「はい! あの……。2日くらいヴァイオリンに触れてなかったので、
今日は公園で練習しようって思ってるんです」
朝ご飯のとき、スクールへ向かう準備を手早く整えながら、柚木先輩が私の予定を尋ねてきた。
私はなみなみと紅茶が注がれたティーカップを両手で持ちながら、返事をする。
ロンドンで飲む紅茶は美味しい。最初にロンドンからのメールをもらったときに、添えられていた言葉。
最初は茶葉が美味しいのかな、と考えていたけれど、こちらに来て、初めて紅茶を飲ませてもらって、香りの深さに驚いた。
きっと、同じ茶葉を使って日本で淹れても、こんなに美味しくはなれないんじゃないかな。
残念な気持ちで柚木先輩にそう告げると、『軟水と硬水の違いかもな』という返事が返ってきた。
確かに、顔を洗った感じからしてロンドンは違う。特別な化粧水で洗っているような弾力がある。
「そう。練習するなら、ウェストミンスターブリッジはどう?」
「ウェスト、ミンスター?」
「ここから地下鉄で3ブロック先にある、テムズ川に掛かってる橋なんだけど。
結構たくさんのストリートパフォーマーがいる」
「そうなんですか?」
「レベルもなかなかだ。そこで話がまとまれば即興演奏もできるかもな」
ロンドンの緯度は日本よりも高いところに位置している。
そのせいか、夏と言っても、真昼の2時間くらいを避ければ、練習をするのもそんなに大変じゃない。
「ありがとうございます。じゃあ、そこに行ってみますね」
私は柚木先輩に言われるままに頷くと、食器を手に立ち上がった。
*...*...* Corda 08 *...*...*
「このあたりがいいかな……? よし、ここにしよう!」私は、周囲を見回して、手にしていた地下鉄マップをカバンに押し込む。
そして、人の通りがそれほど激しくない一角にヴァイオリンケースをちょこんと置いた。
対岸まで続く橋をずっと見渡すと、ちらほらと楽器を携えている人がいる。
だけど、みんな、他の演奏者さんと音が混ざるのを避けるためなのか、お互い少しずつ離れた場所で自分の音を作り出している。
道行く人もこういう風景は日常なのか、それぞれ、自分を待ってくれている場所へと向かって歩き続けている。
目的を持って脚を進める人の背中って、どの人もぴんとした張りがある気がする。
(何を弾いたらいいんだろう)
弓を取り出しながら、選曲に迷う。
日本なら、みんなが知っている流行のポップスとかから始めると、とりあえず足を止めてはくれるけど。
ここはロンドン。ロンドンで今人気のポップスなんてわからない。
やっぱり、クラッシックかな。それも、第九とか、教会で使われている賛美歌系の曲がいいのかもしれない。
緩めてあった弦を、思いを込めてきつく張る。川沿いの湿った空気が立ち上るこの場所なら、少し固めがいいかな。
軽く調弦をしていると、通りかかったカップルが微笑みながら足を止めた。
「えっと、じゃあ、始めますね」
初めのフレーズを作る瞬間は、大きい舞台でも、今いる小さな街角でも、1番気持ちが高ぶる。
どうか、弾けますように。そして、どうか、気持ちが届きますように、って願いを込めるからだと思う。
私は深く息を吸い込むと、ゆっくり弓を引き始めた。
久しぶりで、指もちょっとだけぎこちない。それに、ロンドンの人たちの反応も怖い。
そんな理由から、選んだ、『アヴェ・マリア』の旋律が、低くゆっくりと広がっていく。
(懐かしい……)
旋律って、時間も空間も何もかも飛び越えて、突然自分を昔の自分に引き戻す力を持っているんだ……。
『あ、そうだ。柚木先輩、『アヴェ・マリア』、合奏していただけませんか?』
深い思いなんてなにもなくて。ただ、フルートで奏でた柚木先輩のアヴェマリアが聴きたくて。
柚木先輩と最初に合奏をしたのもこの曲だった。
あれから、5年。
── いろんなことがあったなあ……。
いろんなことを知った。あの人といろんなところに行き、いろんなことを教えてもらった。
自分の努力で、なんでもどんなことでも道が開ける、って信じてた頃。
だから、音楽は楽しかった。
自分の努力、そのままの結果を、音が返してくれた。
見知らぬ人の拍手が、私を幸せにしてくれた。
── だけど。努力じゃどうしようもないこともある、って知った。
……私が、私である限り、ダメだ、ってことも……。
「あ……っ!」
ギリリとE弦が鈍い音を立てている。
マズい、と思った時、弦は勢いよく切れて、私の頬に跳ね返った。
「ねえ、君、大丈夫かい!?」
目の前で立ち止まって聞いてくれていたお客さんの1人が驚いた表情で近づいてきた。
2メートルはゆうにありそうな大柄な人。細められたブルーの目が、光に反射して、薄いグレーに見える。
私ったら、なにやってるんだろう……。こんな指慣らしともいえる1曲目で弦を切るなんて。
「だ、大丈夫です! ごめんなさい」
恥ずかしさが先に立って、私はおろおろと英語で返事をすると、ヴァイオリンを見つめた。
そっか……。いくら川沿いとはいえ、日本とは気候が違うんだもの。川沿いだから、湿気がある、っていうワケじゃないよね。
最初は緩めに巻いておいて、あとから様子を見れば良かった。
男の人は私を抱きかかえるようにして、口早に話し続けている。
「えっと、なんでしょう……?」
この人は、なにを言ってるんだろう……。
多少英会話は勉強してきたとはいえ、イギリス英語、って元々かなり聞き取りにくい。
……ヴァイオリンを直す? 僕は弦楽器のプロなんだ。君のだってきっと直せる。……だから、僕の家、においで……?
「いえ、私。自分で直せますし、大丈夫です!」
『ノーと告げることは、大事。曖昧な言葉では伝わりません』
ガイドブックに書いてあった注意書きを思い出して、きっぱりと気持ちを口にする。
すると何を思ったのか、男の人は急にむっとした顔で私のことを睨み付けた。
「いいから、来いって!」
「イヤです!」
大きな手が私の右手を握る。べたべたと湿り気のある手の平が気持ち悪い。
恐怖の中、手首を掴んでいる指先を思う。── この人の指は、弦に触れてる指じゃない。
「……すみませんが」
私の手、その上にある男の手の上に、さらに筋張った手が重なる。
不安になって、手を思い切り引っ張り上げたとき、鈍い痛みが手首を襲った。
*...*...*
「日野さま。大丈夫でしょうか」「日野さま……? って田中さん!?」
「はい」
英語が溢れて止まらないような街で聞く、懐かしい日本語に我に返る。
この、声……、は。
「ちょうど所用もありまして、また、梓馬さまより日野さまの警護も頼まれまして」
「田中さん……」
「安全な街だと思っておりましたが、私がお役に立てる機会があってよろしゅうございました」
運転手さんの制帽をかぶっていない田中さんを見るのは初めてで、私は言葉もなく彼のことを見つめていた。
どうして、ここに……?
田中さんは私の、顔から、肩、肩から足元へと目をあてて、ふと気難しそうに眉を顰めた。
「これは……。ちょっとお待ちください」
「なんでしょう……? あ!」
ずきんと腕に痛みを感じて手首を翻す。
そこにはさっきの男の人がつけた爪痕。そしてそこから溢れる血が、白いスカートを汚しているのがわかった。
田中さんは胸の奥からハンカチを出して、くるくると私の手首に巻き付けた。
改めて、さっきの男の人に浮かんだ恐怖がよみがえってくる。
私、田中さんがいなかったら、どうなっていたんだろう……。
血……。血縁、か。
「あ、あの……。田中さん?」
「日野さま。なんでしょうか?」
「田中さんは、柚木先輩のお家にお勤めして、長いんですよね」
「はい」
「あの……。柚木先輩のお家って……」
そこまで言いかけて、言葉に詰まる。
田中さんが答えるのに辛い、って思うような質問はしたくない。
多分、柚木先輩の家は、私が感じてる家そのままなんだろう。
そして、田中さんは私がどんな風に尋ねたって、柚木先輩の家の悪口を言うことはないだろう。
一部分だけ紅く染まった白いスカートは、汚れた箇所を見せつけるように川風に吹かれてふわりと広がる。
身分、だとか、家柄だとか。
もし私が、柚木先輩と釣り合うような血が、身体の中に流れていたら、
今のような痛い想いを、もうしなくてもいいのかな。
笑って。みんなに祝福されて、柚木先輩の隣りに立てたのかな。
── もう、私は、ずっと柚木先輩の隣りには立てないのかな。
「日野さま?」
ぼんやりと血が滲んでくるのを見つめていると、田中さんが私の顔色を確かめるかのように近づいてきた。
「田中さん……」
異国の空気がそうさせたの?
それとも、怖い男の人に掴まれたことにまだ動揺してるの?
それとも血色、という毒々しい色を目にしたから?
ずっと抑えていた哀しみが、一気に田中さんへ向かっていく。
「どうして? どうしてダメなの? こんなにあの人のことが好きなのに。どうして?」
「日野さま」
「気持ちは変わらない。高校生の時から、ずっと好きだった。今も、ずっと。
── 私にはあの人しかいないのに!」
私は田中さんの広い胸が、頑なでいつまでも変わらない柚木先輩の家のように思えた。
手を伸ばしても。思い切り叩いても、変わることなくそこにある。── 努力じゃ、おぎなえない。
もう、ダメなのかな。こんなに近くにいても。こんなに好きでも。
大人の事情を理解できない私は、二十歳を過ぎても、子どもなのかな。
これ以上を望んではいけないのかな……?
どれだけそうしていたんだろう。
田中さんの手はずっと真っ直ぐに下ろされてて、最後まで私の身体に触れることはなかった。
「日野さま。大丈夫でしょうか?」
「はい。……ごめんなさい、私……」
私は田中さんから身体を引き離すと、そっと右手を持ち上げた。
ずきん、手首に痛みが走る。
おそるおそる、指を動かすと、かすかに血のにおいがした。
(左手じゃなくて良かった)
弦に触れる左手だったら、2、3日は練習ができなかったかもしれない。
9月になったら、オケ部の音合わせが始まる。練習不足だったら、みんなに迷惑かけちゃうもんね。
田中さんはしばらく私の様子を見守っていたけれど、何かを見つけたらしい。
軽く一礼して、公園の中にある出店のようなところへ向かった。
「しばらくそちらのベンチに座って、お待ちくださいませ」
「はい。……なんでしょう?」
田中さんは、店番の男の子に指を1本立てて、ポケットから小銭を出している。
私が見る田中さんはいつも運転席に座っていたり、お辞儀をしていたり、で。
立っている田中さんをそんなにまじまじと見たことがなかったけど。
こうして見るとかなり上背がある。他の国の人と交わっても、全然違和感がなかった。
田中さんは、小さな紙袋を手にまた小走りで戻ってきた。
そして朴訥な態度で、私の膝に袋を置いた。
「どうぞ」
「これは?」
「ここセントジェームスパークは、野鳥の宝庫と言います。
だからこうして国の許可を得て、移民が鳥のエサを売っているのだとか」
「そうなんですか……」
「EUに加盟しながら頑なにユーロを拒んだ国ですが、
こういうところでは、むしろポンドという通貨はあまり役に立ちませんな」
袋の中を覗き込む。そこには、まだ殻の付いたピーナツや、日本で見るよりも小さめなヒマワリの種が入っている。
日本ではほとんど見かけたことのない、ごわりとした わら半紙のような袋の色は、
この子たちにとってはとても美味しそうに見えるのか、ぱたぱたと私の足元にいろんな鳥が近づいてきた。
「どうぞ。鳥といえども、結構親しげに寄ってくるものです」
ぱらりと、右手でエサをあげようとして、痛みに顔をしかめる。
おそるおそる左手でやったら、小さなどんぐりは勢いをなくしてぽとりと足元に転がった。
つぶらな目をしたリスが、木から下りてきて私の様子を見守っている。
「わ、……可愛い」
そっと右手で、リスに向かって、殻つきのクルミを投げる。
リスは首をかしげて私の動作を見守っていたけど。
やがて、彼らは、この人はそれほど悪い人ではないらしい、というお墨付きを私に与えたらしい。
ちょこちょこと近づいてきて、短い両手でクルミを抱きかかえると、尖った前歯でカリリとかじり始めた
── 私の悪いクセだ。
今の彼がしてくれること。今、こうして一緒にいること。
今が大事だって、わかってて、つい、未来のことを考えてしまうこと。
……柚木先輩と離れたくないと願うこと。
大事なものは目には見えない。
今の柚木先輩が、今できる精一杯の愛情で包んでくれていること。
今の私の、柚木先輩を大事に大切に思う気持ちの大きさも。
エサを投げる。鳥とリスが私のあげた穀物をおなかに入れる。
それらは確実に、明日のこの子たちの糧になる。
田中さんは、少し離れた木の下で、黙って私の様子を見守っている。
袋の中が空になったのを察したのか、鳥もリスも自分たちの持ち場へ戻っていった。
── 私も、戻ろうかな。
いつもの、のんきな、本当の私に。
あの人のことが好きで仕方ない。それだけの私に。
「田中さん。あの……。本当にありがとうございます。元気が出てきました!」
歩き出した私を認めて、さりげなくすぐ近くを歩いている田中さんにそう告げると、
田中さんは静かな表情で、『それはよろしゅうございました』とだけ言った。