ドアの隙間から、部屋の灯りが零れて見える。
 今日も俺は、ぬくもりがある場所に帰る。
*...*...* Corda 09 *...*...*
「ただいま」
「あ、お帰りなさい!」

 ヨーロッパ圏の夏は、夜の9時を過ぎても、うっすらと建物の輪郭がわかる明るさだ。
 柚木の家ではともすれば、お弟子さんの出入りが激しくて、いっそ静かな環境を羨ましく思ったこともあったが。

 1度、一人暮らしを経て、1人きりの自由さと不自由さを知って。
 今こうして香穂子が部屋にいて、俺の帰りを待っているというぬくもりを知った俺は、
 香穂子が帰国したあとの寂しさに耐えることができるのだろうか。

 朝と変わらない香穂子の笑顔にほっとしながらも、俺は香穂子の手首に巻かれている黒い布に目をやった。

「おや? その手首はどうしたの?」
「……はい」
「『はい』じゃ、わからないでしょう。なに?」

 香穂子は、言いにくそうにぽつりぽつりと話し始めた。

「えっと、練習してたら、ちょっと固く巻きすぎたみたいで、弦が切れたんです。
 そうしたら、大丈夫かい? って男の人に声をかけられて。でも上手く聞き取れなくて……。
 ここじゃなんだから、僕の家で直してあげる、って言ってたような……?」

 俺は香穂子の手首を掴むと、巻いてあった男物のハンカチを解いた。

「お前……」

 見ると、手首には3本の赤い線が、鋭く肉を抉っている。
 白すぎる肌の上の3本の朱色は、鋭利な彫刻刀で丁寧に切り刻んだような美しさがあった。

「お前はスキがありすぎるんだよ。ここは日本じゃないんだぜ?
 いい人そうだったから、って、最初から悪い人の看板背負ってやってくる人間なんていないだろう」
「そ、それは……っ!」

 と、そこに、俺たちの空気を察したかのような携帯が音を立てた。

「梓馬さま」
「田中?」
「わたくしが付いておりながら、申し訳もありませんでした」

 ぼそぼそと田中が話すことをまとめると、香穂子のキズは観客に絡まれてできた、やむをえないモノ、、ということらしい。
 英会話の勉強をしてきたとはいえ、訛りのある早口で立て続けに言われたら、香穂子も聞き取ることができなかったのだろう。

「先輩、おなか空いたでしょう? 夕食にしましょう?」

 ロンドンに来てからはずっと外食が続いている、と聞いた香穂子は、俺の体調を心配して、近くのマーケットで簡単な食材を用意したらしい。
 1人用のテーブルの上、溢れんばかりに食器が並んでいる。

「これ、全部、お前が?」
「はい! 毎日のようにお邪魔してるからか、お店のおばさんが、私の顔を覚えてくれたみたい。
 いろいろアドバイスしてくれるんです」

 EUに加盟していない国とはいえ、食の世界は、簡単にEUに包含されているらしい。
 ローストビーフにサラダ。チーズに、鴨のパテ。それと焼き立てのパンが添えてある。

「……大変だっただろう?」
「ううん? そんな。先輩は勉強してるんですし、私は遊んでるだけだもの」

 俺の口調に、香穂子はほっとしたようなのびやかな微笑みを向けると、いそいそとグラスを並べている。

(香穂子……)

 人のことを思うということは、相手のためなのか自分のためなのかわからなくなるときがある。

 香穂子が笑う。嬉しいなり、楽しいなり、陽性な感情がそうさせるのだろう。
 だけど、それは香穂子自身にしかわからない。
 はっきりとわかるのは、香穂子の笑った顔を見て、嬉しいと感じる自分がいるという事実だけだ。
*...*...*
 常々狭いと思っていたシングルベッドに香穂子と2人、横たわる。
 香穂子が帰った後では、この場所も広く感じるようになるのだろうか。

「お前とずっとこうしたかった……と言ったら、お前は俺を軽蔑する?」

 香穂子の中に自身を深く埋め込みながら、尋ねる。

 快楽が言葉を押すのか、言葉が、より巧みに自分を快楽へと導いているのかわからない。
 香穂子の中は、今までにないほど熱く、絡みついてくる。

 どうしてこれほどまでの快感が背筋を這ってくるのか。
 久しぶりだからか。いつもとは違う場所だからか。
 ぞくぞくと背骨を突き抜けるような快感が、甘い毒のように身体中に広がっていく。

「ううん。私も……。ずっと先輩とこうしたかった。先輩の近くにいたかったです」

 4ヶ月ぶりに抱く香穂子の身体は、想像の中のそれよりも美しく、愛撫する場所全てが今、豊かな実りを迎えている。
 服も、そして、華奢な作りの下着も取り払ってふと見ると、香穂子の身体には、男物のハンカチだけが手首にまとわりついている。

「これも、要らないな」
「あ、でも、まだ血が……。あっ!」

 俺は片手で結び目を解くと、現れた傷を舐め始めた。

「まだ痛む?」
「ううん。……でもちょっとくすぐったい」
「知ってる? ケガした仔猫の傷は、母親が治すんだぜ?」
「ん……」
「こんな風に」

 3本の朱い溝に沿って、尖らした舌を這わす。
 そのたびに香穂子の身体も、そして俺を受け入れている内側もぴくんと小さな波を生んだ。

『お前が、懐に入るぐらいの大きさになればいいのにな』

 日本を離れるとき、香穂子に告げた言葉を思い出す。
 だけど、今は……。

「この前あんなことを言ったけど。逆でもいいかもな」

 ゆっくりと腰を進めながら、俺は話し続ける。

「逆……?」
「お前が小さくなるんじゃなくて、俺が小さくなるの。
 そうしたらお前と繋がっているここから、お前の中に入り込めるだろう?」

 香穂子は微笑んだままかぶりを振ると、俺の髪をかきあげた。
 それは、『そんなことできっこないじゃない』とも、『そうなったらいいわね』とも取れる大人っぽい哀しげな笑顔だった。

 ── こいつの選んだ道は俺で良かったかなんて、誰にもわからない。だけど……。

 俺の尖端が香穂子の1番弱いところを突いたのか、香穂子は細い肩をしならせた。

「柚木先輩、そこ……っ」
「気持ちいいの? じゃあ……。いや、今日は焦らすのを止めてあげる」
「先輩……?」
「いいよ。いっぱい気持ちよくなって?」

 日本では考えられないほど従順に香穂子は乱れ続けている。
 立ちこめる香穂子の香り。
 日本で香穂子を抱くときはいつもホテルだった。
 使い捨ての四角い場所では、香穂子の香りを愛しいと思いはしても、その後どうなるのか、という不安はなかった。

 明日、香穂子は日本へ帰る。
 1人残されたこの部屋で、俺は、どれだけの間、香穂子の香りを懐かしく、また切なく思うのだろう。

 部屋に差し込んでいた月灯りが、少しずつ動いていく。

『ほら、これ。マーケットのおばさんがプレゼントしてくれたんです!』

 2日前、香穂子がそう言って、ぽってりとした花弁を持つイングリッシュローズを持って帰ってきたことがあった。
 香穂子は毎日、ちょっと花びらが散り始めただの、茎を短く切ってみただのと嬉しそうに世話をしていた。
 月明かりの中で見るバラは、今、まさにハラハラと自身を散らし始めている。

 花は一瞬たりとも同じ顔を持たない。
 どんなに素晴らしい素材であっても、生けた瞬間を最高として、徐々に年老い、衰えていく。

 すっかり弛緩しきった香穂子の身体を抱きかかえる。
 ── 思い、思われるこの時間と場所が、このまま、止まれば、いいのに。


 3回繋がった後、香穂子は愁いを含んだ微笑を浮かべて、俺の足元に座った。

「柚木先輩?」
「なに?」
「……このことも覚えておいてください」
「おい、香穂子?」

 香穂子は勢いの無くなった俺自身を口に含むとゆっくりと舌で転がし始めた。
 添えられた細い指が、唇に合わせて上下する。
 たくさんの男女の仲にはそれぞれの仲にそれぞれのルールが存在するのだろうが、
 今まで俺は香穂子にこの手のことを強要したことはなかった。

 自分の快楽よりも、香穂子の快楽を見守っている方が良かった、と言ったら、また香穂子から責められそうだけれど。
 現金にも勢いを増してきた自身が、香穂子の口内を侵していく。
 頬張り切れなくなったのか、香穂子の口から、小さな吐息が零れてきた。
 俺は香穂子の背に手を当てると体位を変えるように促す。

「お前のもしてやるよ。ほら……。おいで?」
「……ダメ、です。私ができなくなっちゃうから……っ」
「してもらうばかりじゃ、性に合わないんだよ。……じゃあ、そうだな。上においで」

 さっきの快楽の名残が残っているのか、膝を震えさせながら、香穂子は俺の上にやってきた。
 華奢な首。肩へと流れる柔らかな線。
 細い骨格を豊かな肉が包んでいる胸。
 少年のようなまっすぐな腰の先には、柔らかな茂みが甘い匂いを漂わせている。
 俺は香穂子の中、全てを確認するかのように、徐々に深く重ねていった。

「あ……っ。ダメ、そこは……っ」

 とろけそうな顔で、香穂子は否定する言葉を繋ぐ。
 そんな唇が可愛くなって、俺は半身を起こすと、自分のそれで覆った。

 視界の端、香穂子が世話をしていたバラがまた、はらりと花びらを落とす。
 永遠なんてどこにもないのに。
 考えたことも、期待したこともない俺が、香穂子にだけは、願いたくなる。

「お前、さっき言っただろ?『覚えてて』って。
 だけどね、俺は、覚えてるつもりはないぜ?」
「え?」

「── 覚えてる必要はないだろう? お前はこれからも俺のそばにいるんだから」
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