面目な表情でうなずくと、ふと窓から見える川の流れに目をやっている。

 出会った頃は、リリと音楽。この2つが俺と香穂子を繋いでいた。
 リリはコンクール終了とともに見えなくなり、俺は高校卒業と同時に音楽を辞めた。

 だけど、何かの折りに、こうして音楽は俺たちの間に話題となる。
 ともすれば、この世のいろいろな事象を音楽の世界に置き換えて話をすることもある。

 ── 音楽は、まだ俺たちの間に、架け橋となって存在している。

 香穂子の横顔が、夕明かりの中ぼんやりと白く光っている。
 眼下に点り始めた街の灯りは、ロンドンにもようやく短い夜がやってきたことを告げる。

 香穂子は肌寒くなってきたのか、俺に一言断ると、カバンの中からクリーム色のストールを取り出して肩にかける。
 見たこともないそのストールは、俺に、香穂子に会えなかった時間の長さを伝えてくる。

 俺の視線に気付いたのか、香穂子はふと俺の方を振り返って顔を赤らめた。

「そんなに見られると、その……。どうしたらいいのかな、って」
「香穂子?」
「ヘンですよね。久しぶりだからか、どうしても恥ずかしくて」

 俺はいったん香穂子から視線を外すと、眼下に広がっているテムズ川を眺めた。
 真っ暗闇の流れの左右に、きらびやかな灯りが点る。
 今日もロンドンは、平和な1日が終わろうとしている。

「おかしなものだよ」
「はい?」
「耳はかなり鮮明に覚えているんだ。お前の音をね。
 軽やかで、可愛い。いつまでも聞いていたくなる明るい音なんだ」

 香穂子はゆっくりと頷くと、話の続きを待っている。
 優しいまなざしは、信頼し、また、信頼されているという安心感を生む。

「……だけど、ロンドンに来てから思い出すお前の顔は、いつもベソをかいて泣き出しそうな顔をしている」
「そうなんですか? でも、ベソ、って私、そんなに子どもじゃないですよ?」

 香穂子は言葉の語感が面白かったのか、くすくすと笑って応戦してきたものの、
 俺の真剣な表情に吸い込まれたように、笑いをとめた。

 近くに引き寄せ、前髪をかきあげる。
 香穂子の澄んだ瞳の中には、途方に暮れたような表情をした俺の顔が映っていた。

「── だから。目でもお前を覚えておきたい」
「はい?」


「こっちにいる間、お前は、笑っていて? ……これは俺からのリクエスト」
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