「香穂子、おはよう」
「あ、おはようございます! 柚木先輩」
「……ペナルティ、その1だな」
「は、はい? ……あっ!」
「ま、10年も使い慣れた呼び方を変えるのは、難しいだろうけど」
*...*...* Rename 1 *...*...*
 家族も少なくなったのに、部屋数は多すぎて淋しいから、と梓馬さんのお母さまの意見で、
 結婚後、私は梓馬さんの家で一緒に住むことになった。

 一緒に、と言っても、私たちが使わせてもらっているのは、大きな庭を隔てた離れの一室。
 2人で暮らすには十分すぎるほどの広さで、柔らかい陽が入る南側からは、池を挟んで大きな母屋が見える。
 真夏のこの時期は、明け方に咲く薄桃色の水蓮が、池の端にひっそりと浮かんでいる。

 付き合って、10年。
 だけど、結婚して一緒に暮らすことで改めて知ることって、それこそ星の数ほどあるんだって、最近知った。

 例えば、お風呂。
 梓馬さんは、お風呂が好きなのかな、それともシャワーが好きなの……、とか。
 もし、夜に入ったのなら、朝は入らなくてもいいのかな、それとも朝はさらっとシャワーを浴びるのかな、とか。

 イギリスに留学していたころは、ちょうど季節が夏だった、ということもあって、ずっとシャワーだった。
 日本のような湿気もそれほど強くなかったから、朝夕、シャワーだけだったような気がする。

 食事については、よく、お姉ちゃんのお店に遊びに来てくれていたからかな。
 好みも、量も、大体はわかっているつもりだった。

 だけど。
 仕事で帰りが遅くなった日の夕食は、どれくらいの量にしたらいいのか、それともオードブル程度でいいのか、と迷ってしまう。
 本人に聞けば簡単、なのだろうけれど、なんだか尋ねるのも、さんざん意地悪を言われそうで、それもできない。

 ── ゆっくり、慣れていけばいいのかな……。

 梓馬さんの朝は早い。
 前日のうちに下ごしらえだけは済ませておいた朝食を、手早く用意する。
 私の家では、その日のお母さんの都合、ううん、冷蔵庫の都合によって、朝食は、パンだったり、ご飯だったりした。
 梓馬さんは、出された食事に対して、意見を言ったことはないけれど、
 なにげなく箸の動きを見ていると、和食の方がたくさん食べてくれる気もする。

「ごちそうさま」

 梓馬さんは、適当な量をおなかに入れると、きびきびと立ち上がった。

 要領の良さ、というのは、朝の過ごし方に現れるのかな、って思ったりする。
 梓馬さんは数種類の新聞に目を通すと、各新聞社の取り扱いの違いに目をやって。
 必要なところがあると、分厚い手帳に、メモをする。
 『A…2P』、『M…3P』、『N…0P』なんて書いてあって、私には把握しきれない記述ばかりだった。

「どうしたの?」
「あ、ごめんなさい。つい、覗き込んじゃいました」
「構わないよ。今の時代、情報を制す者が経済も制すからねえ。
 朝食の時間は俺にとって、情報収集の時間でもある」
「はい……」

 きっぱりとそう言われたら、私の、『お話をしながらご飯を食べたいな』なんてお願いはとても言えない。
 いかにも子どもっぽくって、呆れられそうな気がする。
 ……仕方ないよね。うん。

 彼のカバンを持って横に立っていると、梓馬さんは皮肉っぽい微笑を浮かべて笑っている。

「香穂子?」
「は、はい? あ、えーっと、なんにも思ってませんよ。私」
「寂しい、って顔に書いてあるぜ?」
「うう……。わかっちゃいました、か」

 結婚って、私の場合は、という条件がつくのかもしれないけれど、
 女の人は、男の人と比べて、かなり環境の変化がある、と思う。

 住むところ、でしょ? 名字。それに、仕事を続けるかどうか。
 子どもが産まれるともっと変わる。体型だけじゃなく、生活のリズムも。身近にお姉ちゃんを見てて、本当にそう思った。

 なのに、男の人はそれほど変わることがなくて。それで、それで……。

 一緒にいることができる大切な時間も、やっぱり……、仕事、って言われると自分の意見は、言い出せない。

 今週末はゆっくりお休み、取れるかな? そうしたらそのときいろいろ話せばいいよね。
 梓馬さんは、私のまぶたの端に顔を寄せると耳元で囁いていく。

「なるべく早く帰るから。お前はいい子で待っていて」
*...*...*
 梓馬さんを送り出したあと。
 ちょっとだけ朝のスケジュールにゆとりがあったのか、いつもお弟子さんのお世話に忙しいお母さまが訪ねてきた。

「あ、お母さま、おはようございます」
「ふふ。おはよう。香穂子さん。どう? 少しずつ、柚木の家には慣れてきたかしら?」
「は、はい! どうなんでしょう……? 自分ではよくわからない気がします」
「大丈夫よ? 少しずつで。のんびりとなさいな」

 結婚以来、梓馬さんのお母さんはなにくれとなく私を気遣ってくれる。
 そのせいか、私は特に宗家の仕事を手伝うように、という指示を受けたことがなかった。

『ゆるゆると馴染んでいけばよろしいのよ?』

 だから、基本的に今の私は梓馬さんのお世話と、お茶の淹れること。季節の花を生けること。
 その3つが、のんびりとした生活の中に乗っかっている。

 ありがたいのは、そんな私を、梓馬さんのお父さま、お母さまは、優しく見守ってくれている、ということだった。

「あの……。私、このままでいいんでしょうか?」
「よろしいのよ? ゆっくりで。梓馬さんの選んだ方なら、大丈夫でしょうから」
「えっと……。そんな。甘えるわけにはいきません!」
「まあ。香穂子さんったら」

 なにか出来ることから始めよう。だけど、伝統が大切な家で、知ったかぶりのことは絶対できない。
 だから、……なにがいいだろう。
 結婚から約1ヶ月が過ぎて。ようやく周囲を見渡せるようになったころ、考えたことがある。
 私の周りにある、高価そうな、調度。品のいい生け花。
 どんなに見つめていても、彼らはなにも答えてくれようとはしなかったっけ。

 ── 頑張らなくちゃ、って思う。
 柚木先輩の家が、普通の家の私とはかなり違う、ということ。
 それをわかってて。だけど、どうしても梓馬さんと離れたくなくて、私はあの人と結婚したい、って思ったんだもの。

 肩に力が入りすぎてて、絶賛空回り中、かもしれないけど、できることはちゃんとしなくちゃ。

「あなたはわたくしの娘分ですからね。どうお気遣いなくなさって? ね?」

 お母さまはひとしきり笑うと、手にしていた四角い箱をそっと私の胸元で広げた。
 黒いベルベットの上には、朝方に見た水蓮を思い出させる淡い光があった。

「これ、どうぞ、受け取って? 梓馬のお嫁さんに、と思ってわたくし、ずっと、取り置いておいたのよ?」
「ありがとうございます。指輪? わ、綺麗……」

 一言、お断りを入れてから、指に通す。

「私の誕生石なの。香穂子さんはジューンブライドでしょう?
 6月の誕生石の真珠も、あながちご縁がないとも言えないわよね」
「はい」

 どの指に通したらいいのかわからなくて、私はとりあえず、右手の薬指に輪を通す。
 すると、石は重みに耐えかねるように、くるりと下を向く。

「あ、あれ?」
「おほほ、香穂子さんは、わたくしよりも指が細いのね。
 ヴァイオリンをなさるあなたなら、案外左手の薬指の方がしっくりくるかも、ですよ?」
「はい……。やってみます」

 確かに長いことヴァイオリンに触れている人は、弦を押さえる左手の指の方が、筋張った形になる。
 音楽については素人なのよ、と笑うお母さまだけど、やっぱり長い時間、芸事に従事している方だからかな。
 ときどき、専門家しか知らないようなことをさらりとおっしゃる。

「あ、……ぴったり」

 吸い付くように薬指に納まった指輪は、私とお母さま、2人の顔を映していた。

*...*...*
 昼間、梓馬さんもお父さんもお母さんも。お祖父さまもそしてお弟子さんも出払って、シンと静まり返ることがある。
 電話が優しい音を立てると、私は慌ててメモを手に応対する。

「あ、あの……。柚木、でございます」

 未だに慣れない、第一声がこそばゆい。
 この家では、プライベートな電話よりも、宗家での行事に関する連絡の方が多い。
 こうなったら、むしろ、柚木家という看板を背負った会社で仕事をしてる、って考えた方が、
 『柚木でございます』という自分の声の照れくささを、押し隠すことができるような気がする。

 お祖母さまは、最近また脚が弱られた、ということで、ときおり手伝いの人が来ては、お世話をしていく。

(大丈夫なのかな……)

 お祖母さまと私と。家に2人きりしかいない日。
 私は思いきって、何本かの渡り廊下を通り抜け、お祖母さまの居間を訪ねた。
 手ぶらで行くのも、と、朝食の後に作った梅酒のゼリーも持って行く。

『最近食欲が落ちてきているみたい。……暑さのせいかしら?』

 お母さまが、ぽろりと漏らしていた言葉を思い出す。
 口当たりがいい、ってお姉ちゃんのお店でも評判だったもの。……どうかな、お口に合うといいな。

「失礼します。香穂子です」

 部屋の前で小さく声をかけると、中からは身じろぎの音がする。……あ、今日は起きていらっしゃるのかな?

「お入りなさい」
「はい」

 昼間でも薄暗い部屋。池のせいか、湿度のある中庭とは違って、この部屋は、すっきりと涼しい。
 お祖母さまの枕元の香炉から、細い煙がたなびいている。
 微かに梅の香りがするのは、そのせいだろう。
 私は、布団の脇ににじり寄った。
 お祖母さまは半身を起こすと、掛け布団の上に載せてあった羽織を肩にかける。

「どうですか? 香穂子さん。もうこの家の生活にも慣れましたか?」
「は、はい! ありがとうございます。お父さまやお母さまからも良くしていただいています」
「……そうですか」

 私と梓馬さんの結婚式の日、車椅子に乗りながらも、最初から最後までお式に参列してくれていたお祖母さまだけど。
 やっぱり疲れが出たのだろう。
 あの日以来、また、寝たり起きたりの日々を過ごしている。

「まあ、宗家のしきたりには、おいおい馴染んでいけばよろしいでしょう。
 素直な気持ちを失わない限り、人はどこまでも成長していけるものですし」
「はい。あの、よろしくお願いします」

 布団の上に佇んでいるお祖母さまを見つめる。また心持ち、身体が小さくなったような気がする。
 だけど、あたりを振り払うような威厳は、以前より、強い。
 中高の頬の肉が落ちたのか、一回り大きくなったような目の形は、梓馬さんの鋭い視線とよく似ている気がする。

「あ、あの、お祖母さまの食が進まない、ってお母さまから聞いたものだから」
「香穂子さん?」
「お口に合うと嬉しいんですけど」

 私は、手にしていた包みを広げると、お祖母さまの前に差し出した。

「これは?」
「あの、梅酒のゼリーです。口当たりがよくて、梓馬さんの好物だから、って、今朝作ったんです」
「おや、そうでしたか。せっかくだからわたくしも頂きましょう」
「はい……。どうぞ」

 私は、お盆の上にスプーンとお手拭きを用意して、小さなグラスに水を注いで、お祖母さまに差し出す。

 お姉ちゃんのお店を手伝っていた頃、お姉ちゃんは、下げられた器の中身を見ては残された量をチェックしていた。
 多ければ、味付けに問題があったのかなと思い直し、舐められたようにきれいな器が返ってくればそれだけで喜んでいたっけ。

 お祖母さまが、静かにスプーンを手に取った。
 ぴん、と部屋中の空気が白くなったような気がする。……緊張、する

 今になって、お姉ちゃんの気持ちがわかる。
 きれいに食されたからっぽの器は、料理人にとって、最大の褒め言葉なんだ、って。

 血色の薄い唇は、ゼリーをゆっくりと咀嚼している。
 思えば、最近は、梓馬さんは、私の作るどんな料理でも美味しそうに食べてくれるのを見ていたから、
 一口食べたあとの第一声を、こんなに緊張して待ったことはなかったっけ……。

「どう、でしょう? あの、ちょっと梅酒が濃かった、でしょうか?」

 おそるおそる尋ねると、お祖母さまは、ほっと柔らかい表情で私を見上げて笑った。


「── 可愛い孫娘ができたものだこと」
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