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「お姉さま。ふふ。今日も遊びに来ちゃった」
「あ、雅ちゃん!」

 のんびりとした昼下がり、涼しやかな水色のワンピースを着た雅ちゃんが、小さな紙袋を下げて ひょっこり遊びに来てくれた。

『たまに軽そうな人から声かけられるのよ? イヤになっちゃう』

 この前会ったとき、不機嫌そうにそう漏らしていたことを思い出す。
 艶のある、長い髪と、ふっくらと触ってみたくなるような白い頬。
 若くしてお母さんになった雅ちゃんは、大人、というよりも、今もずっと可愛らしいままの少女に見える。

「ふふ、わたし、香穂子さんのこと、ずっと『お姉さま』って呼んでみたかったの。嬉しいわ」
「あ、ありがとう……。でもなんだか、恥ずかしくって」

 結婚って、生まれ育った環境が違う者同士が一緒に住むこと……。って分かっていたつもりなのに。
 私を取り巻く環境は、大きく変化した。
 その1つが、柚木先輩の家の中での私の立場だと思う。

 電話での応対も、『柚木でございます』と、慣れない言い回して、新しい名前を告げなきゃいけないかったり。
 頭では理解していても、言い慣れてない名字は、意味をなさない音律の1つに思えてくる。
 一緒に暮らしていてもなお、私は柚木先輩と結婚したことに、まだ実感がないのかもしれない。

『お姉さま』

 なんて、自分のことを『さま』づけで呼ばれたりするのも、恥ずかしくって、いたたまれなくなる。
 大体、私のお姉ちゃんは、私にとってはずっとお姉ちゃん。『ちゃん』づけのままだもの。

「お姉さま。美味しい和菓子が手に入ったの。一緒にいただきましょう?」
「ありがとう……。いいの?」
「この時期限定の、あじさいの練切なの。美味しいのよ? このお店」

 とっくの前にお母さんになった雅ちゃんは、お子さんがもう幼稚園に行っているとかで、
 昼間は自由な時間があるからか、よく、実家に遊びにきてくれる。
 柚木先輩のお姉さんやお兄さん、お兄さんのお嫁さんは、年も離れているからか、
 親しい関係、と胸を張って言い切れるまでお話をしたこともなくて。
 私は雅ちゃんの訪問を心待ちにしてる部分があった。

「どう? お兄さまは優しい?」
「え? 柚木先輩……、じゃなくて、梓馬、さん?」
「そう。梓馬お兄さまのこと」

 雅ちゃんは大人っぽい表情で私の言い間違いに微笑むと、早速和室に入ってお点前の準備をしている。
 そうだ……。
 3時のお茶の時間は、紅茶だけじゃなく、ちょっとした時間があるときは、お抹茶を出す、というのもこの家に来て初めて知ったっけ。

『お前のことだ。大丈夫だろう?』

 梓馬さんは、私の髪を撫でて、励ましてくれたけど。
 結婚して2ヶ月は、本当に大変だったと思う。
 お抹茶の量と、お湯の温度、茶せんの回し方の間に、ある一定のルールがある、と知ったのは、本当にここ最近。
 この調子でいけば、秋を過ぎる頃に、やっとお母さまにも飲んでいただけるレベルになれる、かもしれない。

「ん……。結婚して1週間くらいは早く帰ってきてくれていたんだけど、最近は、また海外出張も多くて」
「お姉さま?」
「── 少し、淋しい、かな?」
「まあ」

 お抹茶が、満足いく状態に仕上がったのだろう。
 雅ちゃんは、器の中に落としていた視線を上げると、弾けるように笑った。

「お兄さまはお幸せね。わたしは、主人がいなくて淋しい、なんてあまり思わないもの。
 今夜は夕食は要らない、って連絡が入ると、メニューも簡単にできて、良かった、って思うわ。
 わたしと子どもの分くらいだったら、あっという間に作ることができるし」
「あはは。もう少ししたら私もそうなるのかな?」
「きっとそうよ」

 10年も一緒にいて、飽きることを知らなかった私が、梓馬さんがいない方が良い状態、というところまで行き着くことができるのかな。
 ── 一生、無理かも。

 あじさい色の和菓子だから、と、お皿の上に置く懐紙も、柔らかなピンク色を選ぶ。
 雅ちゃんは、目を輝かせて、お皿を持ち上げた。

「懐紙は白、って思い込みがあったけど、この懐紙、素敵ね」
「ありがとう……。可愛いな、って思ったら衝動買いしてたの」
「そういえばね、お姉さま。この前、こんなことがあってね」

 雅ちゃんは、楽しそうに話し始める。
 姉妹の楽しさは、お姉ちゃんがいることでたくさん教えてもらった、って思っているけど。
 妹の私は、妹がいる楽しさを知らなかったから。
 年の近い、しかも、大好きな人の妹と、こんなに親しくなれるなんて、本当はすごく幸せなことなのかもしれない。



 ダイニングの時計が、小さな音楽を鳴らした。
 雅ちゃんは、首をかしげて音を聞き分けると、白い手首を翻して文字盤を見つめている。

「楽しい時間ってあっという間ね。わたし、そろそろ子どもが帰る時間だからおいとましなくちゃ」
「あの、今日はありがとうね? すごく可愛いお菓子だった。ごちそうさま」

 雅ちゃんは姿勢よく立ち上がると、玄関の車寄せに向かった。
 ゆっくりと話しているうちに、外では霧雨が降っていたらしい。
 石畳の道はしっとりと湿り気を増して、端っこに生えている苔が気持ちよさそうな色をして、こっちを見ている。

「田中。悪いわね。自宅まで送っていってくれる?」

 車の手入れをしていた田中さんは、雅ちゃんに恭しく一礼すると、私の方を振り返った。
 黒塗りの車は、薄日を反射して、顔が映りそうなくらい艶々している。

「は。かしこまりました。日野さま……。いえ、香穂子さまは、この後ご予定はありませんか?」

 一礼をされたあと見上げる瞳には、優しそうでいて、今までとは違う。
 身内の人間への親しさがある。
 下の名前で、しかも『さま』づけで呼ばれたことに赤面して、私はあわてて言い返した。

「田中さん……。あの、今まで通り、日野、で結構です」
「しかしながら、日野さまはもう日野さまではいらっしゃいませんので」
「あ、そうか……。あ、ごめんなさい。私、今日は特に予定はありません」

 ぺこりと、頭を下げて答えると、雅ちゃんはそんな私を取りなすかのように笑っている。

「お姉さまったら、可愛い」
「うん……。なかなか慣れないの」

 こんな調子じゃ、『お姉さま』と呼ばれていても、どっちが年上かわからない、って思う。
 だけど、結婚については、雅ちゃんの方がずっとずっと先輩だもの。
 いろいろ教えてもらわなきゃ、だよね。

「ふふ。そのうち、お姉さまも慣れてくるわよ。わたしも、最近は、『柚木』って聞いても振り向かなくなったわ」
*...*...*
「今日はなにしてた?」

 帰宅後、柚木先輩、……えっと、違った。梓馬さんが尋ねる。
 おっちょこちょいの私を気にしているのかな。お仕事に余裕があるときは、1日に何度か電話をくれる。
 雅ちゃんが帰ったあと、携帯を覗き込んだら、2件の着信があった。

「いろいろ、呼び方が変わって、大変でした……」
「は?」

 私はかいつまんで説明する。

 娘分。孫娘。柚木でございます。お姉さま。香穂子さま。

 人に誇れるほど立派なアイデンティティなんて、持ってないけれど。
 梓馬さんの家と、私の家。どうにも、今まで育ってきた環境とは違いすぎるんだもの。

 梓馬さんはネクタイの結び目を緩めると、私を見てまぶしそうに笑った。

「男は、結婚しても一般的に名前も変わらないし、生活も変わらないことが多いから。
 女のお前には苦労をかけるね」
「ううん。そんな」

 大変だ、と思っても。そして、実際、本当に大変だ、とは思うけれど。

 こうして、夜、少しの間でも、私が思ったことや感じたことを話す相手がいるということ。
 そして、私のいろいろな思いをねぎらって、褒めてくれる人がいるということ。

 家に馴染んでいくという大変さが、すべて、この大好きな人へと繋がっていると思えること。

 それは、私にとって、すべて大変じゃないということを意味していると思えてくるから不思議だ。
 夕食を終えた後、梓馬さんは私の髪の毛をかき上げながら呟いた。

「お前と結婚して……」
「はい?」
「結婚というシステムは、男側としては、いろいろ心境に変化はあるってことを知ったよ」
「そうなんですか?」
「そう……」

 頬に柔らかい唇が降ってくる。

「なにもかも投げ捨てて来てくれた女をちゃんと幸せにできるか、とか。── 守ってやれるか、とかね」
「柚木先輩?」

 言い間違えた、と、一瞬気恥ずかしくなったけれど。
 柚木先輩は、取り立てて指摘をすることなく、優しそうな表情を浮かべたまま微笑んでいる。

「お前に出会っていなかったら、多分、俺は、結婚という面倒なことはしてなかっただろうな」
「ひどい……。面倒なんですか?」


「お前に対する責任、というのかな。……重くて、それでいて心地良いよ」
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