「あ、あの! どうして? あの、私、ってすぐわかりましたか?」
「当然。それがなに?」
「嬉しい。……よかった」

 それが、帰国後に聞いた、香穂子の初めての言葉だった。
*...*...* Corda 14 *...*...*
「えっと、谷崎教授、って……?」

 人混みに紛れて、空港の中を通り抜け、俺たちは以前何度か使ったことがある、空港近くのホテルへと向かう。
 香穂子はどうして今、こうして俺と肩を並べて歩いていることが、信じられないらしい。
 腑に落ちないような表情を浮かべて、俺の顔を見上げた。

「種明かし、してあげようか?」
「はい?」
「俺の大学院の担当教官。そこまでは事実。秘書がいるのも事実。
 だけど、秘書がお前じゃないのも事実。……そんなところ」
「は、はい?」

 空港内の落ち着かない雑踏を、縫うように2人、歩き続ける。

 コツコツ、と俺のすぐ後を追う靴の音に、俺は、別れた1年前を思う。
 やっと帰ってきたんだ。
 ── こいつの声が聞こえるところに。手を伸ばせば、すぐ抱き寄せることができる場所に。

「谷崎教授の秘書は、すごく有能な人なんだ。お前とは違うな」
「え? そ、そういう『違う』なんですか……」

 横目で、香穂子が身につけている衣類を確認する。
 肩からずり落ちそうなほど大きい、男物のコートが抱きしめるかのように香穂子の身体を覆っている。
 サングラスの形には見覚えがある。それに、大きなロゴが入っている帽子にも。

「それ、火原の服?」

 チェックインをしたホテルのエスカレーターの中、俺は香穂子の髪を手で梳きながら尋ねた。

「はい。あ、あの……、柚木先輩のお祖母さまもお母さまも、いらっしゃってましたよね?
 だから、もし、私がいる、ってわかったら、その」
「ふぅん」

 無理もない、か。
 きっと何年経っても、香穂子にとっては祖母は恐ろしい存在で。
 こいつが、祖母への恐怖心を完全に消し去るのは難しいことなのかもしれない。

 ── だけど。
 わかっていても、面白くない。

「今日はこのまま帰らなくても、大丈夫だろう?」
「あ、……はい」
「いい子だね。出かける前から、抱かれる準備をしてきたの?」
「ち、違います!」

 くすりと笑いをこらえてそう言ってやると、香穂子はムキになって言い返してくる。
 ── 香穂子の笑顔に、声、に、時間が戻っていく。

 香穂子は、頬をふくらませて俺の顔を見上げた。
 牡丹のような唇まで、なにか言いたげに尖っている。

「なんだか先輩、すごく楽しそうです……。生き生きしてる。
 も、もう……。もっと、なんて言うんだろう……。感動的な再会かな、って思ってたのに。
 柚木先輩、意地悪すぎます」
「諦めるんだな。お前をからかうのは俺の趣味なんだから」
「ううう……。趣味なんですか?」

 生まれ育った頃、たえず身近にあった母国語を操るというのは、こんなに気持ちがいいものなのか。
 些細な気持ちのひだのような、柔らかい部分まで、正確に伝わる。
 この開放感は、久しぶりに香穂子に会えたことも起因しているのだろう。

 やっと、こいつの近くにいてやれる。
 そう考えて、俺はふと考え込んだ。
 違う、か。
 香穂子にかこつけて理由付けをするのは正しくない。

 ── やっとこいつの近くに、俺が、いることができるんだ。

 感謝の気持ちだとか。こいつを褒める言葉だとか。
 もっと香穂子が嬉しがる言葉を繋げられたらいいのに。

 自分の生まれ育った環境にいて、心を許せる人間が近くにいてくれることに、甘えが出ているのだろう。
 今日の俺は、言わなくてもいい言葉まで、口に乗せては話し続ける。

「口紅。お前にはまだそんな大人っぽい色は似合わないよ」
「え? これ、高校の時に柚木先輩からいただいた京紅ですよ。……やっぱり、似合いませんか」
「やっぱり?」
「火原先輩も、すごく驚いた顔してたんです。ん……。ずっとお守りとして持っている方が良かったのかも」

 俺の趣味が香穂子の好みにも影響を与えたのか、香穂子の服は、クリーム色やベージュなどの淡い色が多い。
 香穂子が身に付けている黒いコートと、深紅の唇は俺が知らなかった新しい香穂子を引き出している。

 俺の言葉に一喜一憂する香穂子が、愛おしくてたまらない。

 ホテルのドアを開けると、俺は香穂子の背を押して、そっと後ろ手にドアを閉めた。

「おや? 香穂子、どうしたの?」
「柚木、先輩……」

 あとをついてくると思っていた香穂子は、少し離れたところから、俺を見つめ続けている。
 1年前、出国するときも、夏、ロンドンから帰るときも。
 感情が壊れるほど激しく抱いたとき以外は、どんなときも気丈に泣くことのなかった香穂子が。
 今は、はらはらと涙を零しながら、俺のことを見守っていた。

 涙は、溢れ、繋がり、1つの川になって、それは、形のよい顎に伝って、落ちていく。
 水が、高いところから低いところへ流れ落ちて行くこと。
 それは、当たり前すぎる自明の理だ。
 2つの瞳から流れ落ちる涙が、1つになり、同化し、もはや元は別々の存在であったことも忘れさせる形になっていく。

 ── そんな存在に俺たちもなれたら、いい。

「してみる?」
「はい?」
「してみたかったんだろ? 『感動的な再会』」
「も、もう! そんなつもりで言ったんじゃ……」
「── 香穂子。おいで」

 有無を言わせない優しさを秘めた口調でそう告げると、俺は両手を広げる。
 香穂子は緊張したように、口元を引き締めると、1歩1歩近づいてくる。
 綺麗に整えられた指先で、涙をぬぐう。その仕草が愛らしい。

「何度も、夢を見たの」
「香穂子?」
「こうやって、柚木先輩と会える夢。
 夢の中でもね、今みたいに、柚木先輩、手を広げててくれるんです。優しそうに笑って」

 止まりかけていた涙が、また溢れてくる。

「でもね。胸に飛び込むと、自分の身体が柚木先輩を通り抜けてしまうんです」
「香穂子……」
「あわてて振り返っても、柚木先輩はどこにもいないの。
 いつもそこで目が覚めて。……えへへ。あの夢は、何度見ても慣れなかった。
 あんまり何度も見るから、正夢になっちゃうんじゃないか、って。
 ── もう2度と会えないんじゃないか、って思ったの」
「どうして俺に言わなかったの?」
「言っても……。なんだか曖昧すぎて」

 香穂子とのメールのやりとりを思い出す。
 あいつからくるメールは、いつも屈託がなくて、明るくて。
 家族や、周囲の友人、それとヴァイオリン。いつも暖かい色に満ちていて。
 それを微笑ましく思いながらも、こんなにも香穂子に依存している自分を戒める機会にもなっていた、というのに。

 抱き寄せるにはやや遠い、半歩向こうで立ち止まったまま、香穂子は俺を見上げた。

「ね。── 今日は、消えたりしないですよね?」
「香穂子」
「夢じゃないですよね?」
「……やれやれ。お前が来ないなら、俺が行くとしようかな」

 半歩の距離を一気に縮めて、俺は香穂子を抱き寄せる。

「ただいま。香穂子。夢じゃないの、わかる?」

 一瞬だけ怯えたように固くなった身体は、やがて、ふっと力が抜けて柔らかくなった。
 小さな手が、俺の輪郭を確かめるように辿っている。
 俺は香穂子の華奢な背をゆっくりと撫でる。

 久しぶりに味わう、人肌のぬくもり。
 張りのある弾力の中、やや細くなったように感じるのは気のせいだけではないだろう。

「長い間、寂しい思いをさせたね」
「ううん。それは……っ」
「ロンドンにいる間中、何を見ても、何を聞いても、お前だったらどう思うだろう、ってね。
 お前のいない間、俺は、俺の中のお前と話してて結構楽しかったよ」
「……そうだったんですか?」
「だけど、そんな状態にいる自分に、慣れたくはないと思った。
 想像の中のお前は、いつも泣き出しそうな顔ばかりしていたから」

 同じ夢を何度も見た、と香穂子は言ったが。
 ……俺も、寸分違わず、香穂子と同じ状況だったことを思い出す。

 コンクリートの、小さな1室。ベッドから見上げる天井の形は、多分一生忘れることはないだろう。
 不思議なことに繰り返し見続けたのは、制服を着ていた頃のコンクールの夢。
 それと卒業式でのコンクールメンバーと奏でた、アンサンブルの夢だった。

 共に奏で、共に笑い、共に競った。
 離れがたいほど、音楽と香穂子に執着した、あの頃の自分。
 香穂子は俺を選び、俺も夢中になった。
 音楽はあきらめざるを得なかったけど、香穂子はそばにいてくれる。
 初めて、本当の自分を見つめられる心地よさを知った。

 そこで背景は突然変わり、俺と香穂子以外の人間は消え、辺りにはまばゆいほどの桜吹雪が舞い始める。
 泣き腫らした香穂子が、桜の木の下で眠っている。
 どれだけ名前を呼んでも、肩を揺さぶっても、香穂子は目を覚まさない。── そんな夢。

 俺は、香穂子の涙を指で拭った。
 ぬくもりが、手触りが。弾力が、香穂子は今、生きているのだと伝えてくる。


「だから……。お前に言ってほしい。笑って、『お帰り』って」

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