汚れがない白いシャクヤクの裏に、見苦しい虫食いを見つけたような感覚だ。
黄ばみは、巣くい、広がり、やがて、花全体を浸食する。
忌々しさがこみ上げてくる。
俺は次のページをスクロールさせるのも忘れて、メール画面を凝視していた。
『お兄さま。雅です。
お祖母さまのご指示で、以下のクリスマスパーティにお兄さまもお顔を出すようにって言われたので、お話します。
なお、12月24日は、上のお兄さまが、12月26日は下のお兄さまもいらっしゃるとかで、不参加はマズイかも、よ?
気をつけて』
*...*...* Corda 10 *...*...*
夏に香穂子が帰国した際、香穂子のモノは何1つ残っていなかった。滞在中には賑やかに並んでいた化粧品のボトルも、跡形もなくなくなっている。
あいつは、ベッド、ダイニング、バスルーム。こげ茶色のフローリング。
いや、空気までも綺麗に掃除して、帰国したらしい。
── 香穂子は、いつもこうだ。
そのときは、確かにここにいて笑っていたはずなのに。腕の中で抱き留めて、女の声も聞いたというのに。
視界から消えた途端、存在さえも残らない。
残って欲しい、と思っていたベッドの中の香りも、香りの主が消えると同時に、姿を消した。
視界に焼き付けたいと思っていた、香穂子の笑顔も、今は少しだけ遠くにぼやけて。
毎日、思い出すのに、昨日よりは今日、今日よりは明日、時間が必要になっているのを感じる。
そうして俺の中の香穂子の記憶は、また音だけになる。
夏休みの時のように12月も香穂子をロンドンに来させようかと考えていたが、
お祖母さまもそれなりに策を練った、ということらしい。
しかも、長兄と次兄が来る、ってことは、もっともらしい理由をつけて、この部屋の偵察にもやってくる、ということだろうか。
しかも、12月26日は、スクールのレポートの提出最終期限日でもあった。
年内にケリをつけたいという考え方は、日本であってもイギリスであっても、それほど大差はないらしい、か。
3ヶ月前の夏の日。
香穂子は確かにここにいて。
お気に入りのメロデイを口ずさみながらカップを洗ったり。空を見たり
香穂子がいる空間に慣れなくて戸惑っていた俺も、だんだんそれが当たり前になって。
── 残された人間はいつまでも残像に囚われる。
『来年のクリスマスも一緒にいてくれますか?』
付き合い出して初めてのクリスマスの夜、そう告げられた。嬉しかった。
やっと、自分の、自分だけの居場所を見つけた。そう思った。
『毎年ね、クリスマスの日は、2人だけのアンサンブル、しませんか?』
香穂子からの提案で、それからの5年間というもの、クリスマスの夜は、俺にとって、音楽の世界に戻る大切な1日になった。
『えへへ。音大の先生が聴いたらビックリしちゃうかも……』
愛の挨拶から始まって、いろいろなクリスマスソングの後、1番最後に2人で合わせるのが、フォーレの子守歌だった。
『お前が、いつも穏やかな気持ちで眠れるようにね』
冷たい手触りのフルートが、やがて、自分の体温よりも高く熱くなる頃。
俺たちは楽器を置いて、貪欲に求め合う。そんなクリスマスだった。
── 音に、香穂子に、囚われる。
メールが来たことを告げるアラームが、PCから響く。
俺はテキストを静かに閉じると、音のした方を振り返った。
この予感は、多分、香穂子。
『わかりました。ロンドンの冬は寒いと聞きました。どうぞレポート頑張ってくださいね。
3月の帰国、楽しみに待っています。
もう、待つ時間の方が、ずっと短くなったんだもの。大丈夫です。
いい子で待ってますね』
短い文面の中に、3回も現れる『待つ』という言葉。
気丈に振る舞いながらも、PCの電源を落とした後、ぼんやりと黒い画面を見つめている香穂子が目に見えるようだった。
── 今の俺と同じように。
『お前、クリスマスはどうしてるの?』
『えっと……。お姉ちゃん相手に、今年のクリスマスは、ソロにチャレンジします(笑)
1曲、素敵なクリスマスソングをマスターしたの。お姉ちゃんのリクエストなんです。
柚木先輩にも届きますように! エイエイオー!(^o^)』
クリスマスのスケジュールを尋ねると、逆に俺を気遣う、明るい調子のメールが返ってきた。
*...*...*
「おお。じゃあ、もうすぐMBAも取得できそうだ、と?」「そうですね。予定通りに行けば」
「日本人の勤勉さ、賢さは、人類の宝だと私は思っているよ。
こういうのは、種族によってかなり面白い統計が取れる。君は知っているかね?」
「そうなのでしょうか?」
「ああ。そうとも。インド人は勤勉だが、融通がきかない。ヨーロッパ人は、大概において、適当だ。
位の1桁がずれていたって大した問題じゃないと考えている輩もいる。
そんなバグを許すコンピュータを作ったアメリカ人のビル・ゲイツが悪い、と責任転嫁するのも、ヨーロッパ人に多いね」
えんじ色のベレー帽を深々とかぶった初老の男性と話を合わせながら、俺は誰にも分からないように、そっと溜めていた息を吐いた。
周りの人間は、優雅に低い声で談笑している。
遠くから、長兄のやや取り澄ました笑い声が聞こえる。
周囲の雑踏。俺、1人、どこにも属し切れていない、違和感。
世界中のどこでもない場所で、1人俺は立ちつくしている気がする。
ファミリークリスマスといって、25日の夜は、いっきにイギリス中が静まりかえる。
みんな、恋人や家族、愛しい人と過ごす、とっておきの日。
── 俺は、今、一体どこにいるんだ。
『もう、他の人に任せるとか、言わないでくださいね』
『私、柚木先輩がいい』
空耳とは思えない、香穂子の声が聞こえてくる。泣いているようさえ思えてくる。
「すみません。急用を思い出したものですから、僕はこれで失礼します」
目の前の男性は、一瞬俺の態度に面食らったような表情を浮かべた後、茶目っ気たっぷりに目を細めた。
「── 会いたい人が、できたかな?」
「は?」
「できるだけ急いだ方がいい。
わし のつたない人生経験からも、本当の自分をさらけ出せる人間というのは、1人。多くて2人だ。
逃してからでは遅すぎる」
思いがけない言葉に、俺は改めて男性を見つめる。
長い眉毛がブルーの目を覆っている。その奥には、年若い俺を慰めるような、励ますような暖かい色が灯っていた。
俺の口は、知らないうちに気持ちの奥底に留めていた想いを話し出した。
「……辛いですね。今、僕の求める相手は、遠くに隔たっていますから」
「なに。まず、気持ちをぶつけて、それから、考えるなら考えればいい。1人きりの時間などいくらでも取れる」
そう言って男性は、かぶっていたベレー帽を取ると、俺に軽く一礼する。
「では、君にも、メリークリスマス。神のご加護がありますように」
「ありがとうございます。あなたにもどうぞ神のご加護を」
会いたいと思う気持ちが、俺の脚を走らせる。
お祖母さまは、距離さえ離れていれば、そして、離れている時間が長ければ、俺の香穂子への想いも消えていくと思ったのだろう。
俺も香穂子もそのことが不安で。
だから、言葉を尽くして、愛しさを伝えて。身体で教えて。
そうすることで、時間や距離の隙間を埋めようとしてきた。
凍てついた月が、暗闇に張り付いて、テムズ川にかかったロンドン橋を思いがけず美しく照らしている。
何度も作っては、天災によって、人の手によって壊されて、また、作られた橋。
今ほどの技術がなかった頃、人は、魂の力によって橋が破壊されることが阻止できると思っていた。
だから、この橋の元には、たくさんの人柱が埋まっているという。
俺には、理不尽な理由で恋人から引き離された人たちの怨念が立っているように思えた。
離れているから。遠いから。だからこそ、より深くなる想いだってある。
俺は空港のカウンターまで足早に歩き続け、受付をしている女性に話しかけた。
「ヒースローから日本まで。今夜の便のキャンセルは?」
「落ち着いて。Mr. もう1度お伝え願えませんか?」
「今日中に、日本に着きたい。キャンセルは発生していないかと聞いているんだ」
ややもすれば、落ち着きのない声に、自分の面影すらないのが不思議だ。
(香穂子)
この残存記憶が、今の俺を作っている。── あいつなしではいられない。
30分後、俺は、機上の人になった。
眼下にクリスマスのイルミネーションに囲まれた、暗黒のテムズ川が横たわっている。