*...*...* Corda 11 *...*...*
「わ。お姉ちゃん、外を見て? ホワイトクリスマスになりそうだよ?」「なに、香穂子。ご機嫌ねー。犬は喜び庭駆け回り、って感じ?
あんたの場合、本当にやりそうでちょっとコワイ」
「お姉ちゃん、またそんなこと言う……」
部屋との気温差がかなり出てきたのか、曇りガラスの表面に大きな水滴が生まれては落ちていく。
ローボードの上にある小さなツリーと、緑と赤のクリスマスカラーのリボン。
お姉ちゃんに子どもっぽいと散々冷やかされながらも、クリスマスの飾り付けをした部屋は外とは違う暖かみに満ちていた。
── クリスマス、か。
『来年のクリスマスも一緒にいてくれますか?』
初めて柚木先輩と一緒にクリスマスを過ごしたとき、おそるおそる告げた言葉。
恥ずかしくて。否定されるのが怖くて、彼の目を見ることができなかった。
だから、悔しそうに歪められた頬の線だけを覚えてる。
『── お前がそれを望むなら、ね?』
その言葉通り、あれからずっと、5年もの間、私は柚木先輩と一緒にクリスマスを過ごしてきた。
フルートとヴァイオリン。
高校を卒業後、音楽から遠ざかった柚木先輩と、合奏をする年に1度の夜。
どのカップルもそれぞれ、いろいろなクリスマスの祝い方があるのだろうけど、
私と柚木先輩は、毎年同じ過ごし方を、飽きることなく、まるでそれしか知らない子どものように、繰り返していた。
(飽きる……?)
『飽きる』という言葉を不思議に思う。
どうして、他の人たちは、すぐカレシさんに飽きたりするんだろう。
短い人は3ヶ月。短くない人でも1年くらい経つと、相手に対して飽きるって言葉をよく使う。
大学で知り合って仲良くなった悪友たちは、何度も興味深そうに私に尋ねてきたこともあった。
『ねえねえ、5年も1人の人、って飽きない?』
『そうそう。ちょっと別の人と付き合ってみよう、とか考えたことないの?
大学も違う。しかも相手は留学中。他の人と付き合ったって、相手に見つかる心配もないのに』
そうなのかな……。みんなそういうものなのかな。でも。
── 柚木先輩が私に飽きるかも、ということは考えたことはあったけど。
その逆、私が柚木先輩に飽きる、なんてこと、考えたこともなかった。
好きで。……好きで。大切過ぎて。
「香穂子ってば。そこで浸らないの。ほら、お湯が沸いたよ。紅茶淹れるんでしょ?」
「あ、はい」
お父さんとお母さんは、今日は珍しく2人でデートだ、なんて言って出かけて行った。
日頃、家のムードメーカーのようなお母さんがいないだけで、リビングはどこか他所の家のようにぎこちない。
『香穂子。お父さんがね、何十年ぶりかにデートに誘ってくれたのよ。しかも、クリスマスディナーつきなの!』
『そうなの?』
『お父さんもやるねえー』
お互い顔を見合わせて、驚きの声を上げた私とお姉ちゃんに、お父さんは笑って言っていたっけ。
『子どもたちも大きくなったしな。これからは母さんだけが頼りだから』
久しぶりに、華やかなお化粧を施して出かけた母さんの頬を思い出す。
いつも顔色が悪いのを気にして、頬紅を濃く塗る頬が、お化粧以上につやつやと輝いていた。
── その頬が、まぶしいな、って思ったんだ。
私は、どうかな?
大好きな人が今、近くにいなくても、自分らしく、ちゃんと笑えてるかな?
「ま、妹と一緒にクリスマス、っていうのもなかなかオツなもんよね」
お姉ちゃんはお皿とフォークをリビングに運んでくると、豪快に笑っている。
小さい頃、このお姉ちゃんの明るい性格に、家族中、いつも笑ってたことを思い出す。
ちょっと年が離れていたこともあって、お姉ちゃんとはあまりケンカをしたこともなく、大きくなったっけ……。
私はティーサーバとカップが載ったトレーを手に、お姉ちゃんのあとを追いかけた。
「でもごめんね。今日はお姉ちゃんのカレシさん、どうしてるの?」
「就職すると難しいね」
「え?」
ティーサーバの中、紅茶の葉っぱは粉雪のように落ちては舞い上がる。
さらりと大切なことを告げられたような気がして、私は顔を上げるとお姉ちゃんを見つめた。
「そ、それって、離れていると難しい、ってこと?」
「あー。違う違う。そうじゃないって」
柚木先輩の留学のことで少し……、ううん、かなりナーバスになっている私を気遣って、お姉ちゃんは大きく肩をすくめた。
「仕事が忙しくて、なかなか会えないってことよ。
彼、今日どうしても抜け出せない大事な商談が入ってるの。
その分、明日はゆっくり会う約束してるんだ」
「なんだ。良かったー」
昼から2人で作った、シュトレーン。
中に入れるドライフルーツは、12月の声を聞いてすぐ、ラム酒に漬けたのが良かったのか、
今年は思ってた以上の出来映えで、味を馴染ませるために半日寝かせていたのが、待ち遠しくて仕方なかった。
「香穂子。紅茶、オッケイ?」
「はい!」
「こっちもオッケイだよ。そろそろ食べよう」
かちゃかちゃとお姉ちゃんはとっておきのお皿を並べると、その上に大切そうにシュトレーンを置いた。
私は、きゅっとティーサーバのバーを下ろすと、なみなみと金色の液体を白いカップに注ぐ。
お菓子を作るとき。上手く出来たとき。
いつもあの人は褒めてくれたっけ。
たくさんの量を食べる人じゃないから、私はいつしか、小さなお菓子ばかりを作るようになった。
今日のこのシュトレーンだって、きっと食べたら喜んでくれた、だろうけど……。
「あ、っと……」
ソーサーが傾いだのだろう。2つのティーカップがケンカでもしてるかのようにぶつかりあって乾いた音を立てた。
うう、なにやってるんだろ……。
柚木先輩が、このクリスマスは、お家の関係のパーティが立て込んで忙しいのはわかってたはず。
忙しいのに、メールも電話もくれて。
私も大丈夫、って言ったのに。
今、私には、お姉ちゃんがいる。
そしてもうすぐ、
『やっぱり早く帰って来ちゃった。ほら、あなたたちの好きな、甘いものが売ってたのよ』
そう笑いながら帰ってくる、お父さんお母さんもいてくれる。
だから、私は、そんなに悲しむことなんてないのに。
「よし、日野香穂子・クリスマス・ソロリサイタル、開催〜」
紅茶を一口飲んだあと、お姉ちゃんはご機嫌に、パチパチと大きな拍手をくれた。
「はい! じゃあ、始めまーす!」
シュトレーンの甘さを口に残したまま、でも、指だけは清潔なおしぼりで綺麗に拭って、私は立ち上がってヴァイオリンを肩に乗せる。
目の前のお客さんは、お姉ちゃん、ただ1人。
だけど、心の中に思い浮かぶただ1人の人のことも思って、音を作る。
5年前、リリからもらった、金色のE線。
E線は切れやすい、ってずっと聞いていたし、経験的にもそれが事実だと知ってる。
だけど私は、クリスマスの日だけはリリからもらったE弦を心を込めて、張り直し、調弦する。
リリという音楽の妖精が私と柚木先輩を結びつけてくれた。
それが事実なら。
この弦が切れない限り、私と柚木先輩の関係は、途絶えることはない。
── そう、信じていたかったから。
届かないはずの音を奏で、届かない声を響かせる。
ねえ。柚木先輩、聞こえてますか?
ロンドンは寒い、ってメールにあったけど、体調崩していませんか?
つきあい出して、5回目のクリスマスは、会えなかったけど。
私、ずっと、柚木先輩が好きなままです。
来年のクリスマスは、どうか一緒に過ごせますように。
── 会えない夜も、そばにいる日も、ずっと、ずっと、恋が続きますように。
想いをヴァイオリンに乗せて一気に弾き終えると、シュトレーンを頬張っていたお姉ちゃんが、ぱちぱちと拍手をくれた。
「えっーっと、香穂子。こういうとき、なんて言うんだっけ?」
「あはは。『ブラボー』かな?」
「よっし。でもこのかけ声って音楽に慣れてない人からすると、結構恥ずかしいんだよね。えっと?」
「お姉ちゃんたら、『ブラボー』だよ?」
「よし。じゃあ、いくよ〜! 『香穂子〜。ブラボー!!』」
「えへへ。ありがとう……」
お姉ちゃんの笑顔にほっとしながら、ヴァイオリンをケースに片付ける。
演奏したあと、リクエストをくれた人がくれる拍手って暖かい。
(香穂子)
「あ、あれ? なんだろ……?」
ふと、耳元で、私を呼ぶ声がする。
それが幻にしては、あまりにも耳朶に強く残っていて、私は辺りを見渡した。
「ん? 香穂子、どうしたの?」
「う、ううん……。なんだったんだろ……」
柚木先輩が留学してから、約9ヶ月。
何かの折りにふと聞こえる、柚木先輩の声が聞こえることがあった。
不思議に思いながらも、PCを起動すると、柚木先輩からのメールが飛び込んでくる。
そんなことが多かったから、今ももしかしてメールをくれた、のかな。
時計を見つめる。
この9ヶ月の間に、私の頭は、瞬時にロンドンの時間を考えるようになっている。
あれ、今、ロンドンの時間は、お昼前くらいの時……。
柚木先輩は、パーティで忙しい頃、なんじゃないかな。
私は持っていたカップをソーサーに戻すと、お姉ちゃんに話しかけた。
「お姉ちゃん、ごめんね。ちょっと、PCを見てきていいかな?」
「うん、いいよ〜。私、ちょうど見たいテレビがあったんだった」
暖かいリビングを抜けて、階段を上り始めたとき、玄関でチャイムの鳴る音がした。