*...*...* Corda 12 *...*...*
 玄関の灯りが灯る。
 家の主は、玄関の奥、突然の来客に不安そうに行き来している。
 やがてインターフォンから、小さなくぐもった声が響いた。

「あの……。どちらさま、でしょう?」
「夜分に恐れ入ります。柚木と申しますが」
「柚木くん……? あ、あの、香穂子の……?」
「はい」
「すみません。ちょっとお待ちください」

 香穂子をやや低くしたような、大人っぽい雰囲気の声が、俺の名前を聞くやいなや、早口になった。
 玄関の影は2つになり、勢いよくドアが開かれる。中からは、暖かい空気が流れ出ている。

「柚木、先輩……? あれ、どうして……?」

 二の句が告げられないのか、香穂子は目を潤ませて俺を見上げた。
 香穂子の姉は、一旦室内に戻ると、コートを羽織って再び出てきた。

「あ、お姉ちゃん。どこ行くの?」
「香穂子。私ちょっと用事を思い出したから、出かけるわね。ちゃんと接待するのよ?
 柚木くん、いらっしゃい。寒いでしょう? どうぞ早く中に入って?」

 香穂子の姉はにっこりと俺に微笑みかけると玄関の奥を指差した。
 香穂子より、やや大柄なふっくらとした体格。
 だけど笑うとどこか口元が似ている気がする。

「突然すみませんでした。ありがとうございます」

 この寒空の中、しかも、かなりの軽装で香穂子の姉は手をひらひらさせて出て行った。
 申し訳なく思う気持ちもあったが、今は素直に嬉しかった。
 香穂子は暖かそうな冬物のスリッパを並べると、頬を赤らめた。

「寒かったでしょう? 今、紅茶淹れ直しますね」
「紅茶?」
「はい。お昼にお姉ちゃんとクリスマスのお菓子を焼いたんです。
 今、お姉ちゃんのリクエストの曲を弾いて……。今からまた食べるところだったの」
「シュトレーン、か」

 このお菓子は見覚えがある。
 ロンドンでも、12月に入ると、町中のショーウィンドウが、この不格好なこげ茶色の菓子1色に染まる。
 味も確かめないまま、忙しい毎日を過ごしていたが、ある時、熱心なクリスチャンの級友が教えてくれた。

『シュトレーンは、キリストのゆりかごをモチーフにしてるんだ。昔は不格好なゆりかごが多かったからね』
『おや、そうなの?』
『日本って、いろんな宗教があるって聞いてる。ユノキの家ではシュトレーンは食べなかったのかな』
『ああ。まあね』

 日本の作法以外の過ごし方、祝い方というのを、柚木の家ではしてこなかったことに、俺は頑なな家の土台を感じる。
 無宗教である自分の扱いに、それほど困った経験はないが、
 どんな堅物でも、クリスマスの時だけは片頬にほほえみを浮かべているのを見るにつけ、
 宗教というのは悪くない、と思うことが多くなった。

「あ、はい。よく分かりましたね。ちょっと不格好な可愛いお菓子ですよね」

 香穂子はくすくす笑いながらキッチンに向かおうとして、一瞬考え込んだ後、くるりと俺の方に向きを変えた。

「── お帰りなさい。柚木先輩」
「……ただいま」

 俺は笑って香穂子の鼻をつまみ上げた。

 低くもなく高くもない。すんなりとした鼻。
 初めて香穂子を見た人間は、まず色の白さに目を惹かれるだろう。

 はっと見つめ直してまず印象に残るのは、目が合った瞬間に吸い込まれそうになる澄んだ目元。
 それに、笑ったときに覗く、白い歯だ。
 そんな印象的な上下の部位に囲まれて、香穂子の鼻はともすれば、希薄な存在に甘んじている。
 だけど、俺はこいつのここに触れるのが好きだった。

「と、突然、なにするんですか……」
「挨拶の1つかな」
「……あ、もしかして、ロンドンでは、こういう挨拶が流行ってるんですか?」
「ははっ。そんなわけないだろう?」

 真顔で尋ねてくる香穂子に思わず笑みがこぼれる。
 お湯がちょうど沸いていたのだろう。
 香穂子は、客人用のティーカップに湯気の立った紅茶を淹れて、俺の前に差し出した。
 暖かい部屋の中、さらに小さく火が灯ったような感覚だ。

 ── そう。この空気を感じたかったんだ。

 華やかな場所でもない。目の前の女の子は、派手やかな化粧をほどこしているわけではない。
 だけど、本当の自分をそのまま受け入れてくれる、こいつに会いたかったんだ。

 俺は紅茶を口に含んだ。
 血液の通っていなかった部位に、徐々にぬくもりが流れていく。

「お前を見たら元気が出た。今夜の便で帰る」
「え? 今夜ですか?」
「明日、どうしても抜けられないパーティがあってね。顔出ししておかないと後が厄介だから」

 香穂子は唖然とした顔で俺を見上げた。

「な、なに言ってるんですか?
 12時間もかけて日本に来て、それで、2時間しか日本にいないで、また12時間かけてロンドンに帰るの?」
「かまわない。こうしてお前に会えたからね」
「でも!」
「── お前のせいだよ。お前はいつも俺に俺らしくない行動を取らせる」

 香穂子の滑らかな頬に指を這わす。
 香穂子はくすぐったそうに俺に指に頬を預けた。

 この愛しい存在を、毎日見ないで、どうして今までやってこれたのだろう。
 こいつへの想いはいつになったら、乾くことがあるのだろう── 。

「えっと、じゃあ……。今、夜の8時、ですよね。えっと……?」
「23時のヒースロー行きに乗る。この家に居られるのは、あと2時間くらい、か」

 俺は香穂子の髪をかき分け、白い襟足を思い切り吸い上げた。

「い、痛い……っ」
「この痕が消える3月には、帰ってくるよ。だから、もう1度」

 朱い鬱血の上に、さらに唇を置き、何度も強く吸い上げる。
 鼻先で香る、香穂子の髪。

 確かに、こいつは今、ここにいて。俺の腕の中で身体を預けていて。
 距離はある。障害も、ない、とはいえない。
 だけど、想い、想われている2人の気持ちは変わらない。

 紅茶のぬくもりが篭もった部屋。
 俺の想いを感じたのだろう。香穂子は息を詰めて痛みに耐えている。
 俺は最後に朱い部位を舐めると、抱きかかえていた腕を解いた。

「柚木先輩、あの……。これ」
「ああ。わかった? でもお前の前で、別に隠す必要もないし」

 猛り狂った自身の一部を、隠すことなく香穂子に押し当てる。
 香穂子は困ったように布の上から高ぶりを撫でた。

「……お前を抱くと、離れられなくなりそうだからな」

 ぽつりと本音を漏らすと、香穂子は必死にかぶりを振って否定してきた。

「そ、そんなことないです! 私、ちゃんと、柚木先輩から離れます。
 一緒にロンドンへは行けないの、わかってるし……」



「── 馬鹿。俺が離れられなくなるんだよ」
↑TOP
NEXT→
←BACK