柚木先輩に会えた日には赤丸のつけたカレンダー。
だから、1個の赤丸も付かないまま、捨てられた紙も多かった。
たくさんたくさん赤丸のついた8月は、捨てるのが惜しくて。
9月が過ぎて、10月になる頃、私はようやく8月のカレンダーをめくった。
改めて目の前にある3月のカレンダーを見つめる。
『3月12日。この日に日本に帰る。お前、都合はつきそう?』
何度も読んで。文面まで暗記して。
それでもまだ足りなくて、食い入るようにPCとカレンダーを交互に見つめた。
── 今日、ようやく柚木先輩は帰ってくる。
*...*...* Corda 13 *...*...*
私は空港のロビーに到着すると、大きく息を吸い込んだ。あたりは、帰国した人、旅立つ人独特の熱気に満ちている。
帰国した人は、雰囲気だけでパッとわかる。
どの人もみんな、ほっとしたような優しい表情を浮かべているんだもの。
どうかな……。柚木先輩、変わってないかな?
旅立つ人たちみたいに、厳しい顔、していないといいな。
ぼんやりとあたりを見回す。
とそこへ、凛とした風情の2人連れが、私の視界に飛び込んできた。
「あ……。あれ、ってもしかして……」
あの豊かな白髪に見覚えがある。
隣りにいる女性はもう少し若いみたい。着物の色が明るい。
視界から得る刺激は、理性よりも先に感情を動かす。
初めて、怖いって思った女の人。道行く人が振り返る、毅然とした態度。ピンと張った背中。
心持ち、初めて会った高3の頃よりも痩せたような肩。
だけど、私が見間違えるということは、考えられない人
── 柚木先輩のお祖母さまだ。
どうしよう。どこにいたら、いいんだろう。私……。
この前柚木先輩からきたメールには、特にお祖母さまのことにはなにも触れてなかったし、
私自身も、まさか、お祖母さまがお迎えにきてるなんて考えていなかった。
気が回らない自分が恨めしくなる。こんなことなら、雅ちゃんに一言聞いてみればよかったのに。
私は、息を潜めて柱の影に隠れた。
どうしよう……っ。
突然肩の上に、ぽんと威勢の良い感覚がある。
「ひゃっ!!」
「香〜穂ちゃん! あれ? 香穂ちゃんも柚木の出迎えに来てたの?」
「は、はい!? あ、火原先輩……っ」
「じゃあ、おれと一緒に行こうよ」
最近、お気に入りなんだよ、と言っていた黒の帽子を深くかぶった火原先輩はなんの屈託もなく、私の背を押した。
「で、でも、待ってください。あの……っ。見て? ほら、柚木先輩の家の人が」
「あ! ……と、香穂ちゃん……。だから、香穂ちゃん、そんな端っこでぼんやりしてたの?」
「は、はい……」
火原先輩は痛そうな表情を浮かべて、私の顔を見つめている。
同情したような、悲しそうな視線は、今の自分の立ち位置を再確認させられているみたいで、余計に言葉に詰まる。
どうしよう。やっぱり、帰った方がいいかな……。
火原先輩は、口を尖らせて何かを考え込んでいる。
でも、やがて、ぱっと明るい顔になると、わたしの顔を覗き込んだ。
「そうだ。香穂ちゃん。変装しよっか?」
「変装、ですか??」
変装、って、よく、探偵さんがサングラスをかけたり、お髭付けたり。
マフラーをくるくると巻いたりする、あれ?
変装……?
「いいよいいよ。おれが手伝ってあげるから」
「待ってください。変装、って、あの、私が、変装、するんですよね……?」
「そうに決まってるじゃん。柚木の出迎え、したいんでしょう? まずは、っと……。はい。これ」
火原先輩は自分がかぶっていた帽子を私にかぶせた。
「わっ。……ぶかぶかです」
「可愛い可愛い。あとは、っと……。香穂ちゃんのイメージがガラっと変わればいいんだよね。
あ、そうだ、このコート、はおったら?」
あとはっと、と、火原先輩はこの状況を楽しんでいるかのように、自分の服を脱いで私に着せていく。
仕上げに、火原先輩はシャツのポケットにぶら下がっていたサングラスを私にかけた。
「よっし。別人香穂ちゃん完成、っと」
「ほ、本当に、わからないですか? 私って」
「大丈夫、大丈夫」
「柚木先輩にも? わからない?」
「え? っとー。あ、柚木なら、どんな香穂ちゃんでもわかるんじゃないかな」
「本当に?」
難しい……。
相反することを一緒にやろう、なんてそもそも無理がある。
私って、わからないように変装をしているんだから、他の人に、私が日野香穂子だ、ってわかっちゃいけない。
だけど、柚木先輩には、私はここにいるよ、って伝えたいんだもの。
到着アナウンスの声が次々と聞こえる。
「ご連絡いたします。ボーイングN256号、まもなく到着時刻となりました。お出迎えの方は第8ゲートまでお越し下さいませ」
「あ、もうすぐ到着みたいだね」
「あ、あの。火原先輩、ちょっとここで待っててください!」
「香穂ちゃん?」
私は火原先輩に頼み込むと、そのまま出口の方に走り抜け、レストルームを探す。
隣のゲートではたった今乗客が降りてきたからか、大きな抱擁とキスを繰り返している人がいる。
(私……)
ここにいる私のことを気づいてもらいたくない。だけど、大好きなあの人にだけは気づいて欲しい。
空港内のレストルームに取り付けられている鏡は、どれも大きい。
きっと、大きな体型の外国人を標準に作られているのかな。
私は、カバンの中からごそごそと小さな布袋を開けた。
高校生の時に、柚木先輩からもらった、京紅。
蛤の中に含ませてある濃い朱色は、普段の私の顔では、浮いてしまうような、血のような色。
だけど、今日の私なら、大丈夫。だって変装してるんだもの!
サングラス越しに、私は鏡の中の自分を見つめると、そっと紅筆を持ち上げた。
*...*...*
「火原先輩、お待たせしました」私はぱたぱたと背後から小走りに火原先輩に近づいた。
いよいよ搭乗していた人が降りてきたのか、ゲートの周りは、だんだんと人が集まりだしている。
ゲートがザワザワしていると思ったら、1人、髪の長い細い人が歩いてくるのが分かった。
後ろに1つに髪をまとめている。ラフにまとめた髪は、歩くたびに、はらりと後れ毛が揺れ、
周囲の人のざわめきとともに、彼の背景を華やかに装っていた。
中には、有名人なのか、と写メの準備を始める人までいる。
(柚木、先輩……?)
柚木先輩は、まずゲート出口すぐ近くにいたお祖母さまとお母さまに挨拶を交わした。
……また少し、彼を遠く感じる。……やっと帰ってきてくれたのに。
「梓馬さん。長旅お疲れさまでございました」
「いえ。お出迎えありがとうございます。お祖母さま。お母さま」
「まあ、しばらく見ないうちにご立派になられたこと。ねえ。あなた」
「は、はい」
柚木先輩を出迎えているお祖母さまは、隣りにいる品のいい中年女性に話しかけた。
柚木先輩と髪の質感がとても良く似ている。……柚木先輩のお母さまかな。
高い声が雑踏を通して聞こえてくる。
「あの方はどうやら……。いらしてないようですね」
そんなお祖母さまの声が聞こえる。
お母さまは小さく頷いている。唇が動いた様子から、なにか相槌を打ったのかもしれないけど、声までは届かない。
「遅いよ〜。香穂ちゃん……」
火原先輩は、周囲を気遣って、私のことを小声で呼んだ。
「……って、きみ、本当に香穂ちゃん?」
そうして私の顔の変化を認めると、驚いたように大きく目を見開いた。
「えーっと……。あの、変装の最後の仕上げをしてきました。えへへ……」
「最初、全然わかんなかったよ。変装大成功、ってところ?」
「そう、かな……。大丈夫かな」
「香穂ちゃん、って色が白いんだね。なんか、おれ、ドキっとした」
「は、はい? あ、やっぱり似合っていませんか?」
率直すぎる感想に、不安で固くなっていた指先の温度が、ぐぐっと下がった気がする。
やっぱり……。
いつも淡いピンク系かベージュ系。時間がない、っていうときは、リップクリームを塗って、そのままにしてしまう唇。
そこに、緋色よりも濃い朱を塗ったんだもの。
紅を塗った本人の私さえ、今、鏡を覗き込んだら、知らない人の顔を見ているような気持ちになるかもしれない。
どうしよう……。今から取り除こうにも鏡もない。マスクも、ない。
なるべく唇が見えないように俯いていると、隣りから火原先輩のあたふたした声が聞こえた。
「違う! そうじゃなくて……っ。ああ、もう、なんて言ったらいいんだろ」
「いえ、あの。私、大人っぽいの、似合わなくて……。ありがとうございます。気を遣ってくれて」
「あああーー。えっと、そうじゃなくて、さ。……って、あ、柚木、こっちに来るんじゃない?」
柚木先輩は私たちの姿を認めたらしい。
おや、と言いたげに、目を上げた。。
釣られるようにして、お祖母さま、お母さまの視線が動く。
「恋人同士、って思わせた方が、いいよ。香穂ちゃん。ちょっと腕貸して?」
「はい?」
「ほら、これで、完成」
火原先輩は、私の腕を取るとぎゅっと手を握った。
「まっずいなー。おれ、これからちょっと野暮用があるんだ」
「火原先輩?」
「柚木と話、したかったんだけどなー。天候の関係で、1時間くらい到着が遅れたでしょう?
よし、そうだ、っと……」
いきなり火原先輩はグルグルと手を大きく振り出した。
私のことを気を遣ってくれているのか、いつもの快活な『柚木』コールはないままで。
火原先輩の大きな身振りに、こちらの方に顔を向けていた柚木先輩はそれに気づくと軽く手を挙げた。
火原先輩は、腕時計を指差して、そして後ろを指差して、帰る、というジェスチャーをしている。
それだけで、伝わるものがあったのだろう。
柚木先輩はわかった、というふうに頷くと、再びお祖母さま、お母さまとなにか話し始めた。
「ごめんね。香穂ちゃん。最後まで付き合えなくて。あ、服は、また今度会ったときでいいからね」
「はい。今日はありがとうございました」
すぐ数メートル先に柚木先輩がいる。
だけど、私と柚木先輩の間には、柚木先輩の家族がいる。
……いいや。会えただけで幸せだよね。
もう、これからは近くにいるんだもの。
会いたい、って思ったときに会えるし、声も聞ける。
── 今日は帰ろう。
ちらりと流された視線を受け止め、軽く会釈して帰ることにする。
また今度、という想いを込めて。
と、そのとき、柚木先輩が、お祖母さまとお母さま、2人の間をすり抜けて、私の方にやってきた。
「ああ、君。谷崎教授の秘書の方だよね?」
「は、はい?」
「── 振り向くなよ」
耳元でそう囁かれて、どきりとする。
な、なに? 谷崎教授? 秘書、って……?
「ああ。そうなの? 谷崎先生が?」
柚木先輩は独り言を言って頷くと、お祖母さまとお母さん、2人の女性の方に振り向いた。
「じゃあ今後の方針について、僕はこれから担当教官と話をしてきます。
帰りは遅くなりますので、どうぞお2人は先に帰って休んでいてください」
「でも、梓馬さん……」
「何しろ教授の方も、今日どうしても話がしたいとおっしゃっているようなので」
お母さまは、約1年ぶりに会う柚木先輩の顔を名残惜しそうに見つめている。
だけど、そんなお母さまをたしなめるかのように、お祖母さまはきりりと通る、大きな声を上げた。
「やはり殿方は環境が変わると立派になるものですね。あなたもそう引き留めるものではありませんよ?」
「はい。じゃあ。梓馬さん。時差もあるから、気をつけて行ってくるのですよ?」
「はい。お母さま」
お祖母さまは、私のおおよそ秘書とは思えないような格好を不審そうに見ていたけど、
やがて踵を返すと、ハイヤーの並んでいるコンコースの方へと歩き出した。
その後をあたふたと、柚木先輩のお母さまが付いていく。
「ほら。行くぞ?」
柚木先輩の声が、背中越しに聞こえた。