今日から師走、という日。
 この家は和風の家屋だからか、暑い夏は凌ぎやすいものの、秋の終わりから春の初めまで冷え込む日が続く。

「おはようございます」
「ああ。おはよう、香穂子」

 軽く頬をすり寄せ、ベッドを抜け出す香穂子の顔色が少しだけ白い。
 俺はこの家で生まれて過ごしてきたから、この寒さにも慣れている。
 でも、香穂子にとっては、柚木の家に来て初めての冬だ。
 仕事が一段落したら、なにか香穂子が暖かくなれるものを見繕ってみるのも悪くない。

 そこまで考えて、俺は今日やらなければならない仕事に考えを巡らせ、ため息をついた。

「朝ご飯できましたよ? そろそろ起きること、できそうですか?」

 朝、香穂子は3種類のシャツに3種類のネクタイを持って、俺の隣りに立つ。
 長い付き合いがそうさせるのか。それとも、料理の腕前を上げるうちに、自然に滋味ある配色を覚えたのか。
 香穂子の色の好みは、俺にしっくりと合っている。
 俺は香穂子の腕から、ベージュ色のシャツと、濃い緑のネクタイを選んだ。

 頭の中では、昨日見た数列が、目の端でチラチラとうごめいている。
 数字の羅列が並んでいる決算報告書も、何百枚も解析し続けると、ある一定のリズムがあることが分かる。
 集中力の限界を超えたとき、いつも浮かぶ感情は、フルートを奏で目の前で音符が踊るように見える一瞬だ。

 ── いいものだ、と思う。
 目的は何であれ、物事にあれほどまでに集中した、という記憶は、今の俺を助けてくれているような気がする。

 相手の逃げ道をふさぎつつ、どう攻めるか。
 理論だけなら簡単だが、古くからの感情が交じると難しい。

 香穂子は俺が上の空なのを感じたのだろう。
 白い指でネクタイの位置を整えると、俺の顔を見上げた。

「今日も遅いの?」
「年度末の会計の時期でね。ちょっと目が離せない」
「はい……」
「兄たちに任せておいたのが問題だった、ともいえるかな」
「え?」
「……親の代からの付き合いだから、今までまるで気が付かなかった」
*...*...* Sweet 1 *...*...*
「梓馬さま……」
「なに? 田中」
「少しお疲れが出ているように見えますが」
「ああ。まあね」

 日頃無口を決め込んでいる運転手の田中が、不安そうに振り返る。
 俺はため息をついて、窓の外を眺めた。

 大学の専攻で経営学を学んだこと。
 それに、語学が2人の兄たちより優れているということも手伝って、
 俺は、大学院を卒業してから、柚木の家が経営している海外部門会社の1つを任されるようになった。
 語学と、経営学を生かした場所を、ということで与えられた場だったが、
 元々、この手の類のことは、嫌いではなかったのに加え、
 自分の力量でどれだけでも開拓の余地がある職場だということで、それなりにやりがいも持っていた。

 俺が着任したとき、半田、という俺より5つ年上の男が、この会社の成り立ち、経営状況まで細かく説明してくれた。

 俺が生まれる前から、この部門には彼の父が陣取り、今の半田は、その2代目だ。
 元々、この道を選択することを幼い頃から考えていたのだろう。
 半田は、申し分ないスキルを身につけて今のポジションに飛び込んできたという話だった。

(あの半田が、改ざんを、ね……)

 柚木の家の土台となる本体の会社は、年に4度の四半期短期決算から連結決算まで、
 必ず外部から人を呼び複数人で監査している。
 しかし半田管理していたこの会社の決算書は扱う額もあまり多くないことから、この10年すべて半田1人に任せていたらしい。

 ── 魔が差した、ということだろうか。

 俺が見るに、最初の改ざんは5年前。誤差と言っても差し支えないほど微々たるモノだ。

 それが、年々、年を追うごとに額が増えていっている。
 去年などは、彼自身の年収の倍ほどの額が見事に改ざんされている。

 半田が提出した四半期連結キャッシュフローに誤りがある、と気づいたのは1週間前。
 あの手の書類は、飾りの部分を取り払えば、とてもシンプルな1枚のマトリックスに過ぎない。

 その日以来、俺は半田がこの部署に就いてからの10年のデータを探し出し、印刷をした。
 PCが世に出回る頃、すべてのことはディスプレイ上で解決できる。紙は不要になる。
 そう言われて久しかったが、やはり人の目は、かすかに揺れ続ける画面よりも、
 紙の上に書かれていることの方を素直に信じる気になるらしい。
 俺は、細部まで確認したいと思うことは必ず紙に出してみることにしている。

 車を降り、真っ直ぐ自分の個室へと向かう。
 廊下ですれ違う社員は、みんな深々と俺に一礼する。
 一族が経営する会社に勤める社員というのは、良い意味でも悪い意味でも、世故長けていると思ったりする。
 年功序列でも能力別でもない。ただの血筋、血統。それだけで若輩者の俺を形だけでも評価しなくてはいけない。

「へえ〜。来年、子どもが産まれるんですか? 半田さん」
「ああ。やっとね。3年越しで待っていた子なんだよ」
「半田さんも、いよいよパパか〜。おめでとうございます」
「ありがとう。また見に来てやってね。家内も喜ぶから。あ、おはようございます。柚木さん」
「あ! 柚木さん、おはようございます!」
「ああ。おはよう。2人とも」

 楽しそうに話をしていた半田と事務員は、俺の姿を認めると、きびきびと挨拶を返した。
 この年で、『専務』などと呼ばれることに抵抗があった俺は、すべての社員に『さん』づけで呼ばせるように促していた。

 ふぅん……。なるほどね。半田に、子どもが、か。
 社内で個室が与えられている俺は、昼食時や、こうした朝の廊下でのやりとりは貴重な情報源だ。
 半田に目をやる。
 血色の良い丸顔はからりと明るく、俺が突き止めた昨日の事実は、ただの間違いだったようにも思えてくる。

「ねえ、半田。今日の君の予定は?」
「はい。10時から、Stephenさんと打ち合わせが入っています。
 彼と昼食を共にして、14時からでしたら時間が取れると思います」
「そう」
「あの、なにか?」

 事務員はうっとりとした表情で、俺と半田を交互に見つめている。
 今、事を荒立てるより、午後からゆっくり話し合った方がいい、か。

「じゃあ、14時に、僕の部屋に来るように。いいね?」
*...*...*
「柚木さん。失礼します」
「ああ。お入り。待っていたよ」

 午前中、それほど頭を使わなくてもできる、だけど、仕事のほとんどはそういう雑事で占められているのではないかと思うような
 簡単な仕事をこなしながら、俺は、昨日揃えた証拠一式の入った封筒をちらちら見つめていた。

 半田の捏造した額が問題というのではない。隠蔽する、という姿勢と、過去数年にさかのぼるその行為が問題なんだ。
 何度もそう自分に言い聞かせる。
 ── 悪いのは俺ではない。会社に損害を与え続けているあの男なのだ、と。

「Mr. Stephenは、なんておっしゃっていたの?」
「いえ、今日の彼は完全に休日モードでした。アメリカではもうクリスマス休暇に入る季節ですから。
 来年も一緒に頑張りましょう、とおっしゃって、ご機嫌に帰られましたよ」
「そう。無事接待もすんだ、と」
「はい。そうですね」
「ところで、今、君を呼び立てたのは他でもないんだけど」

 俺はそう言って、証拠が入った書類を手渡した。

「なんでしょうか? ……これは?」
「僕がなにを言いたいか、賢い君ならわかるでしょう?」
「柚木さん……」
「兄たちはごまかせても、僕はごまかせないよ。過去5年の隠蔽工作。特にこの2年は巧妙な手口だったと思う」

 みるみるうちに、半田のこめかみには汗が噴き出てくる。

 優秀な部下だと思い、今までずっとあてにしていた。
 兄たちや、父。祖父の代まで顔見知りだ。
 半田が辞めたことを知ったら、あの人たちもかなり困惑するだろうことは容易に想像がつく。
 ……だけど。

「君に温情を出そう。このまますぐ辞めてくれれば、罪には問わない。警察にも知らせない。
 父や兄たちにも伝えないでおきましょう」
「すみません……。出来心で。本当に。つい……っ」

 俺は、半田から目を逸らすことなく、きっぱりとした口調で告げた。


「申し訳ないが、僕が君にできることはここまでだよ」
*...*...*
「ただいま、香穂子」

 重い脚を引きずって、ゆっくりと自宅の引き戸を開ける。
 小さな門灯が付いている。香穂子はまだ起きているのだろうか。

 遅くなるときは先に休んでいてと伝えても、梓馬さんは働いているのに私が休んでいたら申し訳ないから、と言う。
 ここのところ、どこかけだるそうな様子を見せているあいつだから。
 無理にでも、先に眠るように伝えておけばよかったかもしれない。

 そう思いながらも、今日の俺は香穂子のような話し相手が欲しいところだった。
 話したところで、俺の今日の決断が覆るわけではない。
 でも、あいつと話をするだけで、俺はいつも救われた気持ちになる。

「お帰りなさい。お仕事お疲れさま」
「ああ。ちょっと着替えてくる」

 堅苦しいネクタイをほどいて、和服を羽織る。
 キッチンで手早く料理を整える音が聞こえてくる。
 半田と別れてから、立て続いて急な打ち合わせが入ったから、あまり時計を見ることもなかったが。
 時計の針は直立している。今日はあと30分しか残されていない。

「男の人って大変ね。私のお父さんもよくこんな時間に帰ってきてたような……」
「そう?」
「お母さん、私を寝かせつけたあと、そーっと布団を抜け出してたの、よく覚えています。
 私も追いかけよう、って思うんだけど、睡魔に負けてそのまま、ってことが多かったかな」

 香穂子と話すたび、俺の育ってきた環境と香穂子のそれとはずいぶんな隔たりを感じる。
 小さい頃から個人個人に個室を与えられ、俺自身、いや、俺以外の兄弟だって。
 柚木の家では、誰一人親と眠りにつく、ということは考えられなかった。

 いや、毎晩香穂子を抱きかかえて眠るようになった今では、俺自身、もう1人寝に戻れる自信はないような気がする。

 テーブルの上には、今夜も香穂子の心づくしが並んでいる。

 結婚を経て、香穂子の生活は大きく変わった。
 時折、Pオケには顔を出すものの、優先順位が変わった、ということなのだろう。
 基本的に、香穂子は柚木の家にいて、祖母や母にいろいろなことを教わっているらしい。

 だけど、手持ちぶさたになる夜の時間は、やはり音楽は香穂子の支えになっているのだろう。
 離れの、周囲に音が届かない一室で、ヴァイオリンを奏でたり、ピアノを弾いたりして、俺の帰りを待っている。
 
「いただきます」

 箸置きに載せられた箸を手に取る。

 半田の青筋の走った額が目に浮かぶ。
 俺は俺なりの判断で最善の道を選んだつもりだったが。
 明日から、生活に困るであろう、半田の家庭が心配でもあった。
 ── 半田はどうするのだろう。
 俺の気にする範疇ではない思いながらも、俺の気持ちは、半田本人だけではなく、半田の家族にまで思いが及ぶ。

「3回目、です」
「は?」

 突然の話しかけに顔を上げると、香穂子が苦笑を浮かべて小鉢を並べている。
 柔らかな微笑は、俺だけに向けられていた。

「3回目って?」
「今日、テーブルについてから梓馬さんがため息をついた数、です。
 ── あまり無理はしないでくださいね」
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